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成都 現地 発 ツアー

2018-02-01 08:43:12 | 海外旅行
世界文化遺産・青城山

2002年世界文化遺産に登録された青城山は成都西北部に位置し、成都から約60キロ離れています。山麓の海抜は726m、主峰の老宵頂海抜は2434m、一年中茂っている原始林と城壁のように繋がる連峰から青城山と名付けたのです。人出が少ないから、数多い野生動物、壮美な瀑布、聳え立っている原始林などが青城山の「青城天下幽」の独特な景観を成しました。 紀元 143 年、青城山に一人百歳を超えた老人・張陵さんが修行に来ました。張陵がここで昔から伝わってきた「黄老学説」を研究、発展して、中国の伝統宗教・道教を創建して、地元の人々に広く布教しました。ここで発祥した道教がやがて中国全土に広がりまして、中国人を今でも深く影響している伝統宗教になりました。

現在青城山にも沢山の道教お寺が残っています。一番である「上清宮」が晋代にできたお寺で、現存のお寺が清同治年代建て直されたのです。歴代の有名人がよく訪れたお寺なので、沢山の文化遺跡を有し、青城山のもっとも有名な道教お寺観光先になっています。お寺には「天下第五名山」、「青城第一峰」などの石刻、蒋介石親筆の「上清宮」の額、千年の歴史を持つ道教経典「道徳経」の木彫り、清代にできた道教始祖・老子の銅像など、数多い文物保存されています。他の代表的な道教お寺は建福宮、天師洞、祖師殿と朝陽洞などがあります。建福宮は青城山入り口にあり、唐代にできたお寺で、交通便利なので、現在でも線香の多いお寺です。天師洞は道教始祖・張道陵の修行と説法地だそうです、洞窟の入り口には一本巨大な銀杏の木が茂っています。高さ50m、直径2.24m 、凡2000年以上の歴史を持っている、伝説によると、張道陵が最初植えたそうです。 これらのお寺が皆山の形に沿って建造していて、建物の屋根や内部建造などが皆数字の「三」を表現しています。全ての建築が「一から二が生まれ、二から三が生まれ、三から世界万物が生まれる」の道教の基本考えに基づいて建立されたのです。また、建物には精美に造った壁画や浮き彫りなどが有って道教の「清静無為、健康長寿」思想を表しています。特に一番高い峰にある「上清宮」の正門入り口に彫刻されてた「道教太極図」が道教の「天人合一、陰陽合一」の基本哲学観を集中的に表現しました。

青城山で修行してる道士達が長い間、沢山の素晴らしい道教文化も作りました。代表なのは、火薬製造技術、漢方薬本と道教音楽などです。
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成都 現地ツアー

2018-02-01 08:25:38 | 旅行
世界文化遺産・都江堰水利プロジェクト
2000年12月、都江堰が世界文化遺産に登録され、峨眉山、楽山、九塞溝、黄龍などに次いで四川省の5番目の世界遺産になりました。まず2300 年前の歴史を辿らないといけないんです。紀元前4世紀頃、中国が戦国時代になり、秦、楚、趙、韓などの7国があって、一番国力強いのが秦と楚の両国です。秦国は当時四川省を占め、四川省から揚子江を下り、まず楚国を滅ぼし、その後、ほかの5国を占め、中国統一する軍事方針を立てました。紀元前376年、中国統一する第一歩として、秦軍が四川省を攻め、当時四川省を支配している蜀国を滅ぼしました。その後、紀元前 280 年、秦の将軍・司馬さんが1万艘の軍船を率いて楚国を攻めに行きました。しかし、軍事用物資の配達と輸送問題で現在の三峡辺りのフ陵まで進んだら、もうそれ以上進軍できませんでした。というのが、秦軍当時軍事用物資の調達が主に成都でやりますが、成都周辺には大きな河がありませんから、物資を船に乗せるのが成都からかなり離れている岷江上流でやらないといけないんです。それで軍事物資の輸送が結構遅くて、戦争がうまくできなかったのです。この問題を解決するには岷江の流れを成都へ流せるしかないんです。

