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常識を変えよう! Change commonsense

常識が変われば 世界はもっと広がる

考えるとは・・・

2014年02月17日 | 日記

辞書によると“考える“とは ①知識や経験などに基づいて 筋道を立てて頭を働かせる。(判断・予測・予想・想像・意図・決意・結論を導く)②関係する事柄や事情について あれこれと思いをめぐらす。③工夫する。もしくは工夫してつくり出す。④問いただして事実を明らかにする。取り調べて罰する。⑤占う。占いの結果を判断・解釈する。とされています。

①の「筋道を立てて頭を働かせる」については苦手な方が多いかもしれませんね(かくいう私もそうですが)筋道を立てるには、必ず未来が必要で・・もし そこに未来が欠けていたら、過去から現在までの経過しか読み取れなくなってしまうのは自然な事ですから。

もちろん これって②に関しても同様で・・未来に対する想像力や予測力がなければ 思いめぐらすこともできないでしょう。また③の工夫など、その最たるものですし。そうなると、世間で多く見受けられる“考え”の種類とは・・たいてい残るふたつになるのでは? つまり ④の問いただす事や罰するためのもの ⑤の占いみたいな判断と解釈 となってしまうのかもしれません。

まとめますと 上記の①②③は発展的思考と言えるし ④は懲罰的思考 ⑤については??? かも。やはり 判断・予測・予想・想像・意図・決意などを駆使して 結論を導き出し、あれこれ思い巡らす! には どうしても未来が不可欠。もし それらを過去の出来事のみで行うとしたら・・それはもう 未来には役立たない 非現実的なものばかりになりますから、自らが自らに対して “問いただす” 後悔ばかりして “自らを罰する” ことにもなりかねません。まさに こんなの運次第! 当たるも八卦! の占いみたいな感じになってしまうかもしれませんね。


人間の成長に限界はあっても科学の進歩に際限はない

2014年02月15日 | 日記

マサチューセッツ工科大学のデニス・メドウズ氏らが唱えた『成長の限界』という研究論文があります。これはローマクラブという「有名な組織」が1972年に メドウズ氏を筆頭とする国際チームへ委託して “地球資源の有限性に着目した研究結果“ をまとめさせたものですが・・ここで提唱されたものは 現在でもまだ、たいへんな影響力を持っているのですね。

内容を要約しますと「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する。人間は幾何学的に増加するが 食料は算術的にしか増加しないからだ。人は親が子供が生み、その子供がまた子供を生むので人口は掛け算で増えていくのに対し、食料はある土地では年に1回、それも同じ量しか生産出来ない。よって、このままの傾向が続けば 崩壊は避けられないだろう。」といったものになります。

しかし今なら誰でも、これが誤りだったことに気がつきますよね。そう 世の中は止まっていないので いつまでも70年代のままではないのです。つまり当時の常識は現在の非常識! すべては変わりゆく! という事ですが、しかるに こういった変化の原動力といえば、それは科学技術の進歩に尽きるのではないでしょうか。

メドウズ氏の予測のように、人間社会は成長しなくても それとは無関係に科学は進歩します。医師はそのまま! でも、医学技術は飛躍的に進歩していくように・・環境問題にしても、有毒物質を除去したり 海を綺麗にする装置は次々開発されてきましたし、iPS細胞に至っては 今後10年ほどですべてを変えてしまいそうな勢いでしょう。人間の成長に限界はあっても 科学技術の進歩に際限がない。ならば やはり、科学へ先導される形で 今後も人々の暮らしは進化を続けてゆくのかもしれませんね。


常識とはマーケットによってあえて作り出されたもの

2014年02月05日 | 日記

ある程度の年齢の方なら、みなさんご記憶があると思いますが・・以前は理系を専攻する学生が優秀とされ 誰もがそこを目指していた時代でした。かくいう私自身もその一人なのですが、最近は子供の理科離れが激しく、全国の高等学校調査では 物理を専攻する子供が高度経済成長時の10分の1にまで落ち込んだ! なんてこともよく聞かれるようになりました。いったいその理由っていったい何なのでしょう? じつはとても単純で、たんに企業や政府が理科系の保護政策とイメージ戦略をやめてしまったからなんですね。

かつて日本は、技術立国をめざして技術者の生涯賃金を“あえて”一般職より10%高く設定していました。すなわち政府と産業界が協力して この政策を推し進め、その結果として 親は「子供は理科系に進ませたい。職業も安定しているし給料も高いから。」ということになってたわけです。つまり 政府が作った流行やブームに誰もが乗り、それに応じて大学側も 理科系は「受験が難しい・真面目に大学へ行かないと卒業できない・授業料も高い」というセオリーを公然と作り出してきた様が見て取れます。

しかしこれって自然発生的に生まれてきたものでしょうか? もちろんあえて作り出したものですよね。たとえば 現在のサラリーマン社会って どうでしょう? サラリーマンのほうが自営業より 保障や社会制度などあらゆる点で優遇されてるのはまぎれもない事実ですが、これってサラリーマンの数を増やしたかったからに違いありませんよね。また もしそういった優遇がなければ、現在のように「学校を出たらすぐ就職」なんて風潮も生まれなかったようにも感じますよ。

じつはこういうのをマーケット! と呼ぶのですが、まとめますと・・自身が払った額の5倍もの年金がもらえる世代をあえて作り出し 世間へ見せつければ、みんなせっせと年金を納めてくれるはず。理科系の給料を高くすれば、すべての親は子供に対して「理科系を目指しなさい」と言い聞かせてくれる。サラリーマンを優遇すれば、当然 勤め人が増える・・という具合になります。

