人生に対する目的意識は 人それぞれです。しかし『その目的こそが人生全般を左右してしまう』といった側面も【なきにしもあらず】でしょう。しかるに ●本人は「目的を決めていない」と思っていても、じつは そこには すでに目的があったりする。●「これまでの人生も その目的に従って構築されてきた」のですが、そこへ本人はまったく気づいていなかったりする。●ゆえに 自覚していないものは変えようがなかったりする。なんてのもあり得ますよね。
もし①自覚していなくても すでに誰にでも目的はある。②その目的は自覚されていない。③だから 人生を変えようがない。という流れがあるとしたら・・たとえば、サラリーマンなら、その特色として『毎月決まった お給料が入る。個人の責任が問われることが少ない。身分が保証されている。あらゆる社会保障が受けられる』など いろいろ考えられますが、ひょっとして・・その目的がこれらの特色とは逆の『生活が不安定・責任を問われる・身分が確定されてない・社会保障が薄い』といった事を “避けたいがため” だったらどうでしょう? これは本人が気づいていない目的(意識されないけど確かにある目的)になりませんか?
このように 人生には『それそのものを示す積極的な目的』と、上記のような『間接的で消極的な目的』とが存在する気がします。恐れを抱いていることを、認めるのは怖いものです。他や社会との関係性のみならず、自分自身をきっちりと見つめ直して、自覚するのを恐れるのも人間ですから。ただ それは弱さではなく、ただの習性であって、誰にでも そういったところはある。もちろん 私にだってある。との自覚だって出来るのも確かでしょう。どうであれ、その目的が・・積極的なものなのか? 消極的なところから来ているものなのか?を、ちゃんと把握しておくことは重要かもしれませんね。弱さを認めることは、より深く自分や他の人、環境などを知る術にもなりえるように思います。
英語では「施設・建造物の集合体・複合体」のことを「コンプレックス」と表現します。同様に 心理学・精神医学においての コンプレックス(complex)も、じつは「感情的な複合状態」を意味する言葉なんですね。つまり、日本で一般的に考えられている『コンプレックス=ある種の劣等感』みたいな意味合いは、本来の解釈とはまったく異なるものなのですが、おそらく こういった日本独特の解釈が “心理学をよりわかりにくくしている” 側面もあるような気がしてなりません。
そもそも日本の心理学の歴史は戦後に始まりました。それまでは 心理学という言葉自体が一般的ではなかったのですね。その際に流入したのが、アルフレッド・アドラー氏の「人格心理学」なんですが、彼の論文の骨子は、まさしく『劣等感の複合心理』であり・・あえて言及は避けますが、思うに これを広めることが、当時のあらゆる諸事情に最も都合よかったからこそ、コンプレックスの意味も誤訳されて流布されたのではないでしょうか。このように、社会というものが構築されてきた経緯には『自然発生的なもの』と、こういった『作為的なもの』があるように感じますが、それは とりもなおさず【社会というものが まず概念で作られる】といった部分があるからかもしれません。
お話を戻しますと、本来 心理学においてのコンプレックスとは「感情複合」であり、これは “何らかの感情によって統合された心的内容の集合体” を指します。これを脳物理的に表現すれば「状況把握・未来予測よりも感情が優先されたために起こった、ある種の神経組織の集合形から派生する 特異な神経パターン」になるかと思われますが、つまり「ある事柄と、それとはまったく無関係な感情とが、無作為に結合された状態」これを心理学では「心的複合体・感情複合」と呼ぶわけですね。
また日本では コンプレックスとフェティシズム(Fetishism)が同義語で解釈されがちです。フェティシズムは、よく世間で【~フェチ】と略されますが・・これは ある種特異なこだわりや収集癖などを指し、人体のある部分への異様な執着の他に、広い意味では、お金や物への崇拝・母親や父親への異様な態度・DVも含めた配偶や恋人への冷遇などもここに入るとされます。すなわち、日本では、マザーコンプレックス・ファザーコンプレックスといった 各種コンプレックスは、執着やこだわりである“フェチの産物“であり、コンプレックスもこれと同じ意味で使用されていて、これらが「感情複合」ではなく「ある種の劣等感からくる 誰かや何かとの比較から生じた 一種の劣等人格」みたいに誤訳された現状が蔓延している! という事です。
よって、そういった劣等感を解消してあげる行為こそが、コンプレックスとかお金や生活に関する フェティシズムを起こさせない唯一の手段だと『誰もが認識』していて、それゆえ「何事も自由にさせてあげる事」や「物やお金に不自由させない事」が、人格を育むには重要だと思い込んだり・・または その反対に「ある程度苦労させて、良い意味でのコンプレックスやお金に対するフェティシズムを感じさせた上で のちに克服へ向かう」ほうが、強い子に育つといったような 誤った感覚を持つ人が増えてる現状が見られます。
じつのところ、このような「物やお金に苦労させないほうが良い。逆に少しは不自由させたほうが良い。」といった観念は、本人の人格形成とは まったく関係ないように感じます。それは “優れた人物が、裕福な環境・普通の家庭・極貧の生活のいずれからも輩出されてる事実” からも容易に窺い知れるでしょう。