紀元前272年、李氷が3年間を掛けて、詳しく岷江を調査した後、岷江を分水して成都へ流せる治水案を提出しました。紀元前270年、秦中央政府から10万両銀(5000キロの銀)をもらった李氷が現在の都江堰で岷江の分水工事を着工しました。蛇籠(竹で編んだ籠に石を一杯包んだもの)などを利用して岷江を堰きとめ、4年間で分水堤防と岷江を2本の河に分ける魚嘴を造りました。この二つの部分で岷江が2本の河・内江と外江に分かれ、内江の水は成都を経由して揚子江に流れ、外江は昔のままの河道(成都経由しません)で揚子江に注いでいます。しかし、内江と成都の間には一つ大きな山・玉塁山が隔てています、内江の流れを成都へ流すには山を切らないといけないんです。2300年前の時、その山を一つ切るには少なくとも40年間かかります、もし、普通の作業で山を切るともう戦争には間に合わないので、李氷が妙案を出しました。岩をまず薪で焼け、岩が非常に熱いうちに冷たい水を掛け、岩が脆くなった時に作業の労働者が一緒に切ります。これで8年間かけて、李氷が玉塁山を削って、幅20M、深さ40Mの開水路を造りました。これが現在の宝瓶口です。その後、李氷が2年間で宝瓶口から成都まで、成都からまた岷江に戻る2本の運河を造りました。

実際の都江堰は軍事用だけではなく、できてからは洪水防止、農業灌漑用水提供などの重要な役割も果たしてきました。その建設技術と考えが今でも参考の値打ちがあります。建設場所の側に山がある、流れの曲がりがあります。水流流体力学によるとこのような場所にダムを造ると水流などコントロールしやすいそうです。都江堰の第一肝心な部分の魚嘴は分水の役割を果たしています。魚嘴の建設場所、大きさ、長さ、高さ、傾斜度と造る位置辺りの水流流速、流量などが全部精密に計算、設計されています。それで造った魚嘴がうまく岷江の内江と外江の分水をしています。増水期は上流から流れてきた岷江総水量の60%が外江に入り、40%が内江に流れます、渇水期が逆になり、60%の水量が内江に入り、40%の水量が外江に入ります。そうすると、うまく内江に入る水量をコントロールして、増水期は洪水にはならないし、渇水期は農業灌漑用水を保証できます。

都江堰の一大素晴らしい貢献は現代ダム建設中でも大変難しい問題である沙貯まり問題をうまく解決しました。これがまず都江堰の建設場所の選択と大きな関係があります。1回目の分水設備・魚嘴はちょうど岷江曲がりにあり、そして、内江の河床が突き出ていて、外江の河床がへっこんでいます。水流流体学によると、この場合、魚嘴で分かれた川の表の水が内江に入り、底の水が外江に入ります、沙が殆ど底の水にあるから、それで大部分の沙が自然に魚嘴のところから外江に流れました。また、内江に入った砂が河の天然堤防である玉塁山とのぶつかりで、90%以上が飛沙堰を通って外江に排出されています。増水期流れ速い時は沙の排出率が98%にも達しているそうです。当然、内江に貯まる沙もあるので、毎年内江の沙を出す、河床を掘る修復工事も行います。三国時代の諸葛孔明もここを非常に重視して都江堰修復する役人も派遣していました。

二王廟: 最初の名前は「崇徳祠」で、紀元494年、都江堰の人が李氷さんの巨大な恩徳に報いるために李氷さんの石像を造り、奉った記念廟ですが、宋開宝時代(紀元972年)、成都平野豊作で、人々が李氷さん都江堰ダム造った恩徳を記念するに彼の息子・二郎さんも造り、同じ祠に奉りました。参拝に来る人が余りにも多いので、当時四川省で流行してた道教の先生達が李氷さんとその二郎さんを道教の神様として崇拝するようにしてきました。それで、その時代から、李氷さんとその息子の二郎さんが道教の神様になり、中国人に尊敬されてきました。また、その時から、「崇徳祠」が「二王廟」に名前変わり、道教の先生達も多く修行しに行くお寺になり、やがて、道教のお寺になりました。
元の建物は明の末に戦争で無くなり、現在の建物は殆ど清王朝の同治、光緒時代(紀元1862年~1908年)の間に再建されたものです。現在でもまだ数多いの道教の先生が中で修行しています。

安欄索橋: 別名は「夫妻橋」(夫婦一緒に手を繋いで渡るとまた来世も夫婦になれるそうです)、岷江の内江に架かった吊り橋で長さ240メートルぐらいです。昔は成都の漢民族と九塞溝・黄龍辺りのチベット、チャン族の主なビジネス交通要所の役割を果たしていましたが、今は単なる観光用の吊り橋になっています。宋時代に始めて造られたのですが、今の橋が何回も修復されています。

離堆公園: 都江堰ダム側に位置してる都江堰市町の庶民向けの公園ですが、観光客よく通る公園な ので、都江堰観光の一つポイントにもなっています。公園には李氷さんを記念する伏龍観という道教のお寺があります。伏龍観は晋時代(紀元500年前後)に青城山の悟った道教の高僧を記念するためにできた道教お寺ですが、北宋(紀元1024年)に李氷さんの石像を奉って、李氷さんを記念する道教のお寺になりました。伏龍観には道教の神様造像を一杯奉るほかに、石像も極めて多いです。有名なのは2つぐらいあります
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成都発楽山大仏ツアー