このように 今あるシステムを常識ととらえるか? そんなのたんなるマーケットと認識するか? は とても重要かもしれません。年金・医療にしろ、職や生活にしろ・・それは不変のものではなく、マーケットによって作られたものですから、当たり前のように流行り廃りがあるのです。そしてまた、それが変えられない常識ではなく たんなるマーケットであればこそ、いつでも誰にだって 新しいものが作れる可能性だって出てくるわけですね。ようするに 普遍の常識なら変えられませんが、マーケットならいつでも作り替えられるし 新たに作り出させる! そういった認識こそが「何かを作り出す方」には必要! という事なのです。


幸せの尺度と基準

2014年01月19日 | 日記

幸せとは何でしょう? 辞書を引きますと①運がよい事・その様 ② めぐり合わせ ③運がよくなる事 ④うまい具合になる事 と出ています。つまり これは ①まわりと比べて運が良い ②誰かと比較してめぐりあわせが良い ③過去より良くなった ④以前よりうまくいった という事であり、幸せとは『何かとの対比で感じる 相対的なもの』という事を示しますが・・人は 誰かや何かと比べなければ幸せを感じる事が出来ないもの。よって人生が幸せかどうかは、その人が “何と比べているか?” によって変わってくると言ってもよい気がするのですね。

では、これを「他の人」と「自ら」を対象にしたものの二つに分けて検証してみましよう。まず「他の人を対象にした場合」女性なら あの人より 若く見えるか・美しいか・子供は優秀か? といったケースも多いでしょうし、男性ならば あいつより 出世したか・金持ちか・女性にもてるか? みたいになるかもしれません。また、これは「自らを対象にしたもの」についても同様で、対象が他と “自分の置かれていた過去“ に変わっただけで “何らかの比較対象との対比” といった 視点で見れば ほぼ同じ! ととらえるのが妥当かもしれません。

よって変化なき毎日は それがどれだけ恵まれた日々であろうとも、他と昔の自分にならざるを得ず、あの人より「少しでも得をえられたか」とか、以前の自分より 給料が上がるのは良いが下がるのは耐えられない! 楽が出来るのは良いが 苦労するのは嫌! といった具合になるのも当然といえばそれまでの話にも思えます。

しかし冷静に考えれば「自らの現在の状態」というのは、たんに「現状はこういう状態だ」というだけであって、それそのものが大きな価値を持っているわけではありません。むしろ人が知るべきは・・幸せというのは主観的なもののように思えて、じつはたいへん相対的かつ客観的なものであるということではないでしょうか。「私は人との比較はしていない」という方でも、じつはそれって「他との比較ではなく、いずれかの時点での自分との比較をしているに過ぎない」そんなケースも多々あるわけですね。

ようするに『人は何かと比較せずに幸せを感じられるようには出来ていない』したがって【他との比較で生きているから下世話】【自らと比較しているから尊い】というものではなく「他を良くしたい・自らをより良くしたい」といった目的設定を成し、今や未来が一時的に悪くなったり、恨まれたり 批判されてもかまわないよ! といった姿勢になれることこそが重要になってくるかもしれませんね。

つまり、幸せを感じるための比較対象を未来の目的へと置きかえながら、経過や過程はたんなる変化ととらえて、そういった苦労さえも楽しめるようになってはじめて、真の幸せはつかめるのではないか? といった見解ですが、やはり この点からみても『今を生きる事』より『明確な目的を持つ』ほうが大切だとわかってきます。

これは その逆のケースで考えてみれば より理解されるのではないでしょうか。幸せを “その時の状態だけ“ で はかっていたら、その幸せは時々で変わってしまうから つねに感情と思考の起伏に振り回されることになる。また それでは・・給料が下がるとか、苦労するといった “ある意味 以前より悪化したように感じられるもの” については 不幸としか認識できないゆえに、あらゆる事象において右肩上がりのみを求めるしかなくなってもしまうのも当然なんです。

すなわち、こういった流れそのものが結果として、いわゆる変化を容認しない “現状維持の行動パターン” を作り出している! とも考察できますが、どう考えようとも・・時代も世情も変わってしまうのが常。よって現状維持では何事も乗り切れないこともまた事実でしょう。こう考えてみると、よく世の賢人たちが語る 何かを成し得る動機とか志って、幸せに対する概念を変化させるところから生じるものなのかも? そんなふうにも想像できるかもしれません。


自立支援と創造力

2014年01月14日 | 日記

人が人とふれあう目的とは何でしょう?  究極の目的は自立支援のように思われます。親が子とふれあうのも、上司と部下が仕事をするのも・・最終的には、すべてはここを目指して行われているような気がします。では よく言われるように、学生さんが就職をして 自分で部屋を借りて、生活費もまかなえるようになるのが自立なのでしょうか。ちょっと意味が異なるようにも感じられますね。

ちなみに辞書で自立を引いてみますと『他への従属から離れて独り立ちする事』『他からの支配や助力を受けずに存在する事』と出てきます。では、ここでの “他への従属“ とは何でしょう? それは人だけではないのかもしれませんよ。広い意味では 市場や社会制度など、その他のあらゆる【自分ではないものすべて】に左右されて暮らす事そのものが “他への従属“ に含まれるとも解釈できます。また上記の “他からの支配や助力“ も同様で・・そこには ある種の便宜を計らってもらう! なんてケースも含まれる。つまり このような受け取り方をしてゆくと、何らかの社会的な恩恵にあずかっているのなら 自立という言葉は当てはまらない! そんな気さえしてくるのです。

世間では、自立が生存競争に打ち勝つ事とも勘違いされがちですが、厳密に言えば 生存競争に勝つことと自立とは無関係かもしれません。生存競争とは【社会生活の中でみられる 食べていかんがための競争】ですから、それは限られた枠の中でシェア争いをすることに他ならないでしょう。しかし既存の社会では、会社のポストにしろ 国の予算や社会保障にしろ・・数に限りがあるのも事実。だから 生き残るためには、どこかでそれを手にする資格なり 競争に勝ち残るなりしなければならないわけです。

