今日も時間があっという間に過ぎていく。
パソコンを閉めたのは10時15分、このまま早い昼食をかき込んで急いで出かけようと思った。それでもテレビをつけた。
歌手の伍代夏子が「よーいドン」のテレビ番組に出演をしていた。
この方は気になるのでテレビを見ることにした。
「思い出のごはん」とお気に入りのお店の紹介です。
最初のお気に入りは神戸のお好み焼、そして大阪の鶏肉のハンバーグを使った店、3つ目は京都祇園の店です。
元祇園にいた人がする店、夫の杉良太郎さんが発案されたレシピを紹介していた。3つとも美味しい店、神戸は安いが遠くて行かれない。
大阪の店は本当に食べたくて時間を作って行ける店ですが京都は高級な祇園の店で質素に暮らしている私は少し無理だなと思って見ていた。
「思い出ごはん」もよほど時間に急いでないと見ることがあるがたいてい、テレビをだらだら見て過していないので「人間国宝」の案内を見てすぐにテレビを消している。けれど今日は私の好きな伍代夏子さん。
そのままの見たままの人と思っている。
親は魚屋さんをしていたのは始めて知った。
親の家を建ててその側に自分たちの家も建てたという。
なるほど---。そうだったのか。
普通の焼魚、鮭の焼いたものと味噌汁。母親が作ってくれた夕食が思い出ごはんだった。鮭の焼いたもの。私は中学時代の弁当のおかず、月に1度入ればいい。それがものすごく嬉しかった。私はほとんど話さない子どもだったのに誰かに「今日の弁当のおかず、鮭の焼いたもの」といったことを記憶している。
なぜクラスメイトにこんなことをいったのか記憶がない。
そんな私の中学時代、昭和32年(1957年)から34年(1959年)の私の在りし日を思い出した。
高校卒業してOLになって夜間の洋裁学校に通い自宅に戻るのは9時半過ぎだった。当時は電気釜を使っていてもご飯を保温するジャーはなかった。
それでも母親は私のことは少しは気になったのか丼茶碗にご飯を入れて同じ丼茶碗で蓋をして風呂敷にきっちりと包んで電気コタツ(まだ出始めたホームコタツ)の中に入れて飯を温めてくれていた。たぶん父親が教えたのだろう。
かんかちの冷たいご飯でなくてほのかに温かいご飯が食べられた。
惣菜は何を食べたのかまったく記憶にない。
私の母親の思い出ごはん。韓国料理は辛い韓国唐辛子を細かく切ってメリケン粉と混ぜて蒸し器で蒸していた。これを四角に切って醤油をつけて食べる。子どもの頃、辛い唐辛子だけだったので父親は母親に教えた。
「子どもには辛すぎるので日本の辛くない唐辛子と混ぜて作ったほうがいい」と、いったのでそれからそんなに辛くない惣菜になった。しかし時には辛いという私の子どもの頃の夏の惣菜だった。最近までこれは母親が子どもの頃に食べた記憶と思っていたがどうやらこれは父親が子どもの頃から食べていたもので祖母から伝承された料理と分かった。
生前の父親はこの食材が好きでよく弟の嫁さんに作らせていた。と、最近、弟の嫁さんに聞いた。
そういえば毎年1度は夏になると作っていたのに今年は作っていない。
あまりの暑さで台所に入ってする料理は極力避けてきたので忘れてしまっていた。またもうすこし涼しくなったら1度作ってみよう。
もう1つ、私の子どもの頃で忘れられないのが近所の天ぷらや屋さんが揚げていたイカの天ぷら、子どもは少ししかあたらない。ほとんど父親の食材になったが---。
何もおかずがない。
母親は仕事でよほど疲れてしんどかったのか。
私に「塩コンブ」の佃煮を買いに行かせた。
買ってくるとこれで夕食した時もあった。
なにか切ない味の塩コンブだった。
伍代夏子の「思い出ごはん」に私の子どもの頃が重なっていた。
テレビを消して身支度をして自宅を出ると12時15分、昨日より1時間遅くなった。行きつけの喫茶店に着くと12時半です。
2時半まで新聞と本を読んで出た。
近鉄奈良駅の改札口に入って電車のカードを付け足して購入して薬局に寄った。
口紅、ほしい色を探して1本を購入、「気に入ったらまた来ます」といって1本だけ買った。つけてみないと分からないのです。
地上にでてコンビニによってビールの肴を少し購入して急いでバス乗り場に行くと中循環バスが停まっているがもう発車するところだった。
少し待って市内循環バスに乗って自宅に戻ると3時20分です。
シャワーを浴びて家事をして夕食の支度をしていくと4時半になっている。
洗濯など干しているともう5時前です。
また明日-----。