2018-02-01 08:16:11 | 海外旅行
世界遺産・楽山大仏 
 1996年峨眉山と一緒に世界文化遺産と自然遺産に登録されました楽山大仏は、成都市から約130キロ離れ、バスで約1時間半かかる現在楽山市町郊外にあります。大仏全体の高さが71m,頭部長さが14.7m,頭部の直径が10m,首長さが3m,耳長さが7m,耳の中は二人が並べて立てるぐらい広いです。そのほか、指が8、3m、足の長さが11m、幅が9mで、足の上には100人ぐらい座れるそうです。この巨大な仏像が誕生してから、ずと世界一の位置を占めており、タリバンに壊された55mのバミヤン大仏よりも遥かに高いです。では、なぜこの世界一の大仏をここに彫られたのか?

楽山大仏彫られた凌雲山はちょうど楽山市町郊外を流れる3本の河:岷江、青衣江と大渡河の合流点に位置し、河の流れが非常に急であり、楽山町を往来する船にとっては大きな危険地です(唐の時代、楽山市は成都辺りの一番大きな港で、成都を中心とする四川省西部の人が四川省の東部に行く或いは四川省を出る時、一番便利なのが楽山から船を利用して行く方法です)。数多い商船と客船が楽山大仏手前の三江合流点を通る時、よく難波が起こり、船の沈没事件が絶えずに発生してたのです。紀元713年、唐則天武後時代の末期、凌雲山で修行している海通和尚は楽山大仏手前の三江合流点には悪龍があるから、船がよく沈没すると考え、その悪龍を追い払い、衆生を災難から救い出すベスト方法がやはり仏像を造り、仏様の力を借りて、悪龍を鎮めると思った。同年、海通和尚の主催で、三江合流点に位置している凌雲山で巨大な仏像造像工事が着工しました。あまりにも大きすぎる工事なので、紀元803年、工事着工90年間後、やっと完成しました。造像中、三江合流点の河床に捨てられた凌雲山から削られた沢山の岩石が、河の流れを緩やかにさせました。それで、楽山大仏できてからは楽山三江合流点での船の沈没事件がなくなりました。この点から言うと、楽山大仏の造像工事は一つの治水工事でもあります。

楽山大仏彫られた凌雲山の岩石が紅砂頁岩で、石質が柔らかくて脆い、雨や風に浸食されやすいです。しかしなぜこのような岩に彫られた大仏像が1200年間経ってもまだ完全に残っているか?
当時の大仏造像設計者がうまく保護措置を取っていたからです。
①大仏できた当時に大仏全体を守る13階建ての楼閣・大像閣が立てられている。これで雨や風の浸食を弱めています。大仏の両側の岩壁に残っている沢山の長方形の孔が当時の大像閣を支える柱の挿した所です。
②大仏の体には沢山の排水路を設計しています。
A,頭にも耳にも方にも全部地面に繋がる排水路を造っています。
B,仏像の衣装の皺や襟などの造形を巧みに設計して、うまく排水しています。
③工事中の大仏への人力損害をもたらさないように、大仏を彫る岩壁の横に173段の石階段を作り、造像作業中の工作道として使っています。現在その石階段が観光客の遊歩道になっています。
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成都発峨眉ツアー

2018-02-01 07:54:56 | 海外旅行
峨眉山概況:
1996年世界文化自然複合遺産に登録された峨眉山は、成都市から約156キロ、バスで約2時間かかり、晋時代からずと中国四大仏教名山の一つとして名が知られています。峨眉山の最高峰万仏頂の海抜が3099m、2番目高い峰金頂の海抜が3077m、入れずも山麓の海抜より2500mも高いから、雄大壮美な仏教聖山景色を成しています。峨眉山はキョウライ山脈に属し、群峰は合わせて72峰も超えているそうです。山全体の形が少女の眉毛に似ていることから「峨眉山」と名づけられたのです。唐代大詩人・李白は下記のように風光明媚な峨眉山を謳っています:「青冥倚天開、彩錯疑画出」,「蜀国多仙山、峨眉遜難匹」。このように歴史上有名な学者や詩人などが絶えずに峨眉山を参拝に来て、沢山の名句を峨眉山に遺し、峨眉山をより一層有名にさせました。

