長いこと命を授かって感謝をしている。
何度も命を失いそうなことに出会っているのに67年もよくここまで生きたと思ってずいぶんと感慨深いものがあります。
本当は神経質で落ち込みもへこみもきついのに何とか書くということで心の消化をしてきてここまで生きてくることができた。
皆、周りのおかげです。
もっともっと周りの人に喜んでもらえることをしないといけない。
それには書くことしかできない私は1人でも多く取材してお話を聞いて仕事やボランテイア活動の画面に紹介して喜んで頂かないといけないと思っている。
先日、大阪市生野区のある施設開所のために現場に訪問した。
兵庫県在住の在日韓国人2世の女性もお祝いに来ておられた。
私は「兵庫県は若い記者が入っているので私はあまり入らなくてすみません。もう私も年になって後継者もある程度、育成したので私、もういつやめてもいいのですが----」と話すと、在日韓国人のその女性は私に「何いっているの。今までせんど、苦労してきたのにまだまだ動かないとあかん」といった。
私は「今まで、せんど、苦労してきたのに」と言う言葉に喉の奥が絶句した。そしてうれしさがこみあがってきた。彼女とは仕事の何かで2・3年に1度しかお会いしない。そして仕事の中なので距離をおいて話しをしている。
どうして私のことを知っておられるのか----。ふと思ったがそんなことは聞かないことにした。
自宅に戻って夫に話しをすると夫は記者生活30年の足跡を知っている。「見ている人がいるのや」といった。
様々の事柄に泣いて恨み腹を立ててそれでも這い上がってきた記者生活30年、そしてその上、夫にまで仕事をやめよと言われて----。でも好きな仕事だったので歯を食いしばった。1番辛かったのは1992年の12月のこととそして1999年から2003年の何年間も最も辛かった。そして記者になりたての雑誌記者時代、仕事が慣れてくるとまた辛いことがいっぱいあった。まだまだ男女差別のある時代だった。目の上のたんこぶになると企画した企画案は何度も男性たちに取られた。このときほど悔しかったことはない。嘆き悲しんだことが昨日のことのように思い出してくる。
けれどここで潰れたらアカンという思いとまたいつのまにかまわりの誰かが何かしら手を差し伸べてくれた人がいた。
今月、半ばで記者生活30年、感慨深いものがある。
30年の中で先日、在日韓国人2世の女性が言った言葉で辛かった記憶が一瞬にして忘れるほどうれしかった。
心の中でありがとう、ありがとう、ありがとうと感謝していた。
今日は朝から8月の取材活動の明細書を見直して領収書を整理して郵便で送るようにした。そして先日掲載した「奈良おんな物語」の画面構築したものをプリントして郵便で送るようにした。そして身支度をして自宅前のバス乗場からバスに乗ったのは9時半、近鉄奈良駅に着くと9時45分、コンビニによって宅急便を送り封筒も定形外なので料金を計算してもらって切手を購入してポストに投函した。
そしてコンビニでスポーツ新聞2紙を購入、これは知人の活動している様子が大きく掲載されたので2部購入、1部は仕事の編集委員に送ることにした。
そして行き付けの喫茶店に入ったのが10時、新聞2紙読んで、本も読んだ。久しぶりにゆっくりと読むことができた。12時半に出た。スーパーに寄って食材を買って自宅に戻ると1時15分。荷解きして風呂に入って家事をしていると1時50分、メールを開けると受信メールの対応していると時計は3時半になっている。
朝、ブログを書こうとしたらメンテナンスのために接続できなくなっていたので何も書き込まないで身支度をして外出した。
根を詰めてメールの対応していたのか肩がこってきた。
このへんでやめておきます。
何度も命を失いそうなことに出会っているのに67年もよくここまで生きたと思ってずいぶんと感慨深いものがあります。
本当は神経質で落ち込みもへこみもきついのに何とか書くということで心の消化をしてきてここまで生きてくることができた。
皆、周りのおかげです。
もっともっと周りの人に喜んでもらえることをしないといけない。
それには書くことしかできない私は1人でも多く取材してお話を聞いて仕事やボランテイア活動の画面に紹介して喜んで頂かないといけないと思っている。
先日、大阪市生野区のある施設開所のために現場に訪問した。
兵庫県在住の在日韓国人2世の女性もお祝いに来ておられた。
私は「兵庫県は若い記者が入っているので私はあまり入らなくてすみません。もう私も年になって後継者もある程度、育成したので私、もういつやめてもいいのですが----」と話すと、在日韓国人のその女性は私に「何いっているの。今までせんど、苦労してきたのにまだまだ動かないとあかん」といった。
私は「今まで、せんど、苦労してきたのに」と言う言葉に喉の奥が絶句した。そしてうれしさがこみあがってきた。彼女とは仕事の何かで2・3年に1度しかお会いしない。そして仕事の中なので距離をおいて話しをしている。
どうして私のことを知っておられるのか----。ふと思ったがそんなことは聞かないことにした。
自宅に戻って夫に話しをすると夫は記者生活30年の足跡を知っている。「見ている人がいるのや」といった。
様々の事柄に泣いて恨み腹を立ててそれでも這い上がってきた記者生活30年、そしてその上、夫にまで仕事をやめよと言われて----。でも好きな仕事だったので歯を食いしばった。1番辛かったのは1992年の12月のこととそして1999年から2003年の何年間も最も辛かった。そして記者になりたての雑誌記者時代、仕事が慣れてくるとまた辛いことがいっぱいあった。まだまだ男女差別のある時代だった。目の上のたんこぶになると企画した企画案は何度も男性たちに取られた。このときほど悔しかったことはない。嘆き悲しんだことが昨日のことのように思い出してくる。
けれどここで潰れたらアカンという思いとまたいつのまにかまわりの誰かが何かしら手を差し伸べてくれた人がいた。
今月、半ばで記者生活30年、感慨深いものがある。
30年の中で先日、在日韓国人2世の女性が言った言葉で辛かった記憶が一瞬にして忘れるほどうれしかった。
心の中でありがとう、ありがとう、ありがとうと感謝していた。
今日は朝から8月の取材活動の明細書を見直して領収書を整理して郵便で送るようにした。そして先日掲載した「奈良おんな物語」の画面構築したものをプリントして郵便で送るようにした。そして身支度をして自宅前のバス乗場からバスに乗ったのは9時半、近鉄奈良駅に着くと9時45分、コンビニによって宅急便を送り封筒も定形外なので料金を計算してもらって切手を購入してポストに投函した。
そしてコンビニでスポーツ新聞2紙を購入、これは知人の活動している様子が大きく掲載されたので2部購入、1部は仕事の編集委員に送ることにした。
そして行き付けの喫茶店に入ったのが10時、新聞2紙読んで、本も読んだ。久しぶりにゆっくりと読むことができた。12時半に出た。スーパーに寄って食材を買って自宅に戻ると1時15分。荷解きして風呂に入って家事をしていると1時50分、メールを開けると受信メールの対応していると時計は3時半になっている。
朝、ブログを書こうとしたらメンテナンスのために接続できなくなっていたので何も書き込まないで身支度をして外出した。
根を詰めてメールの対応していたのか肩がこってきた。
このへんでやめておきます。
おめでとうございます。
67年間の想いが伝わり熱いものが
込み上げてきます。これからも書き続けて
下さい。楽しみにしています。
本当にご苦労様です。