真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

『お礼まいり』 (徳岡孝夫さん 2010年) 老いてなお茶目っけを振りまく /付「外人記者クラブ」のなぞ?

2011-03-06 | 読書-エッセイ/小説etc
お礼まいり
徳岡 孝夫【著】
清流出版 (2010/07/14 出版)

しみじみ。
人生・・・。

茶目っけを発揮する稀代の名文家。
1)芥川賞・直木賞の授賞式とパーティの招待状はいつも欠席していたのだが、19歳と20歳だという若い娘が二人受賞という機会に、友人を誘って出席してみることにする。(御先祖様になる話)
(主催者に連絡して友人にも招待状を出してもらい)有楽町で待ち合わせて会場の東京会館へ。

ちょっと早かったのだが、受付ができていたので、「綿矢の祖父でございます」と言ってみる(!)。
そこは文藝春秋社、しっかり認識する編集者がいて、「徳岡さんじゃありませんか」と対応にぬかりない。

綿矢・金原受賞式の際、会場最後方では徳岡氏ほか1名が椅子の上に立ち上がって見物していたと知る愉快。

2)白内障の手術で杏林大学病院に入院する際、入退院会計窓口で(預託金30万円也を預ける必要がある)、「アンズの木を一本植えますからお金は堪忍してもらえませんか」と言ってみる(!)。(独眼の白内障手術)
命名の由来はしっかり習っている窓口女史、ニッコリ笑って、「そうはいきませんわ・・」と患者の遊び心に抜かりなく対応しつつ却下する。

3)ローマ法王たじたじ、の件。
教皇ヨハネ・パウロ二世、来日の記録

日本カトリック・ジャーナリストクラブというのがある(あった)のか。
会長だったという著者は、教皇の訪日を前に記者団を率いてインタビューに赴く。

外国訪問の際には、その国の言葉をちょっと使って見せることにしていた教皇は、「今、日本人の神父について日本語を習っているのだ」と明かす。
著者は、「じゃあ、そのうちの一つか二つを言ってみせて」とせがむ。

言いかけて、「いや、やめておこう」とかなんとか。
もう時間です・・と秘書役神父がアピールしているのを知りつつ、逃げられないよう右肘を掴んで(!)、「(いいじゃないですか)一つか二つを・・」と、迫る迫る(!)。

「ユー アー ア テリブルマン(笑)」と言われちゃう。
「あんたには かなんなあ」くらいの感じかも?

それにしても、あのタイミングでポーランド人師枢機卿を教皇に選んだことの重みは、たいへんなものだな。
20世紀の懸案にかたをつける結果となったからな。

【著者に聞きたい】徳岡孝夫さん『お礼まいり』 生きている過去を書く
名文家として知られる徳岡さんに、文章上達の心得を乞(こ)うと、「まずは“写経”してみることですな」。

〈著者に聞きました〉お礼まいり 徳岡孝夫さん
長年報道の世界に身を置いてきた私は、ものごとを公明、公正に見られる「報告者」でありたいと、常々思い、そのように努めてきました。この本からそうした姿勢を少しでも感じていただければ、うれしく存じます。

宮城道雄が列車から転落死したとは(歴史として)知っていたが、救出された際にはまだ会話可能だったとは知らなかった。
なんだ、ここにも書いてあった。
宮城 道雄(みやぎ みちお、1894年(明治27年)4月7日 - 1956年(昭和31年)6月25日)

曽根崎警察署をカバーしていた若き社会部記者の著者は、宮城転落死事件(刈谷近郊)は聞いていたが、大阪には関係ないと思っていたところ、A紙の記者から、「主のない琴だけが大阪に着いた」という話を聞き、これはいけるぞ、とひらめく。
急いで確認の取材を行い、締め切り間際に電話送稿で記事をたたき込む。
(紙に原稿を書いている時間がない場合に、ソラで原稿内容を社に伝える、緊急手段。通称「勧進帳」~というのが昔あったそうな)

徳岡氏に情報をくれた記者の新聞には、(宮城氏関連の他の記事が多く)「琴だけ着」の記事は出なかったが、徳岡氏の毎日には大きく出た由。

ほお、詳細が。
この文章は昭和31年の宮城会会報「宮城道雄追悼号」に掲載され、この克明な記録を元に多くの論文や小説が書かれました。

ところで、著者が奥様を亡くされたのは2000年だったか。
2000年の年の瀬も押し迫った頃、徳岡さんは奥さまを喪いました
相当お綺麗な方だったようだ。

何かにつけて奥様のことを思い出されていることが、本書でもそこかしこに記されているな。
でも、がっくり来て早々に…とならずに、しかも大病を克服して生きておられるのは偉いというか、ユーモア感覚をしっかり維持しておられることと無関係ではあるまい?

母屋をご次男一家にあけわたされ、敷地内の離れに起居されているという著者、テレビは置いていないらしく、ご覧にならない。
で、ラジオ深夜便は愛聴されているようなのだが、ご出演という話はないのか?

明日へのことばコーナーならば録音だから、深夜に引っ張り出す必要もないし。
NHKラジオ深夜便〔こころの時代/明日へのことば〕

版元社長のブログか。
加登屋のメモと写真 清流出版 (2003年1月 1日 17:31)
徳岡孝夫さん来社 

清流出版 (2008年4月 1日 15:42)
翻ってこの「加登屋の写真とメモ...」欄は、だれにも注目されないページで、悲しいかな、読む人がまったくいないに等しい

加登屋のメモと写真 清流出版 (2008年9月 1日 16:44)
徳岡孝夫さんのウイットに満ちたメールに、ただただ、唖然茫然とするばかり

東京外人記者クラブ(2003/1/1)だとか、"この日、有楽町の日本外国人特派員協会パーティールームで、文藝春秋『諸君!』主催の「徳岡孝夫さんを囲む夕べ」に僕たちも参加させてもらった"(2008/4/1)だとかの記述がある。
徳岡氏自身も、東京会館に行く際に、「外人記者クラブ」で待ち合わせた旨記載されている。

どんなところだろうと思うヒトがいるかどうかわからないが、こんなところ。
よく「外人記者クラブ」と言われるが、日本外国特派員協会(The Foreign Correspondents’Club of Japan)が正解。

海外から日本に来ている特派員ら、「外人記者」が主体であることは事実だが、正会員の国籍は問われておらず、外国メディア所属の常勤ジャーナリスト、が正解。
「外人記者」と、「外国メディアの記者」の違い。
「外国人特派員」と、「外国特派員」は違う。

なお、準会員はジャーナリズム業界以外対象なので、一般企業幹部も活用。
その代理(というか、ご配慮)で、ランチ講演会( PROFESSIONAL LUNCHEON というのか)に何度か行ったことがあるもので。

日本外国特派員協会〈以下、(「FCCJ」)は、以下のとおりの会員を募集しています。正式な新会員申請書に際しては、当協会の会員2名からの推薦サインが必要です。

FCCJ Obituary: Juro Wada
和田寿郎博士も会員だったのね。

当店の「徳岡」関連過去エントリ集

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