鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

5月29日(土)晴れているが肌寒い。

2010-05-29 08:59:01 | 直言!
今日は宇治市に行かないといけない。
JR宇治市駅近くが現場でJR奈良駅から電車を利用することになっている。
今はJR奈良駅の構内は大分整備されてホームへの乗降は上り下りのエスカレーターもエレベーターも設置されて利用が楽になった。
9時には外出の支度をしないといけない。
JR奈良駅から12時半過ぎのみやこ路快速を乗る予定にしているが----。
久しぶりに私の実家の周辺を通っていく。
ここに住んでいた頃、また若いときは東の山に見える内田山、その一角にある京都府立木津高校の建物はそんなに探して見ることがなかった。
しかし実家を離れて子育ても終えて年を重ねてくるとこの内田山が懐かしくてホームに立つと東の景色を目で追っている。
小高い丘の上に建つ木津高校を探している。
私が通学していた校舎はもうすでになくなっているが鉄筋コンクリートの校舎が見えて校舎の上に京都府立木津高等学校と学校名が書かれている。
そうした景色にやはりこの山腹の校舎で過ごした若い青春のころをあれこれと思い出している。
遠くから眺めていると自然に校歌が出てくる。

1番は
―四周の山河形象の 
―地の利によれる内田山 
―五穀の稔 万項の
―城南平野見下ろして
―あした夕べの日の影に
―ああわが学園 輝きたてり

2番は
―思い出深き草創の
―歴史をとわに記念して
―かざす徽章の菊と藤
―希望の色に咲くところ
―意気にもえたつ青春の
―ああわが建児ぞ 群がり競う

この校歌は4番まである。
木津高校のホームページを開くと書いています。

昔は4番まで歌えたのに今は1番が歌えるが2番の歌詞をところどころ間違ったりしている。
私が過ごしたのは1960年4月から1963年3月まで。
ようやく生活の目処がついてきた日本だった。
ようやくテレビが家に入り1000万台になった。
やっと冷蔵庫が入り洗濯機が入っていった。
冷房機器があるなんて一般の者は知らなかった。
涼風はうちわと扇風機、あとは行水だった。
道は水をまいて少しでも気温を下げた。
電話も自営業しているところはあったが一般家庭にはほとんどになかった。
1つの町内で1・2軒程度だった。
そんな時代に私は高校生活を送っている。

昨日はまたNHKテレビのBS11チャンネルで「昭和の日めくりカレンダー」1961年をしておられた。最初から見たかったが私は他のチャンネルを見ていた。
見たのが時過ぎだった。番組が半分は終っていた。
私が見たのは6月のカレンダーから。私が高校2年の時代である。
日めくりカレンダーをたどりながら思い出していた。
高校の下駄箱の建物が上からペシャンコになって建物は壊れた。
あれは第2室戸台風だったのか。
あのとき台風は強い風が吹いた。裏の部屋の縁側のガラス戸、4枚に何も板を打ちつけていなかった。父親は京都の会社に行っている。列車が不通で帰ってこない。
私と妹と母親の3人は畳をあげて畳を2枚持ってきて縁側から畳を横に立てて台風が通り過ぎるまで畳を押さえていた。あの時の時間が長かったことを記憶している。
台風が通りすぎと何事もなかったような生活に戻る。
台風とは一瞬に通過していくことを身を持って体験した。
台風が通りすぎと母親がいった。
「ガラス戸が飛ばされて風が家に入ると家ごと飛ばされてしまう」と。
これで台風の来る前に地域の人たちはガラス戸や窓枠のところに板を打ち付けていることがわかった。
台風の目玉が通っていくという突風、いうすごい風だった。
翌日、高校に行くと下駄箱が上から下にペシャンコに押しつぶされていた。
もう大分古い建物だった。
そんなこともあった。
この年に植木等たちが歌ったスーダラ節も出たという。

今日は列車で木津駅を通るが木津高校が見えるところに座って建物を見ることにしょう。そして久しぶりに列車で木津川の鉄橋をわたって行く。
上狛、棚倉から同級生がたくさん通学していた。
サバンナ八木さんのお父さんもこの線路を通ってまだ向こうから通学していた。
また列車に乗っていてあれこれと思い出すだろう。
また夜に書きます。
これから外出の支度です。
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