在日コリアンは日本植民地支配から解放されて63年で大韓民国ができて60年、今日は韓国でも日本の在日韓国人団体でも建国60年の記念式典が行われている。
私も参加したい気持はあったが50歳半ばから家族とすごすことにしてきたので今日も夫の兄の家で過ごした。
朝、5時半に起きて身支度をして6時45分に自宅をでた。京都の兄の家についたのが7時40分、夫の兄の家で韓国伝統の「祭祀」、「茶礼」をして皆で食事をして皆で京都市内郊外の霊園に向かった。墓参りにいくがもう暑いこと、暑いこと、帰りはもっと暑い。太陽が真上でカンカンに照らしている。持っているハンカチで拭いても拭いても汗が吹き出てくる。車も冷房を入れているのに太陽の真下、炎天下に車が走っているのできかない。
もどってきて皆で焼肉を囲んでワイワイがやがや、私は何もしない。若い人がしてくれている。
夫の兄の子どもたちの子ども、つまり孫たちである。いろんな顔の表情して笑わしてくれる。
小学校1年の女の子に小学校6年、5年、3年そして幼稚園の子どもたち、いろんな顔を作って笑わしてくれる。
この中の1人、1年生の女の子はじっと見ているとこの子は行動的なタイプだ。どうやら仕切るタイプだなと思って見ているとこの子どもの母親は「外でもし切っています」という。
この子どもを見ていると夫の母親に気性は似ている。
隔世遺伝なのかなと思ってみていた。
3時15分、自宅の戻る支度をして3時半に京都をでた。
朝は京奈和バイパスを走ったが帰りは国道24号線を走った。
木津川泉大橋に示している気温は35度になっていた。
川風のあるところでの気温、町の中では37度ぐらいになっているだろう。
道理で暑いはずだ。
泉大橋を越えて私の実家に向かった。木津川を越えて町の中に入る道路を少し行けば私の実家である。
久しぶりに弟家族にあった。
姪っ子はいい娘さんになっていた。
この間まで子ども子どもと思っていたらもう結婚する年齢になってきた。
姪っ子の部屋にパソコンが置いていた。
弟たちと話した後、姪の部屋でパソコンを見てネットのホームページを検索して教えた。
若い女性なので難しいページの内容もあるが私のブログぐらいは大丈夫かなと思った。
それでも夫は「そんなことしたら○○子に嫌われるぞ」と言われた。
おばちゃんのブログを見ても面白くないかもしれないがこれも何かを語りついでいくことになればと思っている。
また急いで私の実家を出た。
自宅に向かった。帰りに近くのスーパーで簡単な買物をして戻ってきた。
時計は5時半、急いで簡単な家事をして急いでシャワーを浴びた。
テレビで国立奈良博物館の展示の案内をしていた。
このチケット2枚ある。明日、これを見に行こうと夫と明日の予定を立てた。
そういえばこのチケット6枚頂き行きつけの喫茶店に置かせてもらったら昨日その喫茶店に行くと置かれていたチケットはなくなっていた。よかった。
ブログを書き始めたのが7時過ぎだった。夫はテレビ番組を「昭和の歌懐かしのメロデイー」にしてプロ野球を聞きたいので床について阪神戦を聞いていた。
ブログは途中だが中断して9時前まで見ていた。
そしてベランダから高円山を見ると灯りが見える。いつも暗闇になっている高円山にいくつかの灯りが見えた。思い出した。戦没者慰霊のための大文字焼で送り火の日だった。山の上で準備をしている人の灯りである。気がついたのが7時50分、10分ほど待った。
8時ちょうどにオレンジ色の灯りが高円山に浮かび上がってきた。
「大」の文字が赤々と雄大に高円山で燃えていた。
おもわずカメラを出して写真に撮影した。
暗闇に浮かぶ赤々と燃えた「大」文字焼、在日コリアンはこの日は日本植民地支配から解放された日で日本に対しては敗戦記念日といい韓国や在日韓国人の組織団体などでは「光複節(クワンボクチョッル)」と言って各地で記念式典が行われた。
人それぞれに思いはあるだろう。戦争と言う犠牲の上に今日の日本がある。
韓国も同じである。しかし韓国は未だに南北分断国家である。
大韓民国60年についてインタビューに先日神戸の元町に行った。
韓国レストランを経営する在日韓国人2世は言った。
「私は大韓民国の大極旗を背負ってそして支えで韓国レストラン20年をしてきた。大韓民国60年、韓国が発展したことはうれしいが分断された祖国はアリラン峠である。なぜ越えられない。1・2年で越えられると思ったのに未だに越えられない。17歳、18歳は祖国の建国に燃えていた。そして北朝鮮に帰った帰国者を京都駅まで送りに行った。祖国建設に燃えて帰った若い青年たちの多くを見送った。この時の燃えた時代から長い年月が立っているのに帰国した人は日本に戻ることはなかった。越えられないアリラン峠に大韓民国建国60年は心の底から喜ぶことができない」
このせつない気持いかほどに日本人は理解するだろうか。