パソコンを閉めたのは10時15分、このまま早い昼食をかき込んで急いで出かけようと思った。それでもテレビをつけた。
歌手の伍代夏子が「よーいドン」のテレビ番組に出演をしていた。
この方は気になるのでテレビを見ることにした。
「思い出のごはん」とお気に入りのお店の紹介です。
最初のお気に入りは神戸のお好み焼、そして大阪の鶏肉のハンバーグを使った店、3つ目は京都祇園の店です。
元祇園にいた人がする店、夫の杉良太郎さんが発案されたレシピを紹介していた。3つとも美味しい店、神戸は安いが遠くて行かれない。
大阪の店は本当に食べたくて時間を作って行ける店ですが京都は高級な祇園の店で質素に暮らしている私は少し無理だなと思って見ていた。
「思い出ごはん」もよほど時間に急いでないと見ることがあるがたいてい、テレビをだらだら見て過していないので「人間国宝」の案内を見てすぐにテレビを消している。けれど今日は私の好きな伍代夏子さん。
そのままの見たままの人と思っている。
親は魚屋さんをしていたのは始めて知った。
親の家を建ててその側に自分たちの家も建てたという。
なるほど---。そうだったのか。
普通の焼魚、鮭の焼いたものと味噌汁。母親が作ってくれた夕食が思い出ごはんだった。鮭の焼いたもの。私は中学時代の弁当のおかず、月に1度入ればいい。それがものすごく嬉しかった。私はほとんど話さない子どもだったのに誰かに「今日の弁当のおかず、鮭の焼いたもの」といったことを記憶している。
なぜクラスメイトにこんなことをいったのか記憶がない。
そんな私の中学時代、昭和32年(1957年)から34年(1959年)の私の在りし日を思い出した。
高校卒業してOLになって夜間の洋裁学校に通い自宅に戻るのは9時半過ぎだった。当時は電気釜を使っていてもご飯を保温するジャーはなかった。
それでも母親は私のことは少しは気になったのか丼茶碗にご飯を入れて同じ丼茶碗で蓋をして風呂敷にきっちりと包んで電気コタツ(まだ出始めたホームコタツ)の中に入れて飯を温めてくれていた。たぶん父親が教えたのだろう。
かんかちの冷たいご飯でなくてほのかに温かいご飯が食べられた。
惣菜は何を食べたのかまったく記憶にない。
私の母親の思い出ごはん。韓国料理は辛い韓国唐辛子を細かく切ってメリケン粉と混ぜて蒸し器で蒸していた。これを四角に切って醤油をつけて食べる。子どもの頃、辛い唐辛子だけだったので父親は母親に教えた。
「子どもには辛すぎるので日本の辛くない唐辛子と混ぜて作ったほうがいい」と、いったのでそれからそんなに辛くない惣菜になった。しかし時には辛いという私の子どもの頃の夏の惣菜だった。最近までこれは母親が子どもの頃に食べた記憶と思っていたがどうやらこれは父親が子どもの頃から食べていたもので祖母から伝承された料理と分かった。
生前の父親はこの食材が好きでよく弟の嫁さんに作らせていた。と、最近、弟の嫁さんに聞いた。
そういえば毎年1度は夏になると作っていたのに今年は作っていない。
あまりの暑さで台所に入ってする料理は極力避けてきたので忘れてしまっていた。またもうすこし涼しくなったら1度作ってみよう。
もう1つ、私の子どもの頃で忘れられないのが近所の天ぷらや屋さんが揚げていたイカの天ぷら、子どもは少ししかあたらない。ほとんど父親の食材になったが---。
何もおかずがない。
母親は仕事でよほど疲れてしんどかったのか。
私に「塩コンブ」の佃煮を買いに行かせた。
買ってくるとこれで夕食した時もあった。
なにか切ない味の塩コンブだった。
伍代夏子の「思い出ごはん」に私の子どもの頃が重なっていた。
テレビを消して身支度をして自宅を出ると12時15分、昨日より1時間遅くなった。行きつけの喫茶店に着くと12時半です。
2時半まで新聞と本を読んで出た。
近鉄奈良駅の改札口に入って電車のカードを付け足して購入して薬局に寄った。
口紅、ほしい色を探して1本を購入、「気に入ったらまた来ます」といって1本だけ買った。つけてみないと分からないのです。
地上にでてコンビニによってビールの肴を少し購入して急いでバス乗り場に行くと中循環バスが停まっているがもう発車するところだった。
少し待って市内循環バスに乗って自宅に戻ると3時20分です。
シャワーを浴びて家事をして夕食の支度をしていくと4時半になっている。
洗濯など干しているともう5時前です。
また明日-----。
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