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常識を変えよう! Change commonsense

常識が変われば 世界はもっと広がる

無知の知

2013年10月19日 | 日記

現役精神科医 西田昌規氏の「薬漬け」に関する 興味深いコラムを要約してご紹介しましょう。

従来から精神科医には「薬を出すしか能がない」「次々と新しい薬を出してくる」「薬をなかなか減らしてくれない」といった批判もあるが、それは事実だろう。実際の医療現場では、いま飲んでいる薬を整理するところから治療を始めて、薬を減量しただけで状態が良くなる人もけっこういる。世間では『製薬会社キャンペーン』に医師が無批判に従う実体も散見されるが、これは “病気と言うほどではない心身の不調” を指しており「病気だから大変だ」と騒ぎ立て「医者にかかったほうがいい」「治療しないと危険だ」とやかましく説いてまわる・・いわゆる よくテレビCMでも見られる『疾患宣伝』の類に思える。さらに米国では、新薬の治験に患者を差出しては多額の報酬を得る不届き者もいるのだ。

ちなみに厚生労働省のデータによれば「うつ病・躁うつ病」の総患者数は、96年に43万人だったものが、08年には104万人と2倍以上に増加。それに呼応する形で抗うつ剤の市場規模も145億円から870億円に膨れ上がったが、そういった うつ病患者の爆発的増加は「DSMなどの“操作的“診断基準の普及」と「選択的セロトニン再取り込阻害剤(SSRI)が日本に上陸したこと」の二点によるところが大きい。

とくにSSRIについては、米国で飛躍的にうつ病患者やメンタル休職者を作り出した実体もあるが、まさに今、日本もそれと同じ道を辿っていると思われる。昨今は、降圧薬「バルサルタン事件」のデータ改ざん事件も記憶に新しいが「新薬データの信憑性」といった問題も深刻になってきた。私のところにも、医薬情報担当者が、薬剤の情報提供と称して、さまざまなパンフレットを持ってきては、有効性を示した論文データを紹介してくるのだが、そういった宣伝に一役買ってきた「御用医者たち」の責任はいかにも重いと感じる。

ただ こういった事象に関して、医師側から言い訳をさせてもらうなら、精神科医療の診療報酬の安さが挙げれるかもしれない。「早く切り上げてたくさんの患者を診て、多くの薬を出さないと病院経営は維持できない現実がある」わけで・・つまり、じっくり患者の声を聞くような薬を使わない治療法なんて、青臭い「机上の空論」であり、現実には それでは院を維持できない実情があるということなのだ。


【無知の知】 とは・・ソクラテスが唱えた「無知を知っている人間は、無知であることを知らない人間より賢い。真の知への探求は 自分が無知だと知るところから始まる」という意味の哲学です。もちろん上記の論理も一側面であり、必ずしもすべてこれが正しいというわけではないでしょう。しかし、人はつねに自分は正しいと思いたがるものです。

よって『世の中にはさまざまな違った真実があり、私たちはいつも その一面しか知らない』なんて自覚し続けるのは たいへん難しいことのように思います。だからきっと・・ソクラテスが伝えたかったのは「知の探究に終わりはない」そして「そういった知の探究をやめてしまった時点で 人は無知の罠に陥るんだよ」という 私たちへ向けてのアドバイスだったような気がするのです。


事実は小説よりも奇なり

2013年10月01日 | 日記

『事実は小説よりも奇なり』は、英国の詩人 バイロンが語った有名な言葉であり「世の実際の出来事は、作り事の小説より ずっと不思議なものだ」といった意味になります。では そもそも事実って一体何なのでしょう? “事実“を辞書で引きますと【実際に起こった事柄・現実に存在する事柄】と出てきます。つまり これって、もうすでに“起こった。もしくは存在する事柄”なので「事実とはすべて過去系」ということになるのですね。要するに事実とは・・何もかもが「過去の出来事や起こってしまった事象の範囲内」にあるわけで・・もちろん、過去は変えられるはずもありませんので、事実とは、一度過去に定義されたものであると同時に、その後も一切変わらず未来永劫に受け継がれるであろう 過去の遺物ばかりになるのも当然に思われるのです。 

上記の「変えられない事実」という認識体系は、現実生活を営む上では、いかにもおかしな受け取り方と言わざるを得ませんが、世間を見回してみれば、法律から生活そのもの、仕事に関する動機に至るまで、すべてが過去に一度“こうだ”と定義とされたものが、今もなお踏襲され続けている現実がつぶさに見て取れることでしょう。ここでの問題の根はひとつ。それは『物事の意味が一般解釈でしか把握されていない』点にあります。言葉の意味には、つねに“一般解釈とは別“の哲学的側面もあるのですよ。

しかるに“哲学における事実“とは【ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在。または出来事で、それは論理的必然性をもたず、他のあり方にも成りうるもの】と規定されています。つまり、事実とは「ある時・ある所に限定されるもの」であり、地球と宇宙空間では物理法則が異なるように、イタリアのファッションセンスと米国のそれは別物。アングロサクソンのビジネス的な事実と、ラテン系のそれとは違う!ということですね。つまり「そこでの事実とあそこでの事実は まるで異なる」よって、それらを一緒にして、漠然と捉えるのは間違いというわけです。もちろん、アフリカのそれと、中東のあれと、日本のこれに・・論理的必然性などあるはずもありません。したがって、同じ物事はいつだって“他のあり方にも成りえる”のです。

たとえば、上記の「所与」の意味についても【他から与えられる事や物。解決されるべき問題の前提として与えられたもの】という一般解釈における認識だけでなく、この“所与”には、他にも・・哲学上の【思考の働きに先立ち、意識へ直接与えられている内容】そして心理学上の【感覚に直接与えられたもの】といった複数の意味があるのです。つまり「思考する前に直接的に感覚として存在する~所与」とは、まさしく過去の既成事実そのものとなるわけですが、事実とは 他や社会から与えられるものではありません。既成事実としての所与を『経験的所与』にして、自らの手で作ってゆくものでしょう。そして、それらは同時に、いつだって他のあり方にも成りえるものなんです。