建国に燃えて帰った同胞はほんのわずか、ほとんど生活苦などで帰国した。帰国したがそこは日本で聞いていた「地上の樂園」ではなかった。地獄の苦しみが立ちはだかっていた。これを知って北送した時の日本政府そして活動者ら、どうして私の父親は知っていたのだろうか。
親戚で活動する1人に「お前は人に北朝鮮に帰れ帰れというがお前が先に北朝鮮に帰ったらええやんか。北朝鮮の事実の事情を知っているからお前は帰らないのだろう」と言っていたことが現在の北朝鮮の実情と一致する。
大文字焼を見て戦後63年そして日本と韓国、どんなふうにして生きてきたのか感慨深いものがあり大文字焼きの送り火に北朝鮮に帰国した同胞そして拉致被害者の無事を祈っていた。
9時にテレビ番組が終わってブログ書いた。時計は9時半をまわった。
今日は朝が早かったので早く休もう。
弟の子どもがネットをお気に入りに入れてくれた。
ネットを通して1つでも心が響くものがあればうれしい。
そして日本で生まれて日本で育って生きていく。けっして偏らない思考で客観的に韓国と在日韓国人そして日本を見る訓練をして人生の節々に必ず役にたつことになるようにとしてほしい。偏らないでどこから見てもそこにその考え方があるという勉強の参考資料にしてほしい。これはおじいちゃん(私の父親)が子どもにずっと言い続けた言葉である。
偏らないで日本で生きて行く人生の方法を磨いてもらいたい。
日本社会で生きていく。日本文化も韓国文化も両方を知って感性豊かな女性になってほしい。可愛い娘さんになっていた。
弟は美男子とは思わないが姪は可愛らしい娘さんになっていた。
心で「悪い虫はつくなよ」と祈っている。
でもまた夫は怒っていた。
「もうおばさんのブログ嫌われるのに」と言う。
【写真】8月15日午後8時点火されたばかりの高円山の大文字焼。
私も参加したい気持はあったが50歳半ばから家族とすごすことにしてきたので今日も夫の兄の家で過ごした。
朝、5時半に起きて身支度をして6時45分に自宅をでた。京都の兄の家についたのが7時40分、夫の兄の家で韓国伝統の「祭祀」、「茶礼」をして皆で食事をして皆で京都市内郊外の霊園に向かった。墓参りにいくがもう暑いこと、暑いこと、帰りはもっと暑い。太陽が真上でカンカンに照らしている。持っているハンカチで拭いても拭いても汗が吹き出てくる。車も冷房を入れているのに太陽の真下、炎天下に車が走っているのできかない。
もどってきて皆で焼肉を囲んでワイワイがやがや、私は何もしない。若い人がしてくれている。
夫の兄の子どもたちの子ども、つまり孫たちである。いろんな顔の表情して笑わしてくれる。
小学校1年の女の子に小学校6年、5年、3年そして幼稚園の子どもたち、いろんな顔を作って笑わしてくれる。
この中の1人、1年生の女の子はじっと見ているとこの子は行動的なタイプだ。どうやら仕切るタイプだなと思って見ているとこの子どもの母親は「外でもし切っています」という。
この子どもを見ていると夫の母親に気性は似ている。
隔世遺伝なのかなと思ってみていた。
3時15分、自宅の戻る支度をして3時半に京都をでた。
朝は京奈和バイパスを走ったが帰りは国道24号線を走った。
木津川泉大橋に示している気温は35度になっていた。
川風のあるところでの気温、町の中では37度ぐらいになっているだろう。
道理で暑いはずだ。
泉大橋を越えて私の実家に向かった。木津川を越えて町の中に入る道路を少し行けば私の実家である。
久しぶりに弟家族にあった。
姪っ子はいい娘さんになっていた。
この間まで子ども子どもと思っていたらもう結婚する年齢になってきた。
姪っ子の部屋にパソコンが置いていた。
弟たちと話した後、姪の部屋でパソコンを見てネットのホームページを検索して教えた。
若い女性なので難しいページの内容もあるが私のブログぐらいは大丈夫かなと思った。
それでも夫は「そんなことしたら○○子に嫌われるぞ」と言われた。
おばちゃんのブログを見ても面白くないかもしれないがこれも何かを語りついでいくことになればと思っている。
また急いで私の実家を出た。
自宅に向かった。帰りに近くのスーパーで簡単な買物をして戻ってきた。
時計は5時半、急いで簡単な家事をして急いでシャワーを浴びた。
テレビで国立奈良博物館の展示の案内をしていた。
このチケット2枚ある。明日、これを見に行こうと夫と明日の予定を立てた。
そういえばこのチケット6枚頂き行きつけの喫茶店に置かせてもらったら昨日その喫茶店に行くと置かれていたチケットはなくなっていた。よかった。
ブログを書き始めたのが7時過ぎだった。夫はテレビ番組を「昭和の歌懐かしのメロデイー」にしてプロ野球を聞きたいので床について阪神戦を聞いていた。
ブログは途中だが中断して9時前まで見ていた。
