夫は冷蔵庫に入っている「なまこ」を出して味付けをしていた。
私は起きて野菜の足りない夫のためにお節の野菜を皿に並べた。
今日は[餅]を焼いて食べた。おいしかった。
2個食べたが「餅」はけっこうお腹がいっぱいになる。
朝からテレビは京都の食べ歩きをしていた。あの美味しい「九条ねぎ」が出されていた。「九条ねぎ」は京都では有名な食材である。
これでチヂミを作るとねぎの香がいっぱいして美味しい。
お好みのもねぎ焼きにしてもものすごく美味しい。
何もしないで自宅で過ごすのは久しぶりである。
12月の20日過ぎから仕事がなくても普段こまめにできないところの掃除をしたりしてなんかあわただしいくしていた。
この間、美容院に行き買い物にいき1日は京都にいき実家にもよってきた。
2日、お正月らしい穏やかな時を過ごしている。
マンションから見える高円山の辺りには霧がかかっている。
やはり山の上は空気が冷たいのだろう。
さきほどテレビでは伏見稲荷神社を放映していた。
夫は「ここにいこか」というが私は「いらん。遠い」というと「春日大社に初詣にいこか」という。
私は黙っていた。どこにもいかないでゆっくり過ごしたい。
春日大社も初詣でいっぱいたで人の中を歩く。
そういえば気がついた。
昨日、京都に行った。夫の兄の家は新興住宅の中にある。
ほとんどが玄関にしめ縄をかけていなかった。
夕方、実家のある木津にくるとほとんどの家が玄関に橙と一緒のしめ縄がかけられていた。私の家は私の子どものころからかけていない。
なんか懐かしい風景だった。たたずまいは家が新築されたり駐車場やアパートになったりしているが道はかわっていない。
お地蔵さんもそのままにある。
子どものころ駄菓子屋だったところはとうの昔に閉められたが違う表札がかかっていた。
昔と変わらない道に正月、この道ではねつきをしたころを思い出した。
当時は車なんてほとんど通らない。子どもの遊び場だった。
はねつきの羽が羽子板に当たってカーンカーンと音がして飛んでいた。
時には家のとゆに入って手で取れるところはいいがほとんど屋根が高くてとれなくてあきらめるしかなかった。
ひとめ、ふため、みやこしよなご-----。ここから忘れてしまった。
てんまりを持ってきて遊んだ。
なんか遊び言葉、全部忘れてしまった。
私の家の玄関、入ったところは土間になっていてその横に1㍍以上もある縁側があった。ここで人形をつくる材料もってきて人形をつくった。
そういえぱ祭祀の供物づくりもこの縁側でよくした。
1月1日、木津の町は静かだった。
163号線の国道沿いにある祇園神社は明々としたちょうちんが下げられていた。
私の子どものころはちょうちんがそんなに多くなかった。
今は町内が豊かになって灯りをともしたちょうちんが下げられて地元の人がお参りしていた。
この祇園神社から南の道を行くと現在、俳優で活躍する在日同胞の母親が生まれたところがある。
たぶん今は有名な俳優は母親の実家があるこの町にきたことだろう。
祇園神社も町の中の一角にあるので記憶にあるだろう。
三重県出身の有名な俳優である。
そんなことを思いながらこの神社の前を通り過ぎた。
自分の育った町にきてあれこれと何もなかった子どものころを思い出していた。
私の家から2軒おいたところはお寺である。
私が子どものころ何もなかった時代、ここにアメリカ中古衣料がふんだんに放出されて安く買うことができた。
地元の人たちがこのお寺にきて衣類を見ておられた。
そのときの大人はどんな気持ちで見ていたのだろうか。
子どものころの私は何も思うことがなかったが大人になって分かった。
あれは難民に送られる中古衣料だったと分かった。
そんな物のない時代を乗り越えて今の日本がある。
戦争の後、物資不足で飢えの中でも知恵と工夫をだし勤勉に働いて現在の日本を作った。
あの物のない時代を潜り抜けてきた。戦争は悲惨で何も得る物がないと頭に染み付いている。
戦争知らない子どもたち、団塊の世代が定年を迎える。この団塊世代が生まれたとき育つとき物のない時代を知っているはずである。
経済の豊かさで失うものが多くなった。
当時の時代のふりかえる語り部になって戦争はぜったいにしてはいけないと声高に話せる人生の先輩になってもらいたい。
1月2日、実家の近くにある神社のちょうちんの明かりを見て考えた。日本の経済の豊かさに反比例してギスギスした人間社会になった。しかし実家の玄関に飾られたしめ縄にまだまだ地元文化が生きていた。
地元のつながり、地元社会の活性化が人間社会の基礎になると感じた。
政冶の前に地元社会の活性化が先決であるとそう感じた。
1月2日、地元社会の構築を訴えての書き込みになった。
私は起きて野菜の足りない夫のためにお節の野菜を皿に並べた。
今日は[餅]を焼いて食べた。おいしかった。
2個食べたが「餅」はけっこうお腹がいっぱいになる。
朝からテレビは京都の食べ歩きをしていた。あの美味しい「九条ねぎ」が出されていた。「九条ねぎ」は京都では有名な食材である。
これでチヂミを作るとねぎの香がいっぱいして美味しい。
お好みのもねぎ焼きにしてもものすごく美味しい。
何もしないで自宅で過ごすのは久しぶりである。
12月の20日過ぎから仕事がなくても普段こまめにできないところの掃除をしたりしてなんかあわただしいくしていた。
この間、美容院に行き買い物にいき1日は京都にいき実家にもよってきた。
