創価の彼、無宗教の私

創価学会の恋人との恋愛、その家族との問題。
現在は結婚し、脱会。それまでの経緯をそのまま残してあります。

幸せ、功徳について

2006年06月01日 | 対創価学会知識

 私なりに感じることを書いてみます。
 超常現象を信じない私の意見ですので、学会の教えを根本から否定することになると思います、学会員さんは気分を害される可能性があります。
 それを了承の上でご覧になる場合は責任が持てません、そういった方は予め読み飛ばして頂けると幸いです。
 
 生まれてからずっと、今も無宗教の人間がどう感じるかを記してみます。
 
 
 私はオカルト的なことを一切信じていないことを先に明言した上で、功徳というものに思うところがあります。
 
 私達は毎日、小さな幸せや些細な不幸をいくつも目にし、自身でも体験しています。
 同じ日常を過ごす上で、その時には気づかなくとも失ってから「あの時は幸せだった」などと思うことがよくあります。
 ラッキーとか、いいことがあったとか、毎日のそういう小さいことってすぐ忘れてしまいますよね。
 
 学会の人は連呼します。
 必ず幸せになれる!
 題目をすれば、折伏すれば、会合に出れば、寄付すれば、聖教新聞購読すれば!
 毎日幸せになるためにお経を唱え、幸せになるために自分の時間を注ぎ込む。
 ずっと「幸せ」を勝ち取るために反復行動を繰り返すんです。
 
 そんな時に小さな幸せがあったらどうでしょうか。
 気づきますよね、そして「お経唱えたからかも!」なんて思ってしまう。
 敏感になる(させられている)んです。
 
 
(擁護になるかもしれませんが、人に強要せず勝手に思い込んでやる分には日々の小さな幸せに気づく事ができるという意味で良い面もあると思います。
 自分以外の幸せにまで口を出さないで、という話です)

 
 
 よくスポーツ選手なんかが「黒いパンツをはいていたら勝てた」とかジンクスかけることありますよね。
 必ずしもそうすれば勝てると思ってやっている人ばかりではありませんが、それによって精神的に落ち着きを得ることができます。
 たまたまその時良いことがあった状況を強く認識して、どうして良いことがあったかを条件付けようとする行動。
 また何度でも良いことを起こしたいという願望から、条件付け行動を繰り返す
 
 
 創価学会が「幸せになれる!」を強調する理由に、良い事があったら「=学会のおかげ」と思うように暗示をかけるためであると考えます。
 少しでも学会のおかげだと感じてしまった人は、気分が良くなってどんどんエスカレートします。
 その間に良い事がなかったり悪い事が起きてしまった時の答えも完璧に用意されていますよね。
「信心が足りないから」
「宿命転換の最中だから」

 良い事が起きなくても気にならなくさせてしまう。
 長いスパンで見れば人生で良い事はきっとあるでしょうし、それを「学会のおかげ」と結びつけるのが目的なわけで、なければないで理由をつける。
 疑問を持たせないというのは恐ろしい。
 良い事があった時だけ学会のおかげ、だなんて、それはそれはありがたく感じるでしょうね。
 
 たまたま良い事があったとして、それは学会とはなんら関係がないのです。
 
 
 
 祈れば絶対に幸せになれます、とストリートチルドレンに向かって言えますか?
 食料がなく明日にも餓死してしまうかもしれない子供を抱える母親達に、言えますか?
 
 目の前で死んでいく子供を持つ母親に向かって、祈りが足りないのよ、と言うのでしょうか?
 
 
 
 他人の幸せを願うことは素晴らしいことです。
 しかしお経をあげたところで、学会に寄付したところで、彼らの空腹が満たされるわけではありません。
 彼らの幸せを何時間もお経をあげて願うくらいでしたら、そのお経をあげる時間をバイトでも増やして、学会にではなく直接ボランティア団体に寄付して頂いた方がよっぽど良いと私は思います。
 
 極端な例だと思われるかもしれませんが、
 学会の言う「絶対に幸せになれます」はそういう責任の重い言葉だと自覚して頂きたいところです。