そしてベランダから高円山を見ると灯りが見える。いつも暗闇になっている高円山にいくつかの灯りが見えた。思い出した。戦没者慰霊のための大文字焼で送り火の日だった。山の上で準備をしている人の灯りである。気がついたのが7時50分、10分ほど待った。
8時ちょうどにオレンジ色の灯りが高円山に浮かび上がってきた。
「大」の文字が赤々と雄大に高円山で燃えていた。
おもわずカメラを出して写真に撮影した。
暗闇に浮かぶ赤々と燃えた「大」文字焼、在日コリアンはこの日は日本植民地支配から解放された日で日本に対しては敗戦記念日といい韓国や在日韓国人の組織団体などでは「光複節(クワンボクチョッル)」と言って各地で記念式典が行われた。
人それぞれに思いはあるだろう。戦争と言う犠牲の上に今日の日本がある。
韓国も同じである。しかし韓国は未だに南北分断国家である。
大韓民国60年についてインタビューに先日神戸の元町に行った。
韓国レストランを経営する在日韓国人2世は言った。
「私は大韓民国の大極旗を背負ってそして支えで韓国レストラン20年をしてきた。大韓民国60年、韓国が発展したことはうれしいが分断された祖国はアリラン峠である。なぜ越えられない。1・2年で越えられると思ったのに未だに越えられない。17歳、18歳は祖国の建国に燃えていた。そして北朝鮮に帰った帰国者を京都駅まで送りに行った。祖国建設に燃えて帰った若い青年たちの多くを見送った。この時の燃えた時代から長い年月が立っているのに帰国した人は日本に戻ることはなかった。越えられないアリラン峠に大韓民国建国60年は心の底から喜ぶことができない」
このせつない気持いかほどに日本人は理解するだろうか。
建国に燃えて帰った同胞はほんのわずか、ほとんど生活苦などで帰国した。帰国したがそこは日本で聞いていた「地上の樂園」ではなかった。地獄の苦しみが立ちはだかっていた。これを知って北送した時の日本政府そして活動者ら、どうして私の父親は知っていたのだろうか。
親戚で活動する1人に「お前は人に北朝鮮に帰れ帰れというがお前が先に北朝鮮に帰ったらええやんか。北朝鮮の事実の事情を知っているからお前は帰らないのだろう」と言っていたことが現在の北朝鮮の実情と一致する。
大文字焼を見て戦後63年そして日本と韓国、どんなふうにして生きてきたのか感慨深いものがあり大文字焼きの送り火に北朝鮮に帰国した同胞そして拉致被害者の無事を祈っていた。
9時にテレビ番組が終わってブログ書いた。時計は9時半をまわった。
今日は朝が早かったので早く休もう。
弟の子どもがネットをお気に入りに入れてくれた。
ネットを通して1つでも心が響くものがあればうれしい。
そして日本で生まれて日本で育って生きていく。けっして偏らない思考で客観的に韓国と在日韓国人そして日本を見る訓練をして人生の節々に必ず役にたつことになるようにとしてほしい。偏らないでどこから見てもそこにその考え方があるという勉強の参考資料にしてほしい。これはおじいちゃん(私の父親)が子どもにずっと言い続けた言葉である。
偏らないで日本で生きて行く人生の方法を磨いてもらいたい。
日本社会で生きていく。日本文化も韓国文化も両方を知って感性豊かな女性になってほしい。可愛い娘さんになっていた。
弟は美男子とは思わないが姪は可愛らしい娘さんになっていた。
心で「悪い虫はつくなよ」と祈っている。
でもまた夫は怒っていた。
「もうおばさんのブログ嫌われるのに」と言う。
【写真】8月15日午後8時点火されたばかりの高円山の大文字焼。
姪御山への愛情も「悪い虫つくなよ」の一行で見事に!
何だか作文の添削みたいになり申し訳ありません。ご主人の気遣いも・・。
心温まるエッセイでした。
生前の父親が孫に話そうと思ってもまだ中学生でした。まして自分の子どもではない。孫である。孫には優しかったのでおそらく話していないだろうと思って生前の父親、姪から見ると祖父です。祖父は祖父なりに日本で暮らしていく客観的に物を見る目、偏ってはいけない。これは口癖のように言っていたので記述をしました。私から見るとうっとうしい父親でしたが今から振り返ると日本社会で暮らす在日コリアンの先が見えていたのだろうか。今の若い人にも通じることを言っていたということに改めて父親の苦悩が理解できます。日本植民地時代に翻弄された父親の知恵だったのだろう。
http://arasi3poono.blogspot.com/2008/07/blog-post.html
証拠写真が週刊誌に掲載されたが、実は、同席した女性が記念に撮った3Pの映像が存在することが明らかになった。
http://arasi3poono.blogspot.com/2008/07/blog-post.html
消去されるのは時間の問題かと思われるので、お早めに・・・