では、どこからが 人格形成において差を及ぼすのでしょうか? もちろん、その大半は社会に出てからですね。考えてもみてください・・子供の頃は、親と学校の先生、友達や近所の人くらいしか接点がありませんから、きわめて狭い狭い世界で暮らしているのです。その限られた環境の中で 素晴らしい哲学を有する人物と出会う確立など皆無に等しいように思われます。つまり「哲学ある人物と出会えるかどうか?」それだけで人生は決まってしまうのですね。よってむしろ、自分から そういった哲学ある人物に目算をつけて、積極的に接触する姿勢が求められてきますし、自らの足で、新しい環境へと飛び出していくようにしないかぎりは、なかなか成長も望めないような気がします。出会いを待つより、固定化された観念をさらに育むより、自ら望んで自らを変えてゆくことこそが重要ではないでしょうか。
子供の判断基準は、好きか嫌いか・興味があるかないか・つまらないか楽しいか? です。したがって、それでもやりたくない事や嫌な事を行う動機は、それをしなければ 懲罰があるかどうか? に尽きるでしょう。子供は叱られるので、好きなゲームを途中でやめたり、勉強したりするわけで・・それがなければ、飽きるだけ好きな行為をやり続けるはずですよね。
では大人はどうでしょう。働かないと食べていけないから就職して、毎日 勤めに行く。また、叱られる(批判される)もしくは叱られそう(立場が悪くなりそう)になると言い訳したり 画策したりもしますが、これって あまり子供と変わらないと言えませんか? また 子供はいつも褒められたいと願いますが、大人も尊厳が大好きですよね。だから そういった点でもあまり違いはないように感じます。
ただ 自立という観念からすれば、そのように相手もしくは環境に左右されているようでは ちょっと難しい気もします。保障とかいろんなもので それでも生活できるなら その限りではありませんが・・もし 自分でやらねば仕方ない事態に陥ったなら、自らの手で成し遂げねば どうにもならない。それも人生でしょう。
しかるに、前述の理屈によれば、我慢とは懲罰があるからこそ成立するもの! になる。ならば、いったい誰が大人に懲罰を与えるというのでしょう? もちろん 社会的な懲罰は存在します。しかし、ほとんどのことは自己懲罰のようにも感じられますよね。もしそうだとしたら、自己懲罰とは、他が強制したのではなく、自らが自らに背負わせるものなので・・自ら課したものは自分でしか外せないのも道理に思えてきます。
このように考えると 自らに課しているものや、はめている枠が・・じつはほとんど自分が自分に対して行ってきたことだと理解されますが「自分は変わらないで、相手を変えようと日夜奮闘している」「過去を悪いものと考えるがゆえに 今と未来がすべて悲観的になっている」そして「自らが思う自分を変えてくれるのは 他の誰かや環境と考えている」これでは人生を無駄にしかねませんね。常識や当たり前を漠然と とらえるのではなく、その中には 社会的なものと自己懲罰的なものがあると・・一度は冷静に思い直してみることも必要ではないでしょうか。
物事は“仕掛けられた”時点で「もはや負けは決まっている」とよく言われます。たとえば 数字や統計で完全に分析できないものの代表に株相場があります。金や原油・不動産の価格なんかもそうでしょう。だから、それらが上がるか下がるかを分析し始めた時点で、もはや事実とは離れているととらえることもできるかもしれませんね。
その理由は簡単で、これらの相場価格は、心理戦によって簡単に乱高下するからです。つまり、心理戦である以上は、それを仕掛ける側が存在するということであり、つまり『仕掛ける側と仕掛けられる側は同時に存在する』よって 勝負は仕掛けられたほうが当然不利になるというわけなんです。分析とは 仕掛けられる側が、仕掛ける側の心理を読もうとする行為であり【そこに何らかの傾向と対策があるはず】という考えから生じるもの。しかしながら、現実には そんな対策も傾向性もないのが現実。もし そんなのがあるとしたら、それは “たんなる仕掛ける側の都合” であって、そこに何ら整合性や傾向性などないというのが本当のところでしょう。
相手の気分や都合は相手にしかわかりません。日常生活でも さっきまで機嫌よくしてたのに、急に気が変わるなんてのも よくあることなので、実際はいつ何が起こっても不思議ではないのですね。つまり、物事には 毎日毎瞬変わる 仕掛ける側の心理状態や都合があるだけであって、そういった仕掛ける側のまさに心だけが すべての変動の元になるというわけ。だからそんなところに ある種のパターンが存在すると考えること自体に無理があるのです。
よって、ビジネスに関しても もうすでに市場が出来上がっていて、自らが仕掛けられないような業界へ参入するのは無理がある。なぜなら、そこには すでに仕掛ける側が存在しているから。具体的に申し上げれば、サラリーマンの出世は、創業一族や古株の取締役などの気まぐれで決まったりしますし、既存のマーケットで成功するかどうかも 既得権益を持つ業界団体の移り気のみで決められるケースがあり、仕事が出来るかどうかは二の次になったりもしますよね。