2日、お正月らしい穏やかな時を過ごしている。
マンションから見える高円山の辺りには霧がかかっている。
やはり山の上は空気が冷たいのだろう。
さきほどテレビでは伏見稲荷神社を放映していた。
夫は「ここにいこか」というが私は「いらん。遠い」というと「春日大社に初詣にいこか」という。
私は黙っていた。どこにもいかないでゆっくり過ごしたい。
春日大社も初詣でいっぱいたで人の中を歩く。
そういえば気がついた。
昨日、京都に行った。夫の兄の家は新興住宅の中にある。
ほとんどが玄関にしめ縄をかけていなかった。
夕方、実家のある木津にくるとほとんどの家が玄関に橙と一緒のしめ縄がかけられていた。私の家は私の子どものころからかけていない。
なんか懐かしい風景だった。たたずまいは家が新築されたり駐車場やアパートになったりしているが道はかわっていない。
お地蔵さんもそのままにある。
子どものころ駄菓子屋だったところはとうの昔に閉められたが違う表札がかかっていた。
昔と変わらない道に正月、この道ではねつきをしたころを思い出した。
当時は車なんてほとんど通らない。子どもの遊び場だった。
はねつきの羽が羽子板に当たってカーンカーンと音がして飛んでいた。
時には家のとゆに入って手で取れるところはいいがほとんど屋根が高くてとれなくてあきらめるしかなかった。
ひとめ、ふため、みやこしよなご-----。ここから忘れてしまった。
てんまりを持ってきて遊んだ。
なんか遊び言葉、全部忘れてしまった。
私の家の玄関、入ったところは土間になっていてその横に1㍍以上もある縁側があった。ここで人形をつくる材料もってきて人形をつくった。
そういえぱ祭祀の供物づくりもこの縁側でよくした。
1月1日、木津の町は静かだった。
163号線の国道沿いにある祇園神社は明々としたちょうちんが下げられていた。
私の子どものころはちょうちんがそんなに多くなかった。
今は町内が豊かになって灯りをともしたちょうちんが下げられて地元の人がお参りしていた。
この祇園神社から南の道を行くと現在、俳優で活躍する在日同胞の母親が生まれたところがある。
たぶん今は有名な俳優は母親の実家があるこの町にきたことだろう。
祇園神社も町の中の一角にあるので記憶にあるだろう。
三重県出身の有名な俳優である。
そんなことを思いながらこの神社の前を通り過ぎた。
自分の育った町にきてあれこれと何もなかった子どものころを思い出していた。
私の家から2軒おいたところはお寺である。
私が子どものころ何もなかった時代、ここにアメリカ中古衣料がふんだんに放出されて安く買うことができた。
地元の人たちがこのお寺にきて衣類を見ておられた。
そのときの大人はどんな気持ちで見ていたのだろうか。
子どものころの私は何も思うことがなかったが大人になって分かった。
あれは難民に送られる中古衣料だったと分かった。
そんな物のない時代を乗り越えて今の日本がある。
戦争の後、物資不足で飢えの中でも知恵と工夫をだし勤勉に働いて現在の日本を作った。
あの物のない時代を潜り抜けてきた。戦争は悲惨で何も得る物がないと頭に染み付いている。
戦争知らない子どもたち、団塊の世代が定年を迎える。この団塊世代が生まれたとき育つとき物のない時代を知っているはずである。
経済の豊かさで失うものが多くなった。
当時の時代のふりかえる語り部になって戦争はぜったいにしてはいけないと声高に話せる人生の先輩になってもらいたい。
1月2日、実家の近くにある神社のちょうちんの明かりを見て考えた。日本の経済の豊かさに反比例してギスギスした人間社会になった。しかし実家の玄関に飾られたしめ縄にまだまだ地元文化が生きていた。
地元のつながり、地元社会の活性化が人間社会の基礎になると感じた。
政冶の前に地元社会の活性化が先決であるとそう感じた。
1月2日、地元社会の構築を訴えての書き込みになった。
ひとめ、ふため、みやこし、よめご
いつやのむさし、ななやのやつし ここのや、
とおや ひいやあ、ふうみい、やあよお いいつや、
むうなあ、なあや こおっことお
です。(何でこんなんしってんネン?)
ついでに・・・。
京の大仏つぁん
京の京の大仏つぁんは 天火(てんび)でやけてな
三十三間堂が焼け残った アラ、
どんどんどん コラ、どんどんどん
うしろの正面どなた おさる
キャッ、キャッ、キャッ 鬼「◯◯さん」
「ちがいました、ちがいました、松の影」
一条戻り橋
一条戻り橋、二条の薬店 三条のみすや針、
四条芝居 五条の橋弁慶、六条の本願寺 七条のそば店、
八条のおいも掘り 九条の小便とり、 東寺、羅生門
坊さん頭は丸太町
ぼんさんあたまはまるたまち(丸太町)
つるっとすべってたけやまち(竹屋町)
みずのながれはえべすがわ(夷川)
にじょうでこうたきぐすりを(二条)
ただでやるのはおしこうじ(押小路)
おいけででおうたあねさんに(姉小路・三条)
ろくせんもろおてたここおて(六角・蛸薬師)
にしきでおとしてしかられて(錦・四条)
あやまったけどぶつぶつと(綾小路・仏光寺)
たかがしれてるまどしたろ(高辻・松原)
木津の実家の近くを歩いて昔懐かしいしめ縄にまだまだ地域の地元文化が残っていることに考えさせられました。田舎の地元で古いしきたりの残る地元で私の親はここに住みつき子どもの代まですみ続けた親の苦労をまた思い出していました。
遊びことば、懐かしい。ありがとうございます。