今日は10時に外出の支度をして神戸の元町にいかなければならない。
日本植民地支配から解放されて63年、大韓民国が建国されて60年になった。
1・2世は民族団体に関係する。しないに関わらず心の中にいろんな思いを秘めてきた。
幸いに私は田舎町で育ったのでそう強い差別はなかった。多少小さいことはあったが1つだけ記憶に残っている程度でそう心に衝撃を受けるものがなかった。
国籍を隠したところですぐにわかる小さな田舎町、そして国籍を隠して後から周りに知れるほどみじめなものはないということも父親が何度も言い聞かせていた。
いつもどこにいても結婚してもどこで暮らしても国籍を隠さないで生きてきた。
しかし世の中の在日コリアンは私のような人ばかりでなかった。
結婚して国籍を隠し通す身内に閉口した。また高校時代の友人の隠し通すことにも私の性に合わなくて閉口した。
高校時代の友人とは40代初めから50代の終わりまで会いたくないと思うようになった。このころ高校時代の友人と誰とも会わないでいた。
しかし日本国籍に変えると在日コリアンを見下すことができるのかその垣間を見たときはもっと会いたくなくなって高校時代の友人から遠ざけた。
しかし1人、私の老後を考えてくれる友人がいた。老後を寂しくさせないように考えてくれたのか、私が皆と会うように仕向けたくれた。
彼女の心優しさは無視してはいけないと考えて還暦を過ぎてから会うようになった。
在日コリアンという枠のなかでいろんなことがあったがこれは人生の中で衝撃なことだった。また夫の身内にも困り果てて夫にまで私が悪者に思われていたときも情けなかった。
心にいろんな思いを持ちながら京都市内で生まれ学校時代を過ごした夫の人生には京都人独独の差別にも遭遇してきたのだろう。
自分のアイデンテイテイから逃げようとするところもあった。
そのたびに夫と意見の相違で大変だった。
自分のアイデテイテイに思いがあっても幼年期に過ごした体験は夫も高校時代の友人にもそう簡単に取れないのだろう。
そう思うと私は木津町という田舎、恵まれた周りで育った。
親が真面目に必死に生きてきたのでいつのまに町の人たちには信頼される地域の人になった。
裕福でもない。ただ親は必死に働いて働いて経済構築をしたのでその姿は町の人が見てきた
どちらかというと日本の会社の会社員で生きた父親より廃品回収業をして一代で築いた母親の商いに町の人たちから慕われた。町の人は母親のほうをよく知っていた。
そんな親は1世で日本にやってきた。
日本植民地時代、朝鮮総督府に土地全部略奪されて日本に来た、父親は5歳、京都市南区に来た。母親は9歳で大阪府柏原市に来た。
それから3世の命を繋ぎ私は孫がいるので4世の命を繋いだ。
4世はダブルの血になり日本国籍の子どもになった。
時代の変遷は3世から急激に始まった。
家に民族素養もない親たち、学校教育は日本の学校教育で周りは日本の友人たちばかりである。2世と違った環境で育った。2世の人生の致命傷は日本人との恋愛は絶対的にご法度だった。
1世の背中を見た2世は親の言う通りに結婚した。
3世は2世の心の傷の轍を踏ませたくないという思いのほうが強かった。
子どもの選択に任せた。
果たしてこれが良かったのか。悪かったのか。今も分からない。
これからもどんどん在日コリアンの社会は変っていくだろう。
今の内に2世の思いを記録にして残していかなければならない。
そんな記事の1つの現場、今日の現場である。
それにしても暑いな。
もう、うんざり、夏はアキタ。秋田に避暑する自前のリゾートがあればいいがそんなのは夢の夢、せいぜいかき氷で避暑気分。
日本植民地支配から解放されて63年、大韓民国が建国されて60年になった。
1・2世は民族団体に関係する。しないに関わらず心の中にいろんな思いを秘めてきた。
幸いに私は田舎町で育ったのでそう強い差別はなかった。多少小さいことはあったが1つだけ記憶に残っている程度でそう心に衝撃を受けるものがなかった。
国籍を隠したところですぐにわかる小さな田舎町、そして国籍を隠して後から周りに知れるほどみじめなものはないということも父親が何度も言い聞かせていた。
いつもどこにいても結婚してもどこで暮らしても国籍を隠さないで生きてきた。
しかし世の中の在日コリアンは私のような人ばかりでなかった。
結婚して国籍を隠し通す身内に閉口した。また高校時代の友人の隠し通すことにも私の性に合わなくて閉口した。
高校時代の友人とは40代初めから50代の終わりまで会いたくないと思うようになった。このころ高校時代の友人と誰とも会わないでいた。
しかし日本国籍に変えると在日コリアンを見下すことができるのかその垣間を見たときはもっと会いたくなくなって高校時代の友人から遠ざけた。
しかし1人、私の老後を考えてくれる友人がいた。老後を寂しくさせないように考えてくれたのか、私が皆と会うように仕向けたくれた。
彼女の心優しさは無視してはいけないと考えて還暦を過ぎてから会うようになった。
在日コリアンという枠のなかでいろんなことがあったがこれは人生の中で衝撃なことだった。また夫の身内にも困り果てて夫にまで私が悪者に思われていたときも情けなかった。
心にいろんな思いを持ちながら京都市内で生まれ学校時代を過ごした夫の人生には京都人独独の差別にも遭遇してきたのだろう。
自分のアイデンテイテイから逃げようとするところもあった。
そのたびに夫と意見の相違で大変だった。
自分のアイデテイテイに思いがあっても幼年期に過ごした体験は夫も高校時代の友人にもそう簡単に取れないのだろう。
そう思うと私は木津町という田舎、恵まれた周りで育った。
親が真面目に必死に生きてきたのでいつのまに町の人たちには信頼される地域の人になった。
裕福でもない。ただ親は必死に働いて働いて経済構築をしたのでその姿は町の人が見てきた
どちらかというと日本の会社の会社員で生きた父親より廃品回収業をして一代で築いた母親の商いに町の人たちから慕われた。町の人は母親のほうをよく知っていた。
そんな親は1世で日本にやってきた。
日本植民地時代、朝鮮総督府に土地全部略奪されて日本に来た、父親は5歳、京都市南区に来た。母親は9歳で大阪府柏原市に来た。
それから3世の命を繋ぎ私は孫がいるので4世の命を繋いだ。
4世はダブルの血になり日本国籍の子どもになった。
時代の変遷は3世から急激に始まった。
家に民族素養もない親たち、学校教育は日本の学校教育で周りは日本の友人たちばかりである。2世と違った環境で育った。2世の人生の致命傷は日本人との恋愛は絶対的にご法度だった。
1世の背中を見た2世は親の言う通りに結婚した。
3世は2世の心の傷の轍を踏ませたくないという思いのほうが強かった。
子どもの選択に任せた。
果たしてこれが良かったのか。悪かったのか。今も分からない。
これからもどんどん在日コリアンの社会は変っていくだろう。
今の内に2世の思いを記録にして残していかなければならない。
そんな記事の1つの現場、今日の現場である。
それにしても暑いな。
もう、うんざり、夏はアキタ。秋田に避暑する自前のリゾートがあればいいがそんなのは夢の夢、せいぜいかき氷で避暑気分。
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