もし自分らしく、人の顔色を窺わずに、何かを成したいのであれば、初めからそういった仕掛けられた市場をチョイスするのはやめたほうがよいかもしれません。どこかに就職しようとしたり、既存の市場でビジネスを立ち上げたり、何かの資格試験を受けようなんて選択した時点で もはや仕掛ける側の気分で左右されるような人生に足を突っ込んでいる可能性もあるのです。ならば『何かを仕掛けられてから それを何とかしようと右往左往して身を粉にしたり』『何かを仕掛けられる前に予測して、それを防止したり、避けようと身構える事』もやめるべきではないでしょうか。
むしろ “すべてにおいて こちら側から仕掛ける” こういった積極的かつ能動的な姿勢に変えていくことこそが、すべての問題を解決する唯一の術にも思えてきます。真の意味での戦略・戦術は攻めですし、ことわざにも“攻撃は最大の防御”という言葉もあります。戦わずして勝つ!という事は、仕掛けられない事。すなわち、それは・・仕掛ける側に つねにいるという意味になるわけで、少し考え方を変えて、今 仕掛けられているのであれば、仕掛けるほうへいかにして回るのか? を模索してみるのも発想の転換としては面白いのではないでしょうか。
ある物事を「言葉によって具体化する」のは たいへんな作業です。たとえば【ここにあるコップを、それを目にしていない方に言葉で完全に説明する】なんて無理というものでしょう。そこで小説などでよく用いられる方法が“読み手側のイメージを鼓舞する”というもの。つまりこれは「言葉を駆使して、相手に情景や心情を想像させてゆく」手法ですね。
ただ、ここで気をつけねばならないのは、この手法が“言葉そのものが何かを具体的に表したものではない”という点です。それはあくまで 私たちの頭の中で起こった出来事であり、言語は それを引き出しただけ。つまり それそのものは 言葉にあるのではなく、相手のイメージの中にある! のが真実なのですよ。
このように 言語そのものというのは、はっきりしているようで 元来たいへん曖昧なもの。そのように考えれば、たとえば 点と言われても“その点の形は?” また、線を書けと言われても“その線の太さや色とは?” 面についても“面の厚さは?“というように、いくつも疑問が浮んでくるでしょう。要するに『言葉って、いざ それらを具体的に表すとなると途端に意味不明になってしまう』ものなんですが・・にもかかわらず、私たちは 何か言葉を投げかけられたら、きわめて簡素化された応答を瞬時にしてしまいがちで、本来 無数にあるばすの答えに対し、何の疑問も持たず【ただ平均化された ありふれたものを単一的に表現してしまう】ことが多いと言えるでしょう。
もちろん 一般生活を送るうえでは、ある程度の簡素化は必須です。もしあらゆることに、いちいち詳細さを求めていたら 支障だらけになってしまいますから。しかし、ありふれたものって なかなかビジネスとしては成立しないのも事実なのですね。すなわち、こういった『言葉による無思考な反射的言動』ばかり繰り返していたら、アイデアだって生み出せなくなる!というわけです。独立起業を目指す方が、まわりの事象にヒントを得ようとしても『それらを瞬時に言語として簡素化してしまう』なら、すべてありふれた受け取り方や発想になってしまう。だからこそ、人は 同じようなビジネスばかり立ち上げて、限られたマーケットを奪い合うことに終始してしまうのかもしれません。
そこで重要になってくるのが イメージの世界。鏡に映らない自身の側面や後ろ姿、上から見た自分など・・ それらを合成して、3Dで把握できるツールはイメージだけ。だから、何事においてもリアルさというものは、そういった感性の世界にしかあり得ないと思われます。言語は あくまで円滑なコミュニケーションをはかるための 便宜上のツールであって、事実を伝えられるものではありませんから、やはり学校の勉強の延長(言語読解力)では、なかなか現実生活には役立てられない気もします。リアルなイメージ力を強化しながら 言語の曖昧さを払拭していく・・そんな必要もあるのではないでしょうか。
信用とは『相手の言葉や態度を確かなものと信じて受け入れる事』です。つまり 一言で申し上げれば『相手のあるがままを そのまま受け入れる事』になるかもしれませんね。しかし、そこに“信頼”という意味が付加されると、とたんに内容も変わってしまいますから不思議です。なぜなら 信頼とは『信じて頼りにする事』なので、もし信用という概念の中に「期待を込めた希望的観測」“信頼”を含めてしまうと「判断を相手に委ねる」ことになってしまうからですね。
ちなみに、人には必ずエゴが存在しますが、日常語としてのエゴとは・・エゴイスティック(egoistic) もしくはエゴイズム(egoism)の略で用いられます。これは「自分勝手、わがまま、利己的」というような意味になりますが、ただ このような解釈では解決策など見いだせないのは確かで、自分勝手や我儘・利己的には傾向性も理由も存在しませんから、それでは たんに訳のわからないものになってしまい・・もちろん 解釈できないものへの対処なんて見つからないのは当たり前のことにもなってしまうからなんです。したがって、それを “訳のわかるもの”にしてこそ、はじめて解決策も見えてくるはずですが、そういった人間の意味不明な点に対するヒントが、心理学の中にはたくさんあるように感じます。
一例を挙げますと、精神分析医 フロイトの理論における「エゴ」とは 自我と訳され、人間の本能が「イド」社会的な道徳が「スーパーエゴ」となっています。そして、そういった本能と社会の間で揺れ動くのがまさしく「エゴ」とされているのですね。つまり エゴ(自我)とは、イド(本能)とスーパーエゴ(社会)の狭間にあり、そこでの葛藤から生み出された形態がエゴの正体ということになるわけです。
