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『九九双軽空戦記;ある軽爆戦隊長の手記』を読む

2019年12月06日 | 折々の読書

間もなく、日本が太平洋戦争に突入した12月8日が巡ってきます。ちょうど、表題の本を読み終わりました。敗戦に近い時期の旧日本陸軍飛行隊の状況が記録されています。連合軍からリリー(Lily)と呼ばれた九九式双発軽爆撃機隊(キ-48)は「松戸製作所と母」で登場する双発戦闘機「屠龍」のもとになった機種ということで興味を持ったものです。

先に紹介いたしました、辻田 新著『陸軍軽爆隊 整備兵戦記;飛行第七十五戦隊インドネシアの戦い』(以下、「整備兵戦記」といいます)と期せずして対をなす記録となっています。辻田氏のものが一兵卒である整備兵の目から見た軽爆隊の様子なら、土井氏の空戦記は戦隊長から見たそれです。同じ飛行戦隊ながらトップと初年兵という対称的な視点から航空部隊の状況が分かるのではないかと思います。


戦隊長の手記ですから部隊の動きがよく分かります。加えて、当然ですが、情報を把握する立場にあるので、当時の戦局が分かります。整備兵戦記ではそのような記述はありません。手記では敵や味方の動きが書かれ、どのような理由や状況で双軽隊が運用されていたか、どのような影響があったかを知ることができます。

著者は、昭和19年8月に戦隊長として南方セラム島の基地の所在地、アマハイに着任しました。
75戦隊は士気も練度も高く、過酷な作戦も厭わず、しかも成功させるという技量も勇気もあるパイロットによって編成されていました。
優秀な空中勤務者たちだったのですが、すでに日本軍は制空権を失っています。本来、脆弱な九九双軽など爆撃機には護衛戦闘機を付けなければならないのですが、それは無く、丸腰同然で出撃します。撃墜されれば4人の搭乗員を失うことを意味します。そのような状況で戦闘に従事しなければならなかったのが、インドネシア、ジャワなどの戦域でした。そして、日ごとに出撃できる機体が減り、数機、時には単機で爆撃に向かうようになります。技能優秀な空中勤務者を多数失っていきます。末期には隊からも特攻隊員を選出しなければならなかった苦しい事情がよく分かります。

この方面特有の状況も記されています。
「(略)豪北戦線特有ともいうべき、一つの大きな安らぎがあった。それはほかでもない。米空軍の、完全な”出勤時間の厳守”であった。すなわち、アメリカ軍は、朝夕の出勤時間がきまっているのであろうか、午前八時以前と、午後四時以後には、けっしてわが基地上空に姿を現さなかった(71頁)」という状況もあったのでした。「(略)整備兵たちも、この時刻になると大っぴらに、偽装をはずして仕事をはじめる」(72頁)という状況は整備兵戦記の様子を裏付けます。米軍の優位を示すものと言えるでしょう。

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土井戦隊長は、隊員のために、延び延びにされていた内地帰還を粉骨砕身の末に実現します。しかも、空輸部隊があてにできないため九九双軽を別途調達し、フィリピンと台湾間を自力で兵員空輸をするという前代未聞の作戦をほぼ達成させました。
帰還後の昭和20年2月には鉾田教導飛行師団司令部付となって、新型機への改編を急ぐとともに本土決戦に備えた特攻隊の編成にあたります。
そして、8月13日夕方、部隊初の特攻隊が敵襲のさなかに飛び立ち、日本近海まで姿を現していた米軍艦艇に突入しました。4年前に開戦した国の現実でした。

土井 勤著『九九双軽空戦記;ある軽爆戦隊長の手記』新装版(光人社NF文庫)潮書房光人社、2017年8月刊.


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