上記のようなことをふまえてゆくと、経済に対する答えもおぼろげながら見えてきますよね。ようするに自立とは、何らかの限られたものを奪い合うための資格や能力を有することではなく、むしろそのような枠から飛び出して 自ら新しいものを次々作り出してゆく力を持つことだと理解できる。したがって 他からの支配や助力をあてにせず 従属から離れて独り立ちするには、奪い合う側から作り出すほうにまわる必要があるわけで、自立支援を行うには、創造する能力を養うためにはどうすれば良いか? を自他ともに模索してゆくことこそが重要に思われる次第です。


創造は憎しみから解放される最良の方法

2013年12月30日 | 日記

ネルソン・マンデラ氏の言葉に「憎しみの感情は学んで身につけるもの」という一説がありました。では なぜ人は憎むのでしょう? たとえば『幼児なら、自分だけに向けられていた母親の愛情を兄弟などへ取られそうになる。動物なら、親族の身を危険にさらす相手に対しては攻撃的になる。』といった具合ですが・・ようするに憎むのは怖いから不安だからであって、ここから逃れたり解消されるための“感情転換の手段”として 憎しみを学んでゆくようにも感じられますね。

つまり 憎しみとは生存本能の産物であり 恐れの感情が形を変えたもの! とも解釈できるわけですが、もし失うことを恐れるあまり 憎しみが生まれるのだとしたら、何も失わない方策を見つけるしか 方法はないのかもれませんね。けれど 実生活において何も失わない現実なんてあるのでしょうか? もちろん ありません。だとしたら・・失う事を恐れない手段としては【新しいものを次々作り続けてゆくしかない】のかもしれませんよ。作ったものや過去へ固執すれば 人は失くすのを恐れる。しかし 新しいものを作り続けてさえいれば、誰かと何かを奪い合う必要さえなくなってしまうですから。

しかるに、やはりビジネスにおける最良の経営手法も ここにこそあるのでは? もちろん社員の生活を確保するには、特許や各種バリューなどの既得もある程度は必要ですが、そのような守りはあくまで現状維持の一環にすぎません。むしろ企業の本分は新しいものを生み出すことに尽きる。同業他社のライバルと争うより、つねに革新を目指さねばならないのが宿命であり、これができなければ 元々の存在意義さえなくしかねません。そう考えると 過剰な業界利権や既得権益なども、やはり上記の生存本能から生じてるように感じられますが、それらは とりもなおさず 新しいものが創造できない事へ起因してるのではないでしょうか。

このように理解してゆきますと、マンデラ氏の「憎しみが学んで身につけたものなら 愛はもっと容易に学べるはず」といった発言の真意も何となく見えてくるはずで、実際 この偉大な指導者は、国民に対して「新しい国のあり方を創造しよう」と鼓舞し、それを実務的にひとつずつ実行へうつしてきた事がうかがえます。素晴らしい指導者たちは皆、過去より未来を目指し 創造をうながします。それは 憎しみをなくす最善の方法であると同時に、創造という人間が本来持つ本分を呼び覚ます効果もあるのかもしれません。


科学には二種類の意味がある

2013年12月26日 | 日記

科学には、広い意味では『学問と同じ』狭い意味では『自然科学のみをさす』といった・・二つの解釈があります。サイエンスとは、学問的には『自然科学・人文科学・社会科学の総称』とされていても、哲学上では『自然科学』としか定義されない。ここからも本来、科学と呼べるものは自然科学しかなく、その他のものは【便宜上 科学というカテゴリーへ分類されたにすぎない】ことが窺い知れるでしょう。

つまり厳密な意味において『自然以外は科学じゃない』のであって、その背景に人為的な事象や人間的思惟・目的などが垣間みえるものは、人文科学とか社会科学に属し・・純粋な科学とは呼べないわけですが、このあたりって けっこう世間では混同されているのではないでしょうか。

当然のことながら、政治・経済などは科学ではなく、人文や社会に含まれる“人間の手で作り出されたもの”にすぎません。したがって、これらは自然発生的事実によって変遷するのではなく、あくまで恣意的・作為的に“変化させられる事象”と言えます。ならばこそ、運営する側の意思を読み取ったり、心理戦をしかけたりすることへ躍起にもならざるを得ないのでしょうが、そうした行為そのものが、ますます政治経済を複雑化させているとも考えられますよね。

しかしながら 統計学でもよく知られているとおり、莫大な数のビックデータにおいては、すべてが平均化されるので、ある種の自然科学的傾向が示されるのは当然なんです。つまり 意図的に作られた ある種の社会的常識や扇動がなければ、データは自然科学として働くわけですが・・それはたとえば、日本国内で民意とされたものと、その枠をアジアまで広げた場合・世界まで視野に入れたケースでは異なることを意味しています。

やはり、ビジネスでは どこをターゲットにするのか? また どこまでの市場規模を戦略対象とするのか? で、その進め方も180°変わってくるということでしょうが・・その意味では、ソーシャル性が高くなればなるほど 経済学は通用しなくなり、哲学の重要度も増してくるように感じられます。


解決策は すべての枝葉を排除した そもそも論から

2013年11月27日 | 日記

先頃、財務省が貿易統計速報を発表しました。輸出額から輸入額を差し引いた貿易収支が15ヶ月連続の赤字で、過去最長の記録となったそうです。その原因として、アナリストたちは『①対前年比20%の円安 ②火力発電への依存度上昇 ③シリア情勢による原油価格の高騰』といった三点を挙げていますが・・こういった一連の報道をみてると「何だかたいへんなことが起きている」みたいに感じられたりしませんか?

