おなじみ、リバタリアン代表ロン・ポール議員のブログから。
Texas Straight Talk 2011/08/22
The Illusion of Safety
安全という幻想(拙訳:チモシェンコ大村)
ノルウェーとロンドンにおける最近の暴力事件は、アメリカ国内において、当然のことながら不安をもたらしました。それは、悪化する経済がアメリカの都市において暴力と混乱を引き起こしうると多くの人が恐れているからです。そうであるからこそ、議会は経済を最優先事項として、また国家安全保障として捉えるべきなのです。我が国の財政を健全化し、経済成長を促進しなければ、またそうするまでは、市民社会は退廃し続けるでしょう。
これらの事件から全てのアメリカ人が学ぶべき根本的な教訓は、「政府には我々を守ることができない」ということです。どれだけ多くの法を成立させようと、どれだけ多くの警察や連邦政府職員を市街地に配置させようと、覚悟を決めた個人や集団はそれでも多大な危害を加えることができるのです。ノルウェーにもイギリスにも、厳しい銃規制法があります。特にロンドンでは、監視カメラがほとんど全ての公共の場を見張っています。しかし、法律も隠し撮りカメラも、無法な暴徒や猟奇的な大量殺人者を前にしては役に立ちません。現場にいる私人だけが、これらの悲劇を防ぐことができ、あるいは小さくすることができたでしょう。そして、忘れてはならないのは、ロンドンにおける犯罪行為は、窃盗・放火・器物損壊だけではなく、無関係の見物人もまた襲われ殺された、ということです。このような事例において、自衛手段としての殺傷力のある武器の使用は完全に正当化されていたことでしょう。
おそらく、これらのおぞましい事件によってもたらせる唯一の良い点は、「自身の安全と家族の安全を守る責任は我々個人にある」という理解が強化されることです。つまり、はっきり言うと、家や個人に対する暴行を抑止するために、我々は銃器を安全に所持し、使用しなければなりません。警察や政府の職員が3.1億人のアメリカ市民を四六時中守ることができると考えるのは馬鹿げています。
しかし、メディアや多くの役人のおかげで、国家が我々の保護者であり、また全ての問題の解決策だと考えるようアメリカ人は仕向けられてきました。何か悲惨な事が起きるたびに、特にニュースで派手に取り上げられると、人々は反射的に、政府に何か対策を講じるよう要求します。この衝動は、ほとんどいつも、悪法やさらなる借金、そして自由を失うことにつながります。それは、自己依存・自己責任というアメリカの最高の伝統と完全に対立します。
我々は本当に警察の検問や監視カメラ、金属探知機の世界に住みたいと思っているのでしょうか。暴力行為について妄想する精神障害者や社会的疎外者を一人残らず投獄するつもりなのでしょうか。政府が完璧な安全を提供してくれると本気で信じているのでしょうか。あるいは、国家が提供する安全という幻想よりも自由のほうがより重要だと認めることはできるでしょうか。
自由は安全によって定義されるのではありません。自由とは、誰かが他者に対し乱暴や不正を働かない限り、市民が政府の干渉なく生活できることを意味します。リスクの無い世界を政府が作ることはできませんし、そのような架空の地で生活することを我々も望まないでしょう。全体主義的な社会のみが完璧な安全を価値ある理想として敢えて謳うでしょう。なぜならば、それにより、市民の生活を国家権力によって完全にコントロールすることができるからです。悲惨な事が起きて、政府のセキュリティー・ブランケット(訳注:幼児が安心感を得るためにいつも手にするお守り毛布;精神安定剤)を目の前にしたとき、それでも自由を信じることができるとしたら、その時に初めて、自由は意味を持つのです。
Texas Straight Talk 2011/08/22
The Illusion of Safety
安全という幻想(拙訳:チモシェンコ大村)
ノルウェーとロンドンにおける最近の暴力事件は、アメリカ国内において、当然のことながら不安をもたらしました。それは、悪化する経済がアメリカの都市において暴力と混乱を引き起こしうると多くの人が恐れているからです。そうであるからこそ、議会は経済を最優先事項として、また国家安全保障として捉えるべきなのです。我が国の財政を健全化し、経済成長を促進しなければ、またそうするまでは、市民社会は退廃し続けるでしょう。
これらの事件から全てのアメリカ人が学ぶべき根本的な教訓は、「政府には我々を守ることができない」ということです。どれだけ多くの法を成立させようと、どれだけ多くの警察や連邦政府職員を市街地に配置させようと、覚悟を決めた個人や集団はそれでも多大な危害を加えることができるのです。ノルウェーにもイギリスにも、厳しい銃規制法があります。特にロンドンでは、監視カメラがほとんど全ての公共の場を見張っています。しかし、法律も隠し撮りカメラも、無法な暴徒や猟奇的な大量殺人者を前にしては役に立ちません。現場にいる私人だけが、これらの悲劇を防ぐことができ、あるいは小さくすることができたでしょう。そして、忘れてはならないのは、ロンドンにおける犯罪行為は、窃盗・放火・器物損壊だけではなく、無関係の見物人もまた襲われ殺された、ということです。このような事例において、自衛手段としての殺傷力のある武器の使用は完全に正当化されていたことでしょう。
おそらく、これらのおぞましい事件によってもたらせる唯一の良い点は、「自身の安全と家族の安全を守る責任は我々個人にある」という理解が強化されることです。つまり、はっきり言うと、家や個人に対する暴行を抑止するために、我々は銃器を安全に所持し、使用しなければなりません。警察や政府の職員が3.1億人のアメリカ市民を四六時中守ることができると考えるのは馬鹿げています。
しかし、メディアや多くの役人のおかげで、国家が我々の保護者であり、また全ての問題の解決策だと考えるようアメリカ人は仕向けられてきました。何か悲惨な事が起きるたびに、特にニュースで派手に取り上げられると、人々は反射的に、政府に何か対策を講じるよう要求します。この衝動は、ほとんどいつも、悪法やさらなる借金、そして自由を失うことにつながります。それは、自己依存・自己責任というアメリカの最高の伝統と完全に対立します。
我々は本当に警察の検問や監視カメラ、金属探知機の世界に住みたいと思っているのでしょうか。暴力行為について妄想する精神障害者や社会的疎外者を一人残らず投獄するつもりなのでしょうか。政府が完璧な安全を提供してくれると本気で信じているのでしょうか。あるいは、国家が提供する安全という幻想よりも自由のほうがより重要だと認めることはできるでしょうか。
自由は安全によって定義されるのではありません。自由とは、誰かが他者に対し乱暴や不正を働かない限り、市民が政府の干渉なく生活できることを意味します。リスクの無い世界を政府が作ることはできませんし、そのような架空の地で生活することを我々も望まないでしょう。全体主義的な社会のみが完璧な安全を価値ある理想として敢えて謳うでしょう。なぜならば、それにより、市民の生活を国家権力によって完全にコントロールすることができるからです。悲惨な事が起きて、政府のセキュリティー・ブランケット(訳注:幼児が安心感を得るためにいつも手にするお守り毛布;精神安定剤)を目の前にしたとき、それでも自由を信じることができるとしたら、その時に初めて、自由は意味を持つのです。