ようするに、エゴ(自我)とは 単独で存在するものでなく、人間の本能と社会倫理とのせめぎあいによってしか成り立たないものであり、その片方でも欠ければ、それは自我をなくす事と同じになるのですが、だからこそ「職をなくす=社会的スーパーエゴが欠ける」ような事態が生じると、エゴそのものが崩壊してしまい、本能の行き場さえ見失ってしまう事態に陥りがちなのです。これは離婚や貧困など あらゆる人生の障害に対しても同様であり、それはとりもなおさず、人間が上記のような本能+社会で 自身のエゴを成り立たせていることに起因する出来事と言えるでしょう。
だからこそ、もし信用の形を・・社会や環境といった“他への信頼”におくのではなく“自己への信用”に置くことが出来たなら・・個人のエゴは『社会から独立した単独で存在することとなり、本能と直結してくる』はずなのです。スーパーエゴという社会の望みは、自己のイドとエゴによって、自らの手で叶える。志とは、まさしくそういったものなのかもしれませんね。
科学や技術が行き着く先は、最終的には「人間とは何か?」でしょう。しかし、哲学の最大の目的は「何が人間か?」に思われます。
iPSや人工知能、ヒューマノイド(人造人間)の研究は・・人間とは何か? との問いに 新たな定義をもたらそうとしていますが、それは「人は細胞やイオン・電気作用の集合体だ」という見解かもしれませんよ。なぜなら、もはや時代は 初期化された細胞は何にでも変化し、イオンや電気の流れはPCに思考を生じさせ、自分そっくりのもう一人の人間(クローン)に、自身の身代わりとなる PCやロボットまで作り出せるようになってきたからです。しかるに このような世情になれば、次の疑問は「何が人間なのか?」になってくるのも当然ではないでしょうか。人と同じ行動が出来る人造人間や、人間と同等の思考をするPCが現れれば、それらと人間との違いも曖昧になってしまうのですから。
このような時代背景と世界事情から窺い知れるのは・・やがて「人間とは何か?」は 科学技術の発展によって明らかにされるであろう! という事。しかし その反面「何が人間なのか?」についての哲学は消滅しかけている! ということかもしれませんね。もし誰かに「人間とは何か?」と問えば・・動いたり考えたり 心があるもの。そして 最低の人権を有し 支え合って生きるもの。といった答えが返ってくることでしょう。しかしながら「何が人間なのか?」について問うたなら、明確に述べられる人はあまりいらっしゃらないようにも感じられるのです。
このような同じ言葉にも思える まったく逆の「人間とは何か? 何が人間か?」という問いかけには すべてが含まれるような気がします。これを簡素に表現すれば、ほとんどの方は「人間としての機能は備えてはいるが その取扱説明書は持っていない」と言い変えられるのでは? 要するに「人間とは何か?」を紐解くのが科学技術であり「何が人間か?」を知るための学問が哲学というこですね。「人間とは何か?」の定義は、やがて科学技術の進歩によって勝手に変わってしまっても「何が人間か?」については、このままでは変わる可能性さえなくなりつつある。なぜなら、哲学ある人物が 次第にこの世から消え去り、それらを受け取る機会も 学び取るモデルも 年々少なくなってきている現状がつぶさに見て取れるからです。
具体的に申し上げれば、ITの進化で すべての物が自宅で作成でき、ライン作業やルーチンワークが存続不能となり、移動せずとも あたかもそこにいるようなバーチャル世界が一般的となれば、人の仕事はデザインと創造のみ! となるに決まってますが・・その時には 人間の趣旨が自ずと「何が人間か?」に絞られてくることが容易に予測されるということです。労働は機械がするもの。サービスも機械が施すもの。そうなれば「何が人間か?」への理解こそが最大の価値になってくるのも当然の事でしょう。
今うちに・・そして 哲学ある方が存命のうちに、より多くの方に哲学を持っていただく。それが教育ビジネスの真の意味と目的かもしれません。「人間とは何か?」と「何が人間か?」は全く異なるものです。哲学ある人って「何が人間か?」を、自らの手で果てしなく永久に探求し続けてきた人を称するのかもしれませんが、時代の変わり目には 新しい哲学が必須! 新しい時代に 古い哲学は役に立たないと思われます。
以下は、2009年3月 カナダのトロント大学によって発表された 世界の都市別域内総生産の値です。
1. 東京-川崎-横浜(日本) 2. ニューヨーク-フィラデルフィア-ニューアーク(米)3. 京都-大阪-神戸(日本) 4. ロサンゼルス(米) 5. 名古屋(日本) 6. シカゴ-ミルウォーキー(米) 7. ロンドン(英) 8. アントウェルペン-ヘント-ブリュッセル-リール-リエージュ (ベルギー・仏) 9. ボン-ドルトムント-デュイスブルク-ケルン(独) 10. ワシントンD.C.-ボルチモア(米)11. パリ 12. ボストン 13. ソウル-仁川 14. サンノゼ 15. リーズ-シェフィールド-バーミンガム 16. ダラス 17. 広州-香港-マカオ 18. アムステルダム-ロッテルダム-デン・ハーグ 19. ミラノ 20. ヒューストン