でも、じつはこれって別にたいしたことではないのですね。実際、企業はちゃんと儲けていますし 大企業は内部留保だってしています。くわえて 昨今の為替差益による利益もたいへんなものでしょうから・・それほど心配するようなものではない! というのが率直な結論のような気がします。

では、何故こういったニュースが重大な損失のように思われたりするか?といえば、それは日本のメディアが、こぞって事実と異なる報道。または誤解を生じさせるような伝え方をしているからなんですね。よくNHKの報道でも「日本の赤字は1008兆円で 国民一人あたりの借金は800万円」なんてアナウンスが聞かれるでしょうし、新聞各社も同様の記事を発表しています。しかし、これは明確な誤りですね。その理由としては・・①借金をしているのは日本政府であって日本国ではありません。したがって、上記の「日本の赤字は1008兆円」は間違いで、当然日本国に赤字はなく、赤字なのは日本政府だけ!というのが本当のところなんです。②ましてや、国民は国債を通して『政府へお金を貸してる側』ですから「国民一人あたりの借金は800万円」なんてとんでもない話であって「日本国民の政府への貸付額が一人800万円になった」というのが正解なんですよ。つまり上記は、政府の借金を日本の借金・国民の借金にしたがってる!ただ それだけを示してるわけです。

しかし、こういった矛盾ばかりを並べて、姿勢を正すよう求めていても・・情勢なんて あまり変わった試しがありません。だからやっぱり、今ある事実を単純に考察し直してみる必要があるのではないでしょうか。普通に考えれば、毎年 赤字国債を発行してるなんて正気の沙汰ではありませんが・・それにもまして、政府は日本国の対外純資産がいくらあるのか?や、国有地などの固定資産がいくらあるのか?も明確にはしていません。つまり、最も問題となるのは、いまだ政府や行政がきちんと会計処理をしていないことに尽きるような気がするのですね。

げんに政府は“どんぶり勘定で いくらでも誤魔化しが出来る 単一簿記”を採用しており、しかるに単一簿記とは、損益と資産の収支を合わせなくても良い 詐欺的な簿記手法。よって、今は個人商店でも そのような帳簿が許されていない! のが実態なんですよ。よって、これを許している限りは『実際の国有財産がいくらあるのか? それは誰にもわからない』という現状も続くのですが・・それでいて どのように何を論じるのか? 全く意味不明。不思議に思われてならない次第です。

ただ、このように論点を絞り込まず・・なおかつ事実とは異なる あるべき論ばかり議論してるような風景は、よくビジネスの現場でも目にすることでしょう。これらを正す方法は、やはり すべての枝葉を排除した原点への言及にこそあるのではないでしょうか。むやみな経費や給与の削減は、経営の本質を見えなくさせてしまいかねません。今一度、これまで積み上げてきたロジックをゼロにして「そもそも論」に立ち返ってみることで、明らかになるものもたくさんあるように感じます。


無知の知

2013年10月19日 | 日記

現役精神科医 西田昌規氏の「薬漬け」に関する 興味深いコラムを要約してご紹介しましょう。

従来から精神科医には「薬を出すしか能がない」「次々と新しい薬を出してくる」「薬をなかなか減らしてくれない」といった批判もあるが、それは事実だろう。実際の医療現場では、いま飲んでいる薬を整理するところから治療を始めて、薬を減量しただけで状態が良くなる人もけっこういる。世間では『製薬会社キャンペーン』に医師が無批判に従う実体も散見されるが、これは “病気と言うほどではない心身の不調” を指しており「病気だから大変だ」と騒ぎ立て「医者にかかったほうがいい」「治療しないと危険だ」とやかましく説いてまわる・・いわゆる よくテレビCMでも見られる『疾患宣伝』の類に思える。さらに米国では、新薬の治験に患者を差出しては多額の報酬を得る不届き者もいるのだ。

ちなみに厚生労働省のデータによれば「うつ病・躁うつ病」の総患者数は、96年に43万人だったものが、08年には104万人と2倍以上に増加。それに呼応する形で抗うつ剤の市場規模も145億円から870億円に膨れ上がったが、そういった うつ病患者の爆発的増加は「DSMなどの“操作的“診断基準の普及」と「選択的セロトニン再取り込阻害剤(SSRI)が日本に上陸したこと」の二点によるところが大きい。

とくにSSRIについては、米国で飛躍的にうつ病患者やメンタル休職者を作り出した実体もあるが、まさに今、日本もそれと同じ道を辿っていると思われる。昨今は、降圧薬「バルサルタン事件」のデータ改ざん事件も記憶に新しいが「新薬データの信憑性」といった問題も深刻になってきた。私のところにも、医薬情報担当者が、薬剤の情報提供と称して、さまざまなパンフレットを持ってきては、有効性を示した論文データを紹介してくるのだが、そういった宣伝に一役買ってきた「御用医者たち」の責任はいかにも重いと感じる。

ただ こういった事象に関して、医師側から言い訳をさせてもらうなら、精神科医療の診療報酬の安さが挙げれるかもしれない。「早く切り上げてたくさんの患者を診て、多くの薬を出さないと病院経営は維持できない現実がある」わけで・・つまり、じっくり患者の声を聞くような薬を使わない治療法なんて、青臭い「机上の空論」であり、現実には それでは院を維持できない実情があるということなのだ。


【無知の知】 とは・・ソクラテスが唱えた「無知を知っている人間は、無知であることを知らない人間より賢い。真の知への探求は 自分が無知だと知るところから始まる」という意味の哲学です。もちろん上記の論理も一側面であり、必ずしもすべてこれが正しいというわけではないでしょう。しかし、人はつねに自分は正しいと思いたがるものです。

