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常識を変えよう! Change commonsense

常識が変われば 世界はもっと広がる

創造は憎しみから解放される最良の方法

2013年12月30日 | 日記

ネルソン・マンデラ氏の言葉に「憎しみの感情は学んで身につけるもの」という一説がありました。では なぜ人は憎むのでしょう? たとえば『幼児なら、自分だけに向けられていた母親の愛情を兄弟などへ取られそうになる。動物なら、親族の身を危険にさらす相手に対しては攻撃的になる。』といった具合ですが・・ようするに憎むのは怖いから不安だからであって、ここから逃れたり解消されるための“感情転換の手段”として 憎しみを学んでゆくようにも感じられますね。

つまり 憎しみとは生存本能の産物であり 恐れの感情が形を変えたもの! とも解釈できるわけですが、もし失うことを恐れるあまり 憎しみが生まれるのだとしたら、何も失わない方策を見つけるしか 方法はないのかもれませんね。けれど 実生活において何も失わない現実なんてあるのでしょうか? もちろん ありません。だとしたら・・失う事を恐れない手段としては【新しいものを次々作り続けてゆくしかない】のかもしれませんよ。作ったものや過去へ固執すれば 人は失くすのを恐れる。しかし 新しいものを作り続けてさえいれば、誰かと何かを奪い合う必要さえなくなってしまうですから。

しかるに、やはりビジネスにおける最良の経営手法も ここにこそあるのでは? もちろん社員の生活を確保するには、特許や各種バリューなどの既得もある程度は必要ですが、そのような守りはあくまで現状維持の一環にすぎません。むしろ企業の本分は新しいものを生み出すことに尽きる。同業他社のライバルと争うより、つねに革新を目指さねばならないのが宿命であり、これができなければ 元々の存在意義さえなくしかねません。そう考えると 過剰な業界利権や既得権益なども、やはり上記の生存本能から生じてるように感じられますが、それらは とりもなおさず 新しいものが創造できない事へ起因してるのではないでしょうか。

このように理解してゆきますと、マンデラ氏の「憎しみが学んで身につけたものなら 愛はもっと容易に学べるはず」といった発言の真意も何となく見えてくるはずで、実際 この偉大な指導者は、国民に対して「新しい国のあり方を創造しよう」と鼓舞し、それを実務的にひとつずつ実行へうつしてきた事がうかがえます。素晴らしい指導者たちは皆、過去より未来を目指し 創造をうながします。それは 憎しみをなくす最善の方法であると同時に、創造という人間が本来持つ本分を呼び覚ます効果もあるのかもしれません。


科学には二種類の意味がある

2013年12月26日 | 日記

科学には、広い意味では『学問と同じ』狭い意味では『自然科学のみをさす』といった・・二つの解釈があります。サイエンスとは、学問的には『自然科学・人文科学・社会科学の総称』とされていても、哲学上では『自然科学』としか定義されない。ここからも本来、科学と呼べるものは自然科学しかなく、その他のものは【便宜上 科学というカテゴリーへ分類されたにすぎない】ことが窺い知れるでしょう。

つまり厳密な意味において『自然以外は科学じゃない』のであって、その背景に人為的な事象や人間的思惟・目的などが垣間みえるものは、人文科学とか社会科学に属し・・純粋な科学とは呼べないわけですが、このあたりって けっこう世間では混同されているのではないでしょうか。

当然のことながら、政治・経済などは科学ではなく、人文や社会に含まれる“人間の手で作り出されたもの”にすぎません。したがって、これらは自然発生的事実によって変遷するのではなく、あくまで恣意的・作為的に“変化させられる事象”と言えます。ならばこそ、運営する側の意思を読み取ったり、心理戦をしかけたりすることへ躍起にもならざるを得ないのでしょうが、そうした行為そのものが、ますます政治経済を複雑化させているとも考えられますよね。

しかしながら 統計学でもよく知られているとおり、莫大な数のビックデータにおいては、すべてが平均化されるので、ある種の自然科学的傾向が示されるのは当然なんです。つまり 意図的に作られた ある種の社会的常識や扇動がなければ、データは自然科学として働くわけですが・・それはたとえば、日本国内で民意とされたものと、その枠をアジアまで広げた場合・世界まで視野に入れたケースでは異なることを意味しています。

やはり、ビジネスでは どこをターゲットにするのか? また どこまでの市場規模を戦略対象とするのか? で、その進め方も180°変わってくるということでしょうが・・その意味では、ソーシャル性が高くなればなるほど 経済学は通用しなくなり、哲学の重要度も増してくるように感じられます。