この結果を見れば、いかに ニューヨークやLAへ憧れる風潮があろうとも、日本の関東圏は、事実上世界ぶっちぎりのナンバーワンであり、関西・中部も 指折りの大都市であることがわかりますよね。それと同時に、日本人は日本のことを勘違いしていて、いかにイメージだけで自分たちより生産性が劣る欧米に目を向けてすぎているかがご理解いただけるでしょう。とくに 東京はニューヨークなど比べ物にならないくらいの実力を持った 世界一エキサイティングな街であり、もし ここでビジネスを起こせないのであれば、いくら英語などを習得して海外で身を立てようとしても難しい! そんな気さえしてきます。
では 東京および日本のどこがすごいのか? それはこれだけ未就労人口が多いにもかかわらず、全員が食べているだけの分配制度が奇跡的に機能しているという一点に尽きるのではないでしょうか。それゆえ犯罪が少なくて治安もよいのですが・・もし上記の分配ができなくなれば、すべては崩れ去り、他の国と何も変わらなくなってしまうことも予測できます。まさに 戦後からの日本はジャパンドリーム! 今でも世界中の経済講義で最初に習うことも多い、経済立国の典型モデルと言えるかもしれません。
人間の進化・発展の歴史において、リセット機能ほど重要な位置を占めるものはないように思います。そしてまた、このリセットは 日常生活のみならず、仕事などのあらゆる人間活動において その能力を飛躍的にアップさせる秘訣ともなりえるのではないでしょうか。
書籍やWebサイトには 過去の優秀な人物の言葉がたくさん紹介されていますが、その中からいくつか取り上げても「キャリアとは ある時期で定期的にリセットされるべきものだ」とか「物事は毎日、今日が最後の日と思って決定しなければならない」などの記述があり、これらはすべて リセットを目算して語られた教訓だと容易に読み取れるはずです。
では、なぜ人間にとって そんなにリセットが重要なのでしょう? 残念ながら、現在のところ その科学的根拠を証明できるものはありません。しかし iPS研究の成果は、やがて これらを物理的に立証してしまう気がするのですね。人はよく「最近、物忘れがひどくなった」とか「若くなりたい・活力がほしい」とおっしゃいますが、では そのような記憶力・習得力・修復力・活力などは いつが最盛期なんでしょう? もちろん子供の時、もしくは若い頃でしょう。ならば、すべてにおいて リセットがキーワードとなるのは明白。リセットとは 初期化であり 逆再生機能そのものなのですから。
また 成人以降の病は ほぼ免疫低下によるものとされていますが、その免疫機能を取り戻すカギも、最近の「人間のiPS細胞(人工多能性幹細胞)から 血液のもとになる『造血幹細胞』を作り出す マウス実験の成功」によって明示された気がしますよ。
ただ ここで問題となってくるのは「変化せずにリセットって可能か?」といった点でしょう。たいていの場合、人は現状維持を求めます。しかし変化しないのは まさしく既存の継続・存続であり、ずっと同じ行為を続けているということでもあるわけです。つまり、維持とはリセットしない事であり、免疫力を低下させ、活力を失わるものとも受け取れる次第です。
ならば、この ある意味矛盾した現実を私たちはどう受け取れば良いのでしょう。それでもなお 変化を求めずにいられるのでしょうか。iPSの成果から導き出される答えはすべて、活力の元はリセット・変化にあるということを示めそうとしています。
問題解決能力は『問題に対する正しい認識と その際の“非常識的な”考え方』から生じます。これは言い換えれば「問題なんてあって当たり前。ただそれを解決すればいいだけ。」「問題の解決策は セオリーやパターン・マニュアルには見いだせない。」といった2つの考え方から導きだせるものかもしれませんね。
まずは『問題とはあって当たり前のもの』についてですが、これは 誰もが平穏無事とか現状維持を求めがちだが、人生に問題がなかったら きっと面白くも何ともない。ゆえにむしろ【問題とは 人から与えられたり被るものではなく 自ら“あえて”作り出して楽しむもの】といった認識なんですよ。つまり、それは 現状に満足しない姿勢から生み出される「未来に関する自己啓発的な問題提起」にあたり「今はこうだけど将来はこうなるだろう」だったら「ここが足りないしこの部分が問題であろう」よって「それを解決する術は何か?」といった事を普段から積極的・能動的に自身へ示唆しておく姿勢を指すのですが・・いかがでしょう?これなら、問題なんて いくらでもありますし、あっても当然になってくるのでは? もちろん 優れた経営者なら、全員このように問題を捉えており、それを実行に移すのが当たり前ですが、まさしく こういった一連の積極的な問題作成こそが経営の基本とさえ呼べる気がします。
次に『問題に直面した際に いかに“非常識な”考え方をするか?』ですが・・ご承知の通り、これは デファクト・スタンダードにも通ずる アイデア創出法の基本にもなるでしょう。“対 人間”といった考えで物事をみた場合、それが過去や現在の問題であれば、ここを解決するには 相手の同意を得る必要がある。もしくは相手の理解できる範囲での解決法の提示が求めらてきますよね。ようするに、これは “誰もがわかるセオリー” として、既存の枠の範囲を強要されるのとイコールであって、簡素に言えば、まさしく社会や相手に媚びねばならないことを表してるわけです。