よって『世の中にはさまざまな違った真実があり、私たちはいつも その一面しか知らない』なんて自覚し続けるのは たいへん難しいことのように思います。だからきっと・・ソクラテスが伝えたかったのは「知の探究に終わりはない」そして「そういった知の探究をやめてしまった時点で 人は無知の罠に陥るんだよ」という 私たちへ向けてのアドバイスだったような気がするのです。


事実は小説よりも奇なり

2013年10月01日 | 日記

『事実は小説よりも奇なり』は、英国の詩人 バイロンが語った有名な言葉であり「世の実際の出来事は、作り事の小説より ずっと不思議なものだ」といった意味になります。では そもそも事実って一体何なのでしょう? “事実“を辞書で引きますと【実際に起こった事柄・現実に存在する事柄】と出てきます。つまり これって、もうすでに“起こった。もしくは存在する事柄”なので「事実とはすべて過去系」ということになるのですね。要するに事実とは・・何もかもが「過去の出来事や起こってしまった事象の範囲内」にあるわけで・・もちろん、過去は変えられるはずもありませんので、事実とは、一度過去に定義されたものであると同時に、その後も一切変わらず未来永劫に受け継がれるであろう 過去の遺物ばかりになるのも当然に思われるのです。 

上記の「変えられない事実」という認識体系は、現実生活を営む上では、いかにもおかしな受け取り方と言わざるを得ませんが、世間を見回してみれば、法律から生活そのもの、仕事に関する動機に至るまで、すべてが過去に一度“こうだ”と定義とされたものが、今もなお踏襲され続けている現実がつぶさに見て取れることでしょう。ここでの問題の根はひとつ。それは『物事の意味が一般解釈でしか把握されていない』点にあります。言葉の意味には、つねに“一般解釈とは別“の哲学的側面もあるのですよ。

しかるに“哲学における事実“とは【ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在。または出来事で、それは論理的必然性をもたず、他のあり方にも成りうるもの】と規定されています。つまり、事実とは「ある時・ある所に限定されるもの」であり、地球と宇宙空間では物理法則が異なるように、イタリアのファッションセンスと米国のそれは別物。アングロサクソンのビジネス的な事実と、ラテン系のそれとは違う!ということですね。つまり「そこでの事実とあそこでの事実は まるで異なる」よって、それらを一緒にして、漠然と捉えるのは間違いというわけです。もちろん、アフリカのそれと、中東のあれと、日本のこれに・・論理的必然性などあるはずもありません。したがって、同じ物事はいつだって“他のあり方にも成りえる”のです。

たとえば、上記の「所与」の意味についても【他から与えられる事や物。解決されるべき問題の前提として与えられたもの】という一般解釈における認識だけでなく、この“所与”には、他にも・・哲学上の【思考の働きに先立ち、意識へ直接与えられている内容】そして心理学上の【感覚に直接与えられたもの】といった複数の意味があるのです。つまり「思考する前に直接的に感覚として存在する~所与」とは、まさしく過去の既成事実そのものとなるわけですが、事実とは 他や社会から与えられるものではありません。既成事実としての所与を『経験的所与』にして、自らの手で作ってゆくものでしょう。そして、それらは同時に、いつだって他のあり方にも成りえるものなんです。


マスカレードとペルソナ文化

2013年09月24日 | 日記

人生はマスカレード(masquerade) 仮面舞踏会のようなものですね。誰もがマスクをつけて、何らかの役を演じています。これを 心理学者 カール・グスタフ・ユングは、ペルソナ(persona)と名付けました。ペルソナとは、元来 古典劇で役者がつけていた仮面の名称なのですが・・ユングは人間の外的側面を「人はまるで仮面をつけて人生を演じてるようだ」との意味を込めて ペルソナと呼んだのでしょう。

また、彼は人間の内面に対しても 『男性的側面をアニマ』『女性的側面をアニムス』と名付け・・ペルソナは男らしさを示すものの、内的心象は女性的な男性がいたり、逆に ペルソナは女性的なのに 内面は男性的な女性もいるとしました。これって現代では当たり前の話ですが、繊細な男性やハンサムウーマンって、けっこう身の回りにもいらっしゃいますよね。

しかるに現代の事実や正しさって、すべて多数決で決められていますが・・よく考えてみれば、多数決って提示された事象について【YesとNoのどちらが多いか?】を明らかにする行為にすぎません。つまり「数が多い事」が必ずしも真実とはかぎらないのです。にも関わらず、世間で少数派は認められないし、オリジナリティーは歓迎されない。だからこそ、ペルソナとアニマ・アニムスだって ますます乖離傾向を示すのかもしれませんね。

ただ、こと経済に関して言えば、これってまったく逆で・・他と同じものを作っていても仕方ない オリジナリティーや独創性が求められる世界なんです。もはや多数決なんて、マーケットの参考くらいにしか役立ちません。いまだ挙手によって会議進行してるのなら、それは特殊な業界とさえ言える時代になってきました。創造性ある仕事は、年々増えつつありますが、それにつれて、仕事ではオリジナリティーが求められ、日常生活では協調や同意が求められる 複雑さも増加してきているのでしょう。いずれにしろ、私たちには さらなる器用さと切り替えの速さが必要なのかもしれません。


グランドデザインとプレゼンテーション

2013年09月17日 | 日記

グランドデザイン(grand design)とは「壮大な図案・設計・着想によって、長期にわたり遂行される大規模な計画」です。また【壮大】とは、規模が大きくて“立派”なこと。ここでの“立派とは・・威厳があって美しく、堂々として、非常に優れているさま”であり『十分に整っていて、不足や欠点のないもの』を指します。つまり、威厳があり堂々としていて優れたものとは、全部が整った 欠点や不足がない完璧なものになるのですね。そして【図案・設計・着想】とは、あらかじめ意匠や考案を図に表したデザインや 作り方の手順・工夫・アイデアなので、そこには図面があり、デザイン・アイデア・工夫が施されてることが必須になるわけですが・・これってまさに、プレゼンテーションそのものと言えるような気もしますね。