前漢時代、峨眉山にはまだ道教の道館しかなかったのですが、紀元3世紀半ば、インドからの仏教修行者が峨眉山に修行しに来たから、峨眉山では初めて仏教のお寺が現れました。紀元420年(東晋時代)、新しく訳された仏教経典・華厳経では峨眉山を普賢菩薩の修行山と見られました。その後、仏教のお寺がどんどん峨眉山で造られるようになりました。唐時代の終わりに連れて、宋の時代、峨眉山の道教発展が衰えてきて、仏教お寺が盛んに造られ、峨眉山が仏教発展の繁昌期を迎えました。一番仏教繁盛な時、峨眉山には151箇所の仏教お寺も有ったそうです。北宋時代紀元980年、宋太宗の命令で高さ7、85m,重さ62トンの普賢菩薩銅像を造られ、万年寺に安置されました。それがきっかけで峨眉山が正式的に普賢菩薩の修行道場と認められました。峨眉山も五台山、普陀山と九華山と一緒に中国四大仏教名山になりました。

現在峨眉山にも20箇所ぐらいの仏教お寺が残っています、有名なのは山の麓から頂上まで数えますと報国寺,伏虎寺,万年寺,洗象池,華蔵寺などです。

報国寺(海抜500m)
 明の末にできたお寺で最初の名前は「会宗堂」でしたが、中に儒教人物、仏教の仏様、道教の神様の造像を奉っていました。清の康煕皇帝がお寺を改造させた後、報国寺という名前を付けました。戦争時代、蒋介石さんと夫人・宋美齢さんが峨眉山の紅珠山別荘に泊まった時、よくこのお寺参りに来たそうです。今は峨眉山の一番交通便利なお寺なので、仏教信者の姿がよく見当たるお寺になっています。お寺中の貴重な文物は七仏殿の陶磁の七仏像、入り口の高さ2.3メータ、重さ25トンの鐘と14階建ての紫銅でできた華厳塔です。
伏虎寺(海抜630m)
峨眉山麓にある尼さんのお寺で、報国寺から約3キロ離れています。お寺が何千年もの歴史がある森々原始林に囲まれていますが、しかし不思議な自然現象でこのお寺の仏殿の屋根にはいつでも落ち葉が見られません。清王朝時代の康煕皇帝も不思議に思い、お寺には「離垢園」の額を書いてプレゼントしたのです。今でもその額が伏虎寺の本殿に奉られています。
万年寺(海抜1020m)
唐代の大詩人李白が数ヶ月も泊まり、「峨眉山月の歌」などの名句を遺したお寺です。宋時代に造られて巨大な普賢菩薩銅像がこのお寺の無梁殿に安置されています。無梁殿が古インドの建築方法で造った建物で、屋根が丸い、建物の中には柱がありません。「天が丸い、地が四角い」の古代思想により造ったものだそうです。万年寺まで普通リフト利用して行くが、リフト6人乗りで、乗る時間は10分間以内、上がる高さは約150メータぐらいです。お寺中に般若堂、弥勒殿、普賢殿、無梁殿などがあるが、李白詩吟してるところの「白水池」も残っている。また、お寺には仏教の宝物・釈迦さんのシャリである・仏歯(化石)とインドからの貝殻経も保存しているそうです。
洪椿坪(1120m)
洪椿坪はまた千仏禅院とも呼ばれています。お寺には木製の七面蓮灯があり、高さ1mぐらい、
七面にはそれぞれ仏教、道教、儒教の代表人物が彫られています。峨眉山の仏教、道教、儒教並存の時代を表しています。このお寺辺りは霧の日が多くて、「洪椿曉雨」などの霧景色がこのお寺の絶景だ評価されています。
洗象池(2070m)
このお寺には一つ小さい池があり、伝説によると普賢菩薩乗る象さんがその中で泳いだそうです。お寺の歴代のお坊さんが野生の猿に餌をやる習慣があるから、お寺周辺にはいつも沢山のかわいい猿さんがいます。現在猿を見るためにわざわざ洗象池まで行く中国国内観光客が多いそうです。
華蔵寺(3077m)
紀元一世紀に建立されたお寺で、最初の名前は「普元殿」でした。明時代に「新明華蔵寺」に改名され、純金でお寺の仏殿を金鍍金しました、日が当たる時、輝きまして非常に注目的だったのです。それで、華蔵寺所在の峰が金頂峰と名づけられたのです。しかし、歴史上の火災で、元の華蔵寺が焼かれ、元の建物が全部無くなりました。現在の華蔵寺は20世紀80年代に再建されたのです。華蔵寺は峨眉山2番目高い峰・金頂にあり、ここからは峨眉山の「雲海」,「日の出」,「ブロッケン」などが全部見られます。
①雲海 峨眉山の72峰は海抜全部2000mを超えています。山全体が霧の日が多くて、一年中の半分以上の日が「雲海」景色が見られます。
②日の出 中国では沢山の名山から「日の出」見られますが、峨眉山の日の出がいつもほかの山よりもっと多い観光客を呼び寄せています。ほかの山(泰山や五台山など)で日の出見るなら、全部3000m以下で見ますが、峨眉山だけが3000m以上のところで見るのです、高いところから見た日の出が当然もっと壮美です。
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