こういった事象をほとんどの方は「仕方ない」と思いがちですが、冷静に このような一連の流れを今一度見直してみれば「だからこそ、いっこうに問題解決がなされないのだ」とわかってくるはずです。私たちが解決すべきは過去ではなく未来。とりもなおさず 方策とは未来に対してこうじるものであって、過去に関してあれこれ試行錯誤するものではないバスです。常識とは・・過去と現在であり、ここに准じた応答や手段をこうじているかぎりにおいては、問題解決も成されるはずがないと把握してもかまわないとさえ思われます。
ソフトバンクの孫正義氏やジョブズ氏が、相手を口説き落とすとき、過去や現在を問題としたでしょうか? 孫氏が城南電機の社長に言ったのは「今はお金がない。けれど 誰にも負けない情熱がある。将来 この場所を盛況にしてみせましょう。」であり、ジョブズ氏が マーケットのプロであるスカリー氏を口説き落とした際も「死ぬまでコーラという砂糖水を売るつもりかい? それより 世界を変える仕事をしてみないか。」というものだったのは有名な話。このようにあらゆる問題解決とは、過去や現在に訴えかけるのではなく、未来の楽しさ・面白さを提示することにこそあるわけです。
当たり前の話ですが、将来とは未知であり、現在・過去はもうすでに起こってしまった事。つまり、現在・過去とは イレギュラーも変更もない“決まりきったもの“ にすぎません。ゆえに過去と現在に言及することは“変更もサプライズもない既成事実に対してアプローチすること”となる。ならば、そんな交渉自体が無意味とは言えないでしょうか? 営業やプレゼンテーションなどの“いわゆる交渉事”は、相手の意志や決定事項を変更させるために行うもの。だから、結果として 相手に変化を生み出せない交渉では意味がなくなってしまうのですね。問題は自ら創出するから あって当たり前。そして その解決策も非常識から生み出される。この考え方は あらゆる局面において応用可能な思考体系に感じらます。
では、デコレーションとデザインの違いはどこにあるのでしょう? それは一体成型か? パーツの組み合わせか? の違いかもしれません。もはやデザインとは「寄せ集めではなく、何も切り離されていない一つの造形」なんですね。かつて、スティーブ・ジョブズ氏は 「アップル製品は部品まで美しくあるべきだ」 と提唱しました。そして出来上がったのが、当時としては画期的な 半透明ボディーの中身の部品まで透けて見えるコンピューターだったのです。これはまさしく、一体型デザインの考えに基づく先駆けであり、時代のほうが、やっと彼に追いついてきたと言えるかもしれません。このように考えれば、現在 パーツごとに別々に生産された部品を、組み立て工場でつなぎあわせる “デコレーション工程“ は・・・今後は、自動車ならエンジンからタイヤまで一体成型。家電なら、スイッチからモーターまでの一体成型といった “一括デザイン生産の時代” へ突入していくことが容易に予見されるでしょう。
ただ、このような流れは、何も製造関係の仕事に限ったことではありません。これは、ビジネストレンド全体や生活様式全般にもあてはまる “誰も逃れられない時代の大きな潮流“に思われます。つまり、形なきものを全員が分業しながらデコレーションする作業はすでに古くなり、一人の個人が描く目的とデザインがすべてへ波及する・・・こういった見解からも、今後はデザイン力を身につける重要性が益々クローズアップされてくるのではないでしょうか。
しかるに シチュエーションによって相手から自分がどのように見えるか? を、客観的に観察する能力は、ビジネスのみならず、あらゆるシーンで重要に思われます。人はファーストインパクトで何割かが決まってしまうとよく言われますが、日本の場合は 初対面の時に座ったままで対峙するケースがほとんどありません。日本では、なにゆえ相手がいらっしゃったら立ってお迎えするのでしょう? それは日本人が昔から全体感を大切にする文化観を持ち得ていたからですね。ここからも、日本人は昔からトータルデザインを大事にする国だったと捉えることも出来るわけです。
したがって、デザインする際にも その点では本来、海外とは一線を画すに違いないのです。環境的に見ても、欧米の宮殿は ただ豪華に飾るデコレーションに感じますが、日本の神社仏閣は シンプルかつ細かい。また絵画を飾る際なども、間違いなく環境一体型でなされています。ただ、こういった四季の変化と全体感に彩られた環境や文化にいながら、それを受け取る側が生かし切れていないところが、本当に残念でならない気がするのです。トータルデザインが主流になれば、日本の特性がより生かされる。これはチャンスなのかもしれません。
欲求もしくはやりたい事(願望)と、楽しくて面白い事(興味)は まったく別ものかもしれません。【願望】とは、願って望む事。心の緊張を解消しようとする働き。無意識の逃避およびその動機。【興味】とは、その物事が感じさせる趣。ある対象に対する特別の関心。その対象を価値あるものとして、主観的に選択しようとする心的傾向およびその学習に対する動機。です。
では、心の緊張とは何かと申しますと ●慣れない物事に直面して、心や身体が引き締まり固くなる事。●相互の関係が悪くなり、争いの起こりそうな状態。●ある行動への準備や、これから起こる現象・状況などを待ち受ける心の状態。●恐れ・不安など。
つまり願望とは、未知の事態を恐れて不安になり、それを回避しようと願いながら、いつも固くなって待ち受けてる状態から派生する 無意識の逃避行動の産物であり、その初動動機を指す側面もあるわけです。
