鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

やっとたまっていた原稿5本のうち3本を仕上げた。

2008-04-07 23:18:44 | 直言!
3本のうち2本が割りと時間がかかった。取材メモを何回も見ては記事おこし、時間がかかった。
そしてその合間を縫って取材のためのメールやFAX送信などしながら明日連載の原稿もバソコン入力をした。
やっと終わった。しかし仕事は新たに電話取材が入っているのでまた明日からこなしていかないといけない。
銀行に行って済ませる所用もあるが明日雨が降っていなかったら外出をしょうかとも考えている。
それが今外で雷の音がしたような気がする。
奈良県南部は大雨と言っている。ここは奈良県の北部になる。
そして関東の方では今日は雨風になったという。
なんかおかしい。地球に何か変動がおきているのだろうか。
橿原のK百貨店で源氏物語の人形展が開かれている。9日までの開催だが行きたいと思っていたが仕事が入っていけなくなった。
京都の細田美術館は確か5月まの連休の終わりと聞いているが----。

民団新聞4月2日付けの1部を転載。
光源氏名付け親
「日本人とは」司馬遼太郎も探究の地

 源氏物語第一帖「桐壷」では「高麗の相人」という人物が重要な役割を果たしている。ときの天皇(桐壷帝)の第二皇子はたぐいまれな美貌の持ち主で、彼の将来を案じた天皇は、高麗人の相人(観相学を行う占い師)に皇子の未来を占わせた。相人は、「帝王の位に上るほどの顔相だが、そうなれば世が乱れるかもしれない。かといって、補佐役という相でもない」と告げた。その託宣に天皇は、災いを避けるという理由で皇子を臣籍に降ろし、源氏を名乗らせる。

 だが、高麗の相人が皇子の美貌をあまりにもほめそやすので、彼は「光の君」と呼ばれるようになった。『光る君といふ名は、高麗人(こまうど)のめできこえてつけたてまつりけるとぞ言ひ伝へたるとなむ』と「桐壷」帖の最後に書かれている。高麗の相人は、光と源氏それぞれの命名に関係し、彼の運命をも暗示させる重要な役割を担った。この高麗人とは渤海人のことと考えられている
この文章は民団新聞4月2日に掲載された文章の1部を転載した。全体の記事は
民団新聞ホームページを検索して下さい。
http://mindan.org/shinbun/news_view.php?page=13&category=6&newsid=9560

民団新聞の中の記事は編集局が担当しているが私は写真を担当した。
3月8日、大津市内で開かれた多文化共生シンポの現場取材の前に石山寺に行って写真を撮った。
門のところは平地なので何も苦にならなかったが「紫式部の銅像」の写真撮影は大変だった。小高い山の上に設置されている銅像、山肌をつづら折りにして階段が作られている。その階段は約200段、手すりのないところもある。登るときは必死で登ったが降りるときはもうまたこけないように必死になった。降りるときの恐怖でその後の写真撮影を忘れてしまった。また違う山道を歩いていくと紫式部が源氏物語を書いたといわれている建物と紫式部の文献資料がある建物の撮影をすっかり忘れていた。気がついたときには山門の近くまできていた。もう1度行く元気もなくて帰ってきた。
民団新聞に記事と写真が掲載されましたので私が撮影してきた紫式部の銅像を1枚紹介しておきます。

今夜はここまでにして休むことにしよう。

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