まとめますと、グランドデザインとは【規模が大きくて立派な 威厳があって美しい 堂々としていて非常に優れた 完璧でトータルなアイデアをプレゼンテーションしながら、創意工夫を施して、より素晴らしいデザインへと昇華させるような、人が一生をかけて行ってゆくべき唯一の仕事】になると思われますが、しかるに哲学とは「根源的な問いに対する答えを見つけ出すためにある」のではなく「根源的な問いそのものを問い直すためにある」もの。つまり、最初に何かの問いや問題があって、それに対する答えを見出すために使用するのではなく『すべての根源である 既存の社会システムそのものをゼロから問い直す行為』になってくるわけです。

よってグランドデザインをプレゼンテーションする場合、最初に考慮すべきは「そもそも規模が小さすぎるから使い物にならないのでは?」「どんなに壮大に見えても、それが私欲なら所詮はちっぽけなものかも?」といったことかもしれません。グランドデザインを語るなら【トータルなアイデアを、立派な威厳ある美しい堂々としたスタンスで プレゼンテーションするべきでしょう】そしてまた「これが私の一生の仕事。人生におけるすべての指針と方向性はここにある」 と宣言することも重要になってくるように思われます。


コーディネイトからデザインへ

2013年09月10日 | 日記

コーディネート(coordinate)とは【各部を調整して全体をまとめること】【 服装・インテリアなどで、色柄・素材・形などが調和するように組み合わせること】です。また、調整とは【ある基準に合わせて正しく整えたり、過不足などを正してつりあいのとれた状態にする事】調和とは【全体がほどよくつりあって、矛盾や衝突などがなくまとまっている事】つまり、調整には『最初から “ある基準” が存在』するわけで、そこには『決められた“正しさ” がある』のですね。よって、調整の是非には『既存のやり方や作法・手順に合致しているかどうか?』のみが問われ、調和には『ほどよいつりあいと矛盾や衝突を避ける姿勢』が求められることになります。

しかし、ことビジネスの世界においては「ある基準における 正しさや既存の作法・やり方に准ずる事」にまったく意味はありません。また「ほどよい=マシとか、矛盾や衝突をさけてばかりいる事」もご法度とされています。その理由は簡単で、ありきたりなものに価値はないし、結果として、そういった普通のシステムや商品が売れるはずもないという事実が存在するのですね。

しかし、たいていのケースでは、ビジネスはコーディネイトであって、デサインするものとは考えられていません。では、何故このような思考になってしまうのか? それはビジネスに対する明確な目的がないからですね。デザインとは【目的をもって具体的に立案・設計すること】なので・・・目的がなければ、具体性は生じませんし、立案や設計の元が明確化されないのも当然でしょう。

目的とは【実現しようとしてめざす事柄・行動のねらい・理性ないし意志が行為に先だち、その行為を規定し方向づけるもの】です。したがって、まずは 「実現しようとして目指す事柄が 既存の正しさやルールの枠内にある」という点が問題となりますし、また「行動のねらいそのものが 既存のやり方や作法・手順の範囲内」であったり 「行為を規定し方向づけるのが、マシな結果を生み出すための衝突回避にある」 ということが “間違いの根底にある“ と理解されます。よって、言及すべきは、その目的であって、プロセスではありません。ゆえに、目的の立て方や設定の仕方が誤解されてる点そのものにこそ焦点をあてるべきではないでしょうか。

そもそも、なにゆえ『実現しようとする事・行動のねらい・行為の規定と方向性』に、何らかの枠を最初からあてはめる必要などあるのでしょうか? 誤認されている点は、このようにいつも、そして常に、このような “何かを始める前・・・つまり 初めより以前にある“ のかもしれません。要するに、人が一番苦手とするのは、何の規制も手引きもない事であって、それは ゆうなれば自由発想とも表せるような気がしますね。目的を決める前から、その目的に何かしらの規制があるなら、それはもうデザインと呼べるような代物には成りえないでしょう。もっと規制のない自由な発想で最初の目的から再度見直してみる! このようにビジネスには、コーディネイトする!より デザインする! そんな姿勢が大切に思われます。


橋本左内の「啓発録」に学ぶ

2013年08月30日 | 日記

「学問とは、人として踏み行うべき正しい筋道を修行することであって技能に習熟するだけのものではない」これは幕末の賢人 橋本左内の言葉ですが、彼は福井藩医の子として生まれ、医者の緒方洪庵に師事。蘭方医学を学び、藩教育の中心人物となるも、開国貿易・殖産興業・軍備強化などを目指して、藩政改革に手腕を振るったがゆえに 26歳の若さで安政の大獄により他界した人物です。

彼が自身の志を記した『啓発録』は有名で、福井県内の学校では 今もこれを基にした“独自の教科書“が使われてるらしいのですが、くわえて 啓発録の思想に准じた形で、同県には子供たちに「立志式」と呼ばれる “志を立てるための行事“ が敢行として残っているとも聞きます。以下に 橋本左内が15歳の時に記した『啓発録』の内容を簡単に列挙してみますと・・・