それでは、面白いとは何でしょう? ●興味をそそられて心が引かれるさま。●こっけいなさま。●心が晴れ晴れするさま。●快く楽しいさま。●風流で趣が深い。●つい笑いたくなるさま。●一風変わっていて普通と違ってめずらしい事。●思ったとおりで好ましい事。また、楽しいとは ●満ち足りた愉快な気持ち。●富んでいて、豊かなさま。となっています。
要するに、面白く楽しいとは つい心がひかれて、微笑んでしまうような 普通とは違う変わった事で、なおかつ風流で趣もあって深く、満ち足りた愉快な気分の中にも、豊かさに富んだ感性をたたえたもの。ということになるでしょう。
このように 明確化すれば、両者の違いもはっきりしてきますが・・もしも無自覚に、やりたい事や欲求が、未来に対する不安や恐怖や、それを避けたいと待ち構える “受け身の緊張状態“ から発生していたなら、ちょっと嫌ですよね。ならば、楽しく面白いことで、環境も心理状態も良好にしておいたほうが有意義でしょう。そう考えますと、いくつになっても興味って大切なものなんですね。
【突然変異】という言葉があります。『生物は この突然変異によって進化してきた』と誰もが言いますよね。でも、もし そうだとしたら、人が現状維持や安定ばかり望むのはなぜか? 理解に苦しむことになりませんか。だって、前述の理屈によれば、この「変化を阻む行為」って、イコール「進化を抑制する行為」にもつながってしまうのですから。では、そもそも突然変異って どのようにして起きるのでしょう? それは遺伝子の変異によって起こる! と、とらえられてきました。
しかるに、ヒトゲノムが解析される前には『人間の遺伝子の数は 他の生物よりずっと多いだろう』と考えられていた訳で、しかし いざ解析が終わってみると、みんなその数が「なんとハエのわずか数倍しかない」という事実に驚愕したわけです。よって いま現在、科学者たちは『人間が人間たる由縁は遺伝子には存在しない』と確信していて「もっと何か他のものにヒントがあるはずだ」と、こぞって その研究の方向性を転換してしまっている。
よって【遺伝子に人を変える影響はなく、何か別の他のものにこそ そのカギがある】と科学が証明してしまった以上、世間が考える突然変異に対する認識も、じつは事実と異なってるのかもしれません。実際には、古代の人の遺伝子も現在の人間も、さほどDNAの構造が変わっていないなら、変化したのは 環境と、社会のルールだけかもしれないのです。
狩りや領地の奪い合いへのみ終始していた昔と、多様性ある現代との違いは、ルールによる行動規制と「生命の危機にさらされないだけの ある程度のものは手に入れやすくなった」そんな環境のせいと言える気がします。
だとしたら、やっぱり それらを進んで変えることのも大切になってきますが、世間の環境とかルールって、なかなか そう簡単に一新されるものではありませんよね。でも、自身の環境やルールを変化させるなら容易に出来そうな気もします。ならば 人生を楽しむコツは、与えられた概念や環境によって、恣意的かつ受動的に“変えられる”のでなく、いかに好きなように“自らを変えて”進化を楽しむのか? にかかってくるのではないでしょうか。
そう考えますと、ひょっとしたら、人間って 運や環境になど期待しなくても『自らを自らの手で突然変異させて、進化させる手段を初めから所持している』のかもしれません。
経営学の大家 P.F.ドラッカーの有名な言葉に「コンピューターは 世の趨勢は教えてくれるが、予兆は教えてくれない」というのがあります。●趨勢とは・・ある方向へと動く全体の流れ・勢い『データや統計から推測できる方向性』●予兆とは・・前触れ・前兆・きざし『天体・天候・動物・生物などの自然現象に現れる変化』
この趨勢と予兆の違いは ジョブズ氏が語った未来の捉え方『線形の未来・点と点の未来』という表現でも よく理解されるように思います。一般の方は 未来を線と考えがち・・だから 何かが変わる時も【ゆっくり変わる。徐々に変わる。そして その時はあらかじめ誰もがわかる形であらわれる】と“なんとなく”想像してしまいますが、これは “人間もまるでコンピューターのように” 既存のデータからしか未来を読み取れない傾向があり、ジョブズ氏の述べた通り、点の未来である【もうすでに変わりつつある予兆やきざし】 については なかなか感じられないことを示しています。
これらを脳物理へ置き換えますと・・現在のコンピューターには、まだ『人間でいうところの大脳新皮質の機能しかない』ゆえに、PCには 感情(怒ったり泣いたり)・生命(電気なしでも動く)・行動する(自由に動き回る)などの大脳旧皮質・脳幹・小脳の働きがありません。だからPCは【誰かが任意で設定したもの】によってのみ起動し、ここには、論理(数理)とプログラム(倫理) もしくはパターン的な繰り返し(美学)しかないのも当然で『与えられた形而上のものでしか動かないのだ』とも表すことが出来るでしょう。
しかし 私たちはPCではありません。プログラミングからはずれる自由もあります。つまり 新しい認識・新しい実践・新しい感性といった “新しさ(変化)“ を選ぶこともできるのですね。変化とは、つねにPCにはない、自発的な感情・生命・行動から生まれるものでしょう。進化とは、まさしく変わりゆくことであって、それは 変わりゆくものが自然という認識によって、自由に生きる実践行動が呼び起こされた結果として 豊かな感情・感性が発動される。こういった一連の連鎖や流れによって生み出されるものかもしれません。
