Texas Straight Talk 2012/07/23
Security and Self-Governance
安全と自治(拙訳:チモシェンコ大村)
コロラドの映画館で先週起きた無分別で恐ろしい殺人事件は、米国民に、命は美しくともはかないものであること、そして、家族や友人、愛する者の存在を当たり前に思ってはいけないということを思い出させてくれました。この事件で負傷した方、また犠牲になった方の遺族に祈りを捧げたいと思います。この悲劇を機に、命を大切にする社会を作るために何をすべきかを我々は考えなければなりません。
一方で、政府があらゆる危険から国民を守ることができるわけではないという冷然たる現実を我々は直視しなければなりません。どれだけ法律を作っても、どれだけ警察や連邦職員を街に配備しても、どれだけ頻繁にインターネット通信を監視しても、覚悟を決めた個人や集団はそれでも多大な危害を市民に加えることができるのです。自分の安全と家族の安全を守る責任は我々個人にあります。
また、平和的で生産的かつ責任ある個人の集団を築き上げるのは、政府の役目ではなく、市民社会の仕事です。政府にはモラルを強制することも、問題を抱えた個人を励ますこともできません。個人の行為に対して政府が法や警察、刑務所を用いて行う外部からの統制は、悲惨な犯罪が起きた後でしか意味を持ちません。
対照的に、内部自治は、人間の行為を律する上で、いかなる法よりもはるかに強力です。この内部自治は、初めは親から、さらには親戚や模範となる大人からの良い影響を通じて、生まれたときから形成されていきます。幼少期を過ぎると、宗教や市民活動、社会活動を通じ、人格形成が起こります。モラルという礎なしには自治を達成することはできません。
しかし、政府は道徳的な存在ではありません。国家は我々の権利を保護しなければなりませんが、我々の人格まで作ることはできないのです。悲惨な犯罪が起きるたびに、当然ながら国民は、類似の犯罪が将来起こらないよう「何かしろ」と政府に求めます。しかし、この反射的な衝動は、ほとんどいつも、悪法の法制化と自由の喪失につながるのです。
警察の検問や監視カメラ、金属探知機でまみれた世界に本当に住みたいでしょうか。政府が完璧な安全を提供してくれるなどと本当に信じられるでしょうか。暴力事件を犯してやろうと妄想する不平分子や精神的に不安定な人物、あるいは社会的疎外者を一人残らずどこかに収容するしかないのでしょうか。一方で、国家が安全を提供してくれるという幻想よりも自由のほうがより重要だと認めることはできるでしょうか。
自由は安全によって定義されるのではありません。自由とは、市民が政府の干渉なく生活できることを意味します。リスクの無い世界を政府が作ることはできませんし、そのような架空の地で生きることを我々も望まないでしょう。全体主義的な社会のみが絶対的な安全を価値ある理想として敢えて謳います。なぜならば、それにより、市民の生活を国家権力によって完全にコントロー ルすることができるからです。悲惨な事件が起きて、政府の偽りのセキュリティー・ブランケット(訳注:幼児が安心感を得るためにいつも手にするお守り毛布)が手招きをする中で、それでも自由の価値を信じることができるとしたら、その時に初めて、自由は意味を持つのです。
Security and Self-Governance
安全と自治(拙訳:チモシェンコ大村)
コロラドの映画館で先週起きた無分別で恐ろしい殺人事件は、米国民に、命は美しくともはかないものであること、そして、家族や友人、愛する者の存在を当たり前に思ってはいけないということを思い出させてくれました。この事件で負傷した方、また犠牲になった方の遺族に祈りを捧げたいと思います。この悲劇を機に、命を大切にする社会を作るために何をすべきかを我々は考えなければなりません。
一方で、政府があらゆる危険から国民を守ることができるわけではないという冷然たる現実を我々は直視しなければなりません。どれだけ法律を作っても、どれだけ警察や連邦職員を街に配備しても、どれだけ頻繁にインターネット通信を監視しても、覚悟を決めた個人や集団はそれでも多大な危害を市民に加えることができるのです。自分の安全と家族の安全を守る責任は我々個人にあります。
また、平和的で生産的かつ責任ある個人の集団を築き上げるのは、政府の役目ではなく、市民社会の仕事です。政府にはモラルを強制することも、問題を抱えた個人を励ますこともできません。個人の行為に対して政府が法や警察、刑務所を用いて行う外部からの統制は、悲惨な犯罪が起きた後でしか意味を持ちません。
対照的に、内部自治は、人間の行為を律する上で、いかなる法よりもはるかに強力です。この内部自治は、初めは親から、さらには親戚や模範となる大人からの良い影響を通じて、生まれたときから形成されていきます。幼少期を過ぎると、宗教や市民活動、社会活動を通じ、人格形成が起こります。モラルという礎なしには自治を達成することはできません。
しかし、政府は道徳的な存在ではありません。国家は我々の権利を保護しなければなりませんが、我々の人格まで作ることはできないのです。悲惨な犯罪が起きるたびに、当然ながら国民は、類似の犯罪が将来起こらないよう「何かしろ」と政府に求めます。しかし、この反射的な衝動は、ほとんどいつも、悪法の法制化と自由の喪失につながるのです。
警察の検問や監視カメラ、金属探知機でまみれた世界に本当に住みたいでしょうか。政府が完璧な安全を提供してくれるなどと本当に信じられるでしょうか。暴力事件を犯してやろうと妄想する不平分子や精神的に不安定な人物、あるいは社会的疎外者を一人残らずどこかに収容するしかないのでしょうか。一方で、国家が安全を提供してくれるという幻想よりも自由のほうがより重要だと認めることはできるでしょうか。
自由は安全によって定義されるのではありません。自由とは、市民が政府の干渉なく生活できることを意味します。リスクの無い世界を政府が作ることはできませんし、そのような架空の地で生きることを我々も望まないでしょう。全体主義的な社会のみが絶対的な安全を価値ある理想として敢えて謳います。なぜならば、それにより、市民の生活を国家権力によって完全にコントロー ルすることができるからです。悲惨な事件が起きて、政府の偽りのセキュリティー・ブランケット(訳注:幼児が安心感を得るためにいつも手にするお守り毛布)が手招きをする中で、それでも自由の価値を信じることができるとしたら、その時に初めて、自由は意味を持つのです。