● 稚心を去る~稚心とは「幼心」のこと。つまり「子供っぽい心」のことである。これは人間だけにあてはまるワケではなく、例えば果物や野菜などでも、水っぽくて成熟してない時期を「稚」と呼んだりする。世の中なんでも、この「稚」から卒業しないうちは発展しないが、13歳や14歳になって本格的に勉強を始めねばならない頃になっても、この幼心が少しでも残っているならば物事は何も上達しないと思われる。
●氣を振う~本気で勉強を始めたら、決して人に負けてはならない。むしろ負けることは恥だと考えて、常に油断なく頑張る気持ちを持たなければならない。つねに気を奮い立たせる心がけこそ重要である。
●志を立つ~せっかく頑張ってやろうと決心しても、行き先が決まってなければ意味はない。私は何を勉強しよう、勉強してどんな人になろうという目標を、はっきりと定めるべきだ。一端 志を立て、こつこつ努力してゆけば、どんな人でも必ず成長する。それは ちょうど江戸に向かって出発したようなもので、今朝 ここをたてば、今晩は? 明日の晩は? どこそこにいる!というように、どんなに足の弱い人でも、だんだん江戸へ近づくのが道理だ。したがって 心を一筋に決めてかかれば どんな偉い人にでもなれるはずである。
●学に勉む~志を立てた以上 努力して勉強に励むことが肝心だ。勉強とは ただ本を読む、字を書くということではない。それらはただ学問の手段であって、二階へ上がるはしご段のようなものにすぎない。これらを通じて真に自分の知識を豊かにし、心を練り鍛えてゆくべきで、すぐに嫌になったり、成績が良いといって鼻にかけたり、逆に悪いからといって悲観したりするのは 真の勉強とは成りえない。
●交友をえらぶ~友達の中には益友と損友とがある。損友はすぐに心安くなりやすいけれど、自分の為にはならないものだ。逆に、益友には とかく気づきにくい。時には面白くないこともあったりするだろうが、本当によい友達と交わってこそ、相手のよい所を見習い、自分の欠点をなおすことも出来る。したがって 友達を択ぶことは勉強するものにとって、たいへん大切なことなのである。

これが わずか15歳の青年の書いたものだと想像できるでしょうか? さらに、彼はこんな事を手紙にしたためていますが、その内容を紹介しますと・・・

『己を知る者は まず己でなければならない。もし 人が本当に自立することができれば、それこそ永遠の存在、永遠の平和、永遠の確立になるが、それがなかなか難しいのである。せめて一人でも多くそういう人物が出れば、また そういう信念、そういう学風、そういう躾、そういう傾向のものが広まってくれば、少なくともその国・民族は救われることになる。これが人間の栄枯盛衰、民族発展の根本原理だが、このような人物は、やはり教育の適切さを得なくては、なかなか現れないように思う。幼少年時代に、よく教育すると 17~8歳で 立派に人として大成するのは当たり前なのだが、幕末の人物は、みな若くてよく出来ている。まさに20代で堂々たる国士なのだ。吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞と・・・そういった人々は枚挙にいとまがないが、みな二十歳前後で堂々たるものだろう。しかるに どうしてあんなに若いのに大した人が多いのだろうと思っていたが、人間学というものを本当に研究してみると、あれは決して奇跡ではないのがわかるし、むしろ当たり前だと理解される。人間は教育のよろしきを得て、知命、立命の教養を積めば、その人なりに大成するのが道理だ。そこから先はいろいろの経験が加わって鍛錬され、いわゆる磨きがかかるだけで、人そのものは、本来 17~8歳でちゃんと出来上がる。では 人が、その成長を得るのに必要な学問とは何なのか? まずは知識の学問と智慧の学問が、そもそも根底から異なることを知らねばならないだろう。知識の学問は、我々の理解力・記憶力・判断力・推理力など、つまり悟性の働きを鼓舞するものであって、ゆうなれば誰にも一通りできる機械的な能力と言えるだろう。しかしそういうものではなく、もっと経験を積み、思索反省を重ねて、我々の生命や人間としての体験の中からにじみ出てくる もっと直感的かつ人格的な学問こそを智慧と呼び、真の学問と呼ぶのである。だから 知識の学問から智慧の学問になればなるほど、生活的・精神的・人格的になってくるのであり、それらを深めれば、普通では得られない “徳に根差した、徳の表れである徳慧” という学問にもなってくるわけで、これが聖賢の学と称するにふさわしい本来の人間学となるであろう。』 

この考察は極めて正しく、的を得ているように感じます。彼の生きた時代には、吉田松陰などの優れた人物がまわりにあふれていましたが、それらの共通点を研究し “自身との類似点を探し当てる事” で、若くして正しい論点整理が行えたのでしょう。当時とは異なり、いまは【哲学ある人物がまわりに見当たらない環境】となってますが、それこそが現代社会が抱える 最も大きな弊害になってる気さえしてきますね。だから、環境は大切・・・教育環境は与えられたものだけに限定せず、自らすすんで新しい智恵へふれられるよう、普段から心がけておく必要があるのかもしれません。


宇宙飛行士の採用試験に見る 優れた人物の条件 

2013年08月19日 | 日記

世に星の数ほどある採用試験において、最も難関とされるのが JAXAが実施する宇宙飛行士の試験だそうです。この宇宙飛行士の採用試験において最も重要視されるのは「伸びる人か? そうではないか?」なぜなら「実際に選ばれて訓練に入れば、今までやったことがない訓練ばかりなので そこで臆せずさらに伸びる人しか現実には使い物にならない」との事。では そういった伸びる人とは どのような人なのでしょう? 以下に JAXAの宇宙飛行士試験の詳細を列挙してみます。

