今日は東大寺のお水取りのクライマックスと言われている。この後、ダッタンボウなどがあって今年もお水取りの行事を終えていく。終える頃にもう1回寒くなる。毎年そんなような気がする。
そして彼岸の日が近づくと季節は1度に春めいてくる。
この頃、結婚式の行かれる人たちをよく見かける。
産経新聞の月曜日の夕刊に面白い投稿エッセイが掲載されていた。「夕焼けエッセイ」である。
3月10日は大阪市に住む37歳の看護師さんからの投稿である。題名は「ヨメニイケ」である。なんのこっちゃ。と思って読んでいると読むうちに噴出して笑っていた。親のやり取りが面白い。やっと相手が決まって婚約中である。
もう婿がかわいいくてしょうがない。
母親は娘のご飯の支度をしなくてもいいと喜んでいる。そした母親は「○○さん(婿の名前)のために感謝祭ひらかなあかん」というと父親もその上手をしって「そうやな。ようもろてくれた」という。
そして父親と母親は歌を歌う。
母親が「○○さん。もらってくれてありがとう」と歌うと父親が「わがまま娘もらってありがとう」と歌っている。
嫁に行く娘さんは親の様子に「よくもまあ。即興で作った歌がハモれるわ」と感心している。そしてまた父親がすかさず「ママあしたは○○○(娘さんの名前)のお別れ会しよか」「そうやな盛大にやろ」落ちは結婚式はまだ3ヶ月も先なのに---。で終わっている。
これを読んでいて私も37歳まで独身でおりたかった。この娘さんがとてもうらやましく思えた。居心地のいい家庭、温かい家庭の様子が浮かんできた。私もこんな居心地がよかったら30歳ぐらいまで家にいたかったな。
なんとかこの家から早く出たいと思っていた。
厳しい父親、娘になってOL生活をしても門限が厳しい。ちょっとでも遅くなると大きい声を出して絶対に怒らなかったが日曜日の食卓になると射るような目つきで睨み長々と説教された。1・2度外で下宿したいと言ったらまた説教された。「女の子は自分の家で育って自分の家から嫁にいくものや」という。
いつも心の中で「くそったれのおやじ」と思っていたが口答えも何もできなかった。そして年頃になると荷物をどこかにやるようにさっさと見合いさせて結婚させてしまった。このとき母親に「娘を荷物渡すみたいにせんといて」と言ったことがあった。
ずっと父親は嫌いだったのに嫌いだった父親の影響を1番受けたのは私である。
ただ娘がかわいいと思っている瞬間が3回あった。
結婚する時の父親の態度だった。結婚が近づいてくると父親は私に2つの物を渡した。
1枚は「厚生年金証明書」もう1つは「へその緒が入った桐箱」そして結婚が近づくと「23まで育ててなんで荷物までつけてやらなあかんの」と言った。
「厚生年金証明書」は私の老後を心配していた。「へその緒」は何かがあると父親と母親のの子どもであるという証明だった。これは外国籍で暮らす日本社会で何か起きたときのことを考えていた。父親は私にはいつも出来損ないと言われて褒められたことはなかった。それがいざ嫁に出すとなると一抹の寂しさがあったのだろうか。それともエッセイのように「出来損ないの娘をもらってくれてありがとう」と喜んでいたのだろうか。
今頃草葉の陰で「早く墓参りにきて」というような声がする。彼岸にはいかなければと思っている。嫌いな父親だったが影響を1番多く受けている。このこともいつも「なんでやろう」と首を傾げている。
投稿者のエッセイを読んで温かい家庭にうらやましくも思った。けれど37歳の年になって結婚しない娘さんは心配の種だったのだろう。娘さん、けっして親を悲しませることはしないでと願いながらそして笑いながらエッセイを読んでいた。ほのぼのとしたエッセイだった。
そして彼岸の日が近づくと季節は1度に春めいてくる。
この頃、結婚式の行かれる人たちをよく見かける。
産経新聞の月曜日の夕刊に面白い投稿エッセイが掲載されていた。「夕焼けエッセイ」である。
3月10日は大阪市に住む37歳の看護師さんからの投稿である。題名は「ヨメニイケ」である。なんのこっちゃ。と思って読んでいると読むうちに噴出して笑っていた。親のやり取りが面白い。やっと相手が決まって婚約中である。
もう婿がかわいいくてしょうがない。
母親は娘のご飯の支度をしなくてもいいと喜んでいる。そした母親は「○○さん(婿の名前)のために感謝祭ひらかなあかん」というと父親もその上手をしって「そうやな。ようもろてくれた」という。
そして父親と母親は歌を歌う。
母親が「○○さん。もらってくれてありがとう」と歌うと父親が「わがまま娘もらってありがとう」と歌っている。
嫁に行く娘さんは親の様子に「よくもまあ。即興で作った歌がハモれるわ」と感心している。そしてまた父親がすかさず「ママあしたは○○○(娘さんの名前)のお別れ会しよか」「そうやな盛大にやろ」落ちは結婚式はまだ3ヶ月も先なのに---。で終わっている。
これを読んでいて私も37歳まで独身でおりたかった。この娘さんがとてもうらやましく思えた。居心地のいい家庭、温かい家庭の様子が浮かんできた。私もこんな居心地がよかったら30歳ぐらいまで家にいたかったな。
なんとかこの家から早く出たいと思っていた。
厳しい父親、娘になってOL生活をしても門限が厳しい。ちょっとでも遅くなると大きい声を出して絶対に怒らなかったが日曜日の食卓になると射るような目つきで睨み長々と説教された。1・2度外で下宿したいと言ったらまた説教された。「女の子は自分の家で育って自分の家から嫁にいくものや」という。
いつも心の中で「くそったれのおやじ」と思っていたが口答えも何もできなかった。そして年頃になると荷物をどこかにやるようにさっさと見合いさせて結婚させてしまった。このとき母親に「娘を荷物渡すみたいにせんといて」と言ったことがあった。
ずっと父親は嫌いだったのに嫌いだった父親の影響を1番受けたのは私である。
ただ娘がかわいいと思っている瞬間が3回あった。
結婚する時の父親の態度だった。結婚が近づいてくると父親は私に2つの物を渡した。
1枚は「厚生年金証明書」もう1つは「へその緒が入った桐箱」そして結婚が近づくと「23まで育ててなんで荷物までつけてやらなあかんの」と言った。
「厚生年金証明書」は私の老後を心配していた。「へその緒」は何かがあると父親と母親のの子どもであるという証明だった。これは外国籍で暮らす日本社会で何か起きたときのことを考えていた。父親は私にはいつも出来損ないと言われて褒められたことはなかった。それがいざ嫁に出すとなると一抹の寂しさがあったのだろうか。それともエッセイのように「出来損ないの娘をもらってくれてありがとう」と喜んでいたのだろうか。
今頃草葉の陰で「早く墓参りにきて」というような声がする。彼岸にはいかなければと思っている。嫌いな父親だったが影響を1番多く受けている。このこともいつも「なんでやろう」と首を傾げている。
投稿者のエッセイを読んで温かい家庭にうらやましくも思った。けれど37歳の年になって結婚しない娘さんは心配の種だったのだろう。娘さん、けっして親を悲しませることはしないでと願いながらそして笑いながらエッセイを読んでいた。ほのぼのとしたエッセイだった。
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