鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

10月19日(土)朝は雨が降っていたのに今はやんでいる。

2013-10-19 09:56:08 | 直言!
昨日はまたバタバタしていた。

昨日、夫が目薬が切れているという。
それで私もその眼科の2階にあるコンタクトレンズセンターによって洗浄液を買わないといけないので9時過ぎにパソコンを閉めて10時15分頃、自宅前から市内循環バスに乗った。10時半に近鉄奈良駅について近鉄奈良駅近くにいる眼科に寄って夫の目薬をもらった。カルテをみれば分る。私に目薬を取りに行かせて診察をしていないのが分る。女医さんが夫が来ないことに不思議られた。
「風邪をひいて寝ています」といったら。「まだ若いのに」とおっしゃった。
あれ。カルテを間違っているのかと思って私は怪訝な顔をした。
女医さんは「14年(昭和のこと)生まれでしょう。若いです」とおっしゃった。私は一瞬、はっと思ったが、今や人生80年、90年から見ると74歳の夫は若くなるらしい。そして私はまたはっとした。69歳の私はもっと若いのかと気付かされた。なるほど、年をとったと思ったら駄目なんだと、考えさせられた。そうか。なるほど人生80年、90年ということはこういうことなのか。
私の親は70歳半ばで生涯を終えた。
日本植民地された朝鮮半島の出身です。1世です。
母親の最初の日本は大阪府柏原市も9歳の渡日です。フアスナー工場で働き学校はいっていない。父親は上に2人の兄がいたが生まれてすぐに亡くなっている。父親が生まれて祖父はそんな弱い子は見たくない。それに日本植民地当時で、村では豪農といわれた由緒のある家柄だったが日本に土地を取られた。祖父はその身分に耐えられなかったのか。日本で一旗をあげようと日本の京都南区にやってきた。後を追いかけて父親と曾祖母と祖父の連れ合いで父親の母親、祖母そして父親の姉を伴って京都に来たのが5歳です。京都市立小学校に通い成績優秀だったのが祖母の自慢だった。
父親は自分のことをよく知っていたのか戦前は軍需工場で働いたが戦後は京都の会社で働き定年退職まで働いた。地道な会社員になった。母親は会社員の給料では本家の家計ができない。リヤカーを押して廃品回収業をして家計を支え子どもたち、女の子は高校を卒業させ習い事をさせた。私はそれに反発してOLになって夜間の洋裁学校に通った。男の子は大学まで行かせた。母親の仕事を弟が継いだ。弟は大学卒業時、就職が決まっていたが父親は本家の祭祀のことを考えた。日本の会社員になると転勤族になると確信して、母親の仕事を継がせて地域に根付かすようにした。弟が母親の仕事を継いだ理由です。弟が大学に行きアルバイトで母親の仕事を覚えて今は小さいながらも経営者です。
そんな礎を作った親の人生は肉体的も精神的も過酷な人生だったのか。親2人とも70代半ばで他界している。
私も夫も他界した親の年齢に近づいてきて体調のことを考えるようになった。
自分の物差しと世間の物差しとは違うのかと考えさせられた。
夫に頼まれた物を購入しなければなせない。
さてこれから身支度して外出です。
また---。
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