●複数で揺さぶりをかけ、等身大の人物像を表出させる
日本の宇宙飛行士選抜試験は、じつに1年もかけて心身共に徹底的に審査されるのですが、選抜の後半に残る人はもれなく頭がいいので、自分がどう反応すれば審査員に“受けるか”を予習している。だからそうじゃない方向に、あえて揺さぶりをかけられます。面接は、心理面接、英語面接、JAXA部長級職員面接、そしてJAXA役員面接など、さまざまな立場や職種で行われ、入れ替わり立ち替わり質問者が変わるのですね。ときには、一人を複数の人間が取り囲み、30分かけて行うものもあるので 否が応でも緊張は高まるでしょう。1回や2回の面接なら誤魔化せますが、回を重ねていくと、必ずボロが出る。よって、最初はいくらいいことを言ってても、その言葉が経験で裏付けられていなかったり、本心から考えていることでなければ、すぐ嘘だとばれてしまうのです。また、あまりに美しい理想ばかり並べる人には、たとえば「失敗したことはありますか?」などのあえて“外す”ような質問を投げかけることもありますが、その際に大事なのは 『失敗から何を学んだか・どうやって失敗をリカバーしたか・同じ失敗をしないために前向きに考えているか』 などで、そういう質問を重ねることで、自分を客観視できているかどうかが見極められます。つまり、急ごしらえで、見栄えのいい自分を作り上げるのではなく、自らの過去の経験を振り返り、もともと心の奥にあった考えを言語化できるかどうか? 重要視されるわけですね。

●「ダメだし」で揺さぶりをかけて、不測の事態に関する対応力をみる
一方、面接だけではどうしても見極めきれない資質もあるとされていて、たとえば、宇宙飛行士に最も求められる資質である「チームワーク」や「リーダーシップ・フォロワシップ」がそれに当たります。特に”想定外の事態”が起こったときの対応を、審査員が実際に見て、その能力を確かめるケースが多くあるそうです。そこで最終試験に登場するのが、約1週間をかけ、閉鎖施設に缶詰状態で行う試験です。JAXAの筑波宇宙センターには、宇宙ステーションを模擬した閉鎖施設がありますが、そこは窓がなくテレビもラジオもない・・・外界と隔絶された施設が設置されているのです。ここに10人のファイナリストが入り、5台のモニターカメラで別室の審査員から24時間、その一挙手一投足が見つめられる中、課題を次々こなしていくわけですが・・・この選抜試験こそが、世界一厳しいと言われる由縁でもあるわけですね。ここで行われる試験に、たとえばロボット製作があります。それぞれに工夫を凝らしロボットを作り上げて「できた」と安堵したときに「面白くない。改良してください」といった審査員の無情な一言が告げられる。改良を加えるにも締め切り時間が迫っているから、当然『今更、改良と言われてもどうしたらよいのか』といった心理状態が出てきますが、その対応こそがポイント。実際、ロボットはよく出来ていても、そこは問題ではありません。あえて「想定外の事態」を作りメンバーを動揺させて反応を見るのが目的ですから。なぜなら、宇宙では 想定外の出来事なんて日常茶飯事に起こる。いかに気持ちを切り替えて、時間内にできることを判断して行動に移せるかどうか? が見られているのです。

●一発芸で場を和せ、その人物の素をあぶりだす
この閉鎖試験中は、幾度も変化を与えて、さらに揺さぶりをかけ、ファイナリストたちの「素」をあぶり出していくのですが、その中での極付きに「一発芸」があります。「自分の特技で場を和ませろ」という課題が出されたりするのですが・・・そのわけは「できるだけの人」ではダメということなんですね。どんなに能力が高くても、仲間やクルーたちに「あいつは何を考えているかわからない!」と思われるようではいけません。それでは宇宙空間で命を預けられないからです。結局、相手を信用できるかどうかのカギは『自分はこんな人間です』と、自ら殻を破り、自分をさらけ出せるかどうかにかかっているのです。

●バランスのとれた『自分で考える力』が重要とされる
『自分がどうなりたいのか? そのために必要な能力は何か? 自分に欠けているのは何か?』 ここをきっちり自分で考えられる人でなければなりません。その上で、つねにどうしたら能力を上げられるかを試行錯誤し、自らが訓練官になったつもりで、訓練を“自らの意思”で構築することが必要です。そして それが自分に必要だと思ったら「訓練を追加して欲しい」と訓練担当に頼み込むくらいでないと・・・それでこそ、宇宙で予定通りにいかないトラブルが起こったときの応用力がずば抜けて高くなるのです。つまり、こういった「努力の天才」だけが想定外の事態を切り抜けていける!ということなんですね。

●宇宙飛行士が “化ける瞬間“ は「自分のためから みんなのためへ」
こうして宇宙飛行士は、資質を磨き能力を開花させ、活躍できる宇宙飛行士へ育っていきますが、宇宙飛行士たちにも必ず突然「化ける瞬間」があるとの事。それは「自分ひとりの力では限界がある。多くの支えがあって宇宙に行けるのだと、理屈ではなく感性で理解した瞬間に『本当の宇宙飛行士になる』のだそうです。世界一厳しい選抜で選ばれた日本人宇宙飛行士たちも、訓練初期では ついていくのが精いっぱいで、周りを見る余裕はありません。でも「訓練で行き詰まって自分一人でどうにもならないとき、インストラクターが親身にアドバイスしてくれたり、管制官やエンジニアたちが自分の作業のために寝ないで手順書を書いてくれたり・・・そうして支えてくれる周囲の人たちの努力や苦しみが実感できたとき、その期待に応えたいと心から願うようになるのです。自分のためから みんなのためへ。そして、人類のため、世界のためになった時、人は内在していた能力を爆発的に開花させ「化ける」ことができるわけですね。

いかがでしょうか? 一つの判断ミスが全員の生命にかかわる 宇宙飛行士の条件とは、こんなにも厳しいのですね。企業面接や司法・官僚などの試験とは比較になりません。ただ これらの基準って、優秀なソーシャルワーカーやビジネスパーソンの資質と、そっくりそのままのような気もしませんか。やはり どこかで化けることが必要ならば、そういった瞬間を迎えるために何をするか?が重要なのでしょう。