セブ島移住者の本音トークⅡ

セブ島でNGO活動に従事する管理人が、フィリピン人家族との奇妙な生活や、現地での国際交流について語ります。

氷解(その4)

2017-06-13 | セブ島移住生活考

(前編その3より続く)


...‘僕が、この会社を辞める決定打へと繋がって行きました’つまりは、C部長に腹を割って話をした事が逆効果を生んだと言う事ですが、その前に幾つかの伏線がありました。

 

最初が、ほぼ唯一、日頃、会社内で仕事の合間に、親しく話をさせて頂いていたA部長が突然、出社しなくなった事…

ハッキリした事は言えませんが、どうも噂では鬱病を発症したのだとか....

 

その後、1週間程、経った後、管理部の部長(A部長)が居なくなった事で、僕の所属する部署の部署長であるC次長が当面管理部の部署長を兼務する事になり、居なくなったA(元)部長の机が周囲の無表情な同僚たちによって淡々と奥へ片付けられていく光景が何故か、鮮明に今も僕の脳裏に焼きついています。その作業を指揮しつつ、C次長が、(A元部長を指して)

 

『馬鹿なヤツだ!』

 

…と吐き捨てた事も..,

 

…そして、次には、その後、程なくして、僕の前妻との離婚話が決着した事でした。

 

その時、僕には、まだ納得が行かない思いも少しはあったものの、彼女には、もう、愛のカケラすら残っていない上、僕の中にあったモノも単なる執着、或いは意地だけだったと自分も悟るに至り、これではお互いに不幸だろうと結論付けて、離婚届に署名捺印をしました。その時の彼女のすっきりとした笑顔は今も忘れることがありません。子どもも居なかったし、別れたかったのは彼女の意向、そして単なる性格の不一致という事で慰謝料も無し。紙切れ一枚でアッケなく終わった僕の延べ約6年間の結婚生活でした。

 

そして、それと、ほぼ同時期に、僕にはC次長を差し置いて、アメリカ出張の話が持ち上がり、その際にはアメリカ支社の面々(アメリカ人たち)との顔合わせ及び、見本市への参加、そして、アメリカのサプライヤーとの開発会議(日本のオーナー社長を交えた半ば御前会議)の通訳も拝命し、それは、ある種、のるかそるかの賭けのようにもなっていました。会社としては、ここで僕が実績を残せれば、僕を管理職に就け、C次長を外す道筋になるかとも考えていたようです。

 

その一方で、C次長も、そのミッションは、僕の経験、能力ではまだ無理だと見ていたようで、“お前がヘマをしたら、経営陣から俺まで責められる”…と、フォローするでもなく、散々に言われました。(アスペルガーの彼も、ここの強いオーナー社長には頭が上がらず、何時も顔色を伺っていたのは僕にもうかがい知る事ができました)

 

…或いは今、穿った見方をすれば、そのミッションで僕が成功しようが失敗しようが、C次長を外して行く口実が経営陣に出来たのではないかとも…

 

しかし、正直なところ、僕のほうも、その時には、メンタルはどん底で、英語力は別としても複雑な電気とか機械とかの分野の知識は、まだまだで、当時、通訳の経験も浅く、それを遂行する自信など、微塵もありませんでした。

 

…が、恐らく、これを運命の綾というのでしょうが、僕がアメリカへ入国するに当たり、‘事件’は起こったのです。



 

 

 


ランキングに参加しています。応援してくださる方は、何卒、1日1回のクリックに御協力ください。


プルメリアHPへのリンクです。




最新の画像もっと見る