チモシェンコ大村のロン・ポール研究+くだらない話

ロン・ポール氏のブログ翻訳を通じて、リバータリアン思想・オーストリア経済学について勉強しています。

秋刀魚の味

2011-07-21 22:15:50 | 日記
小津安二郎監督「秋刀魚の味」を観ました(2度目)。

お年頃の娘をもった親父の哀愁を淡々と描いた映画なんですが、いやーいいですね。ほとんどがお見合いで結婚していたような時代の話ですから、当然現代とは時代背景が全く異なります。しかし、それでも何かリアルなものがそこにある。この素晴らしさを言葉で表現できたらいいですが、小生の力量では無理ですね。いや、ここで安易な言葉で総括してしまったら、小津監督に対して逆に申し訳ないことになりますね。ですから、はい、まだの方はぜひ観て下さい。

作家の保坂和志氏はこう言ってます。

作者にとって「小説を書く」とは「問題を解く」こととイコールになる。当然、読者にとっても「小説を読む」ことが「問題を解く」こととイコールになる。―ここでも注意してほしいのだが、その問題は読み終わった後で解けているわけではなく、小説を読んでいる時間(プロセス)の中そのものに問題を解くという行為が内在する。だから、その小説を読んでいない人に向かって説明しても、たぶん通じない。(中略)そして、小説も同じことで、読者が日常使っている言葉や美意識と完全に重なり合わないものを積み重ねていく、そのプロセスの中にしか答えはない。(「書きあぐねている人のための小説入門」より)


小説だけではなく、映画も演劇も絵画も、ありとあらゆる芸術というのは、「そのプロセスの中にしか答えはない」のだと思います。(小生のやってるサイエンスもそういう側面はあります。参加しないと面白さが分からないという点で)

話は飛びましたが、「秋刀魚の味」の中でとても気に入ってるシーン。親父と次男(高校生ぐらい?)のたわいもない会話。

父「ねぇさんね、誰か好きな人でもあるのかな」
次男「あるだろ」
父「あるかい」
次男「知らないけどさ。俺だってあるもん」
父「お前、あるのか」
次男「あるよ。清水トミ子ってんだ」
父「どこの人だい」
次男「どっか知らないけどさ、ちょいちょい口きぃてんだ」
父「ふ~ん。何してる人だい」
次男「毎日のってるバスの車掌さんだよ」
次男「名札で名前覚えたんだ」
次男「ちぃせんだ、太ってんだ、かわいいんだ」
父「ふ~ん。そうか」

と、こんな感じ。書いたところで観てない人には伝わらんか。とにかく、自分で口にしたくなるようなセリフがいっぱい。いいんだなぁ~、いいんだ。あの、棒読みな感じがいいのかなぁ~。なんだろうなぁ~。

などと、思いに耽っているとまた観たくなるのですね。