自由行動とは自由連想の産物。もし そこにルールがあり、論理があり、もしくは“人としてのあるべき姿のモデル”があると考えるならば、それらが発揮されることはありません。『自由とは 自分が自由だと思っている』からこそであり、こういった自らに対する認識があってこそ、自由な行動や発想・感情もまた生じてくるのではないでしょうか。
元々 経営者の役割ってエンターティナーでしょう・・・つまり、それは消費者をいか楽しませるか!という勝負なんですね。そのエンターティメントを演じるために テクノロジーやデザインだって駆使されるのです。こういったことはどんな業界のいかなる職種においても同様かもしれませんね。
たとえば、ミュージシャンもLiveでは、ライティングや音響・映像などのTechnology を活用し、舞台セットや装置・衣装・曲の構成などをDesignしながら、自らはEntertainmentを演じていきますし、営業マンもミーティングやプレゼンするシュチエーションを加味して場所や装い・話し方・物腰などをあらかじめDesignし、ipadやPCというTechnology を活用しながら、Entertainmentする職業ですよね。だから、エンターティナーである経営者が要するのは、技術者とデザイナーであり、その他の職業はあまり求めていないのも当然で、今後はますます こういった傾向が強くなるような気がします。また、一見 これらとは関係ないように思われる 医療の世界でも、ここを活用すれば “流行る院” を作ることに役立つのではないでしょうか。巧みな 診断技術やシステムといったTechnology と、患者さんを癒し楽しませるDesign、そして 施術する側がつねにEntertainmentを演じていけば、効果も確実にアップするはずです。
このように、今の経営においては TED(Technology ・Entertainment・ Design)を考慮しながら進めていくのが肝要に思われますが、相変わらず世情には、古いテクノロジーやマニュアル・使い古されたデザインがあふれていて、エンターティメントとは かけ離れた世界観があるのも確かなですね。けれど、だんだん企業や団体なんて関係ない時代へなりつつあります。昔は企業しか持ちえなかった情報や技術が、今はPC一台あれば 個人でも遜色なく取得できる時代になりましたし、デザインだって パソコン上でいくらだってできるでしょう。だから 個人にかけているのは人生をエンターティメント化する意思だけかもしれませんね。
そもそも Entertainmentの意味とは『気晴らし』 です。そして 【気晴らしとは、他の物事に心を向けて気分を晴らすこと】 ここで重要なのは、この「他の事へ心を向けさせる」という点です。たとえば、政治家が街頭演説している場合、大衆はおそらく、彼のことを気にも留めずに通り過ぎるだけですが、それは 大衆が「自分の事しか気に留めていない」からでしょう。また、もし営業マンが何かの製品を売ろうとした場合、お客さんは「断ることしか頭にない」に決まっています。つまり、彼らのような 何かを伝えたい人や営業マンが “いまお客さんが考えていることから他の事へ関心を向けさせる”ことができなければ何も生み出すなんてできっこない! というわけなんです。
現在、世界最高の企業といえば、Technologyのマイクロソフト ・Entertainmentのグークル・ Designのアップル。彼らは息をのむ 未来世界の技術やデザイン、エンタメを提供し続けています。そこには、アッという驚きがあり 「次はどんなものを出してくるのだろう」といった期待も醸し出していますよね。日本企業に足りないのは、まさしく この期待感なのですが・・・個人もそうあるべきとは思われませんか? つまり、毎回予想できるような リアクションと受け答えをして、人を飽きさせるようではいけないのです。なぜなら、それは自然ではないからですね。魅力ある人物とは 当然自然な人でしょう。まさしく それは自然のように変化し続ける人のことを指すと思うのです。
なのに人は、どうして わざわざ自らを現状維持に押し込めて、不自然にしながら魅力を失わせてゆくのでしょうか? 以前のソニーやパナソニック、トヨタなどはたいへん自然な経営をする企業でした。もちろん日本人もそうでしたよね。よく考えていただきたいのは、人のバイタリティーとかエネルギーっていったい何か? についてです。それは 従来通りでは満足できないという姿勢! つまり あくなき変化への欲望や渇望に尽きる気がします。それは 非日常であり、つねに変化してやまない 人間の本性を刺激して満たす行為でもあるのではないでしょうか。したがって重要なことは、人に対して いかに気晴らしを提供して変化を促すか? になってきます。じつは、そのためだけに 経済活動って行われているのでは? とさえ感じる次第ですが、これを成功へと導くカギが まさしくTEDなんですね。自他ともに変化を促すには、Technology という 脳物理や人体機能、心理学も含めた 人間の取扱説明書全般を熟知し、Entertainmentという いかに相手の注意を惹きつけて気晴らしに導くかといった表現力を身につけ、Designという各人の目的設定をはっきりと指し示すことができるような世界観を持つことが重要となってくるような気がします。