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第6章 カール大帝と聖会

2018-06-24 01:57:10 | 教会史
「第6章 カール大帝と聖会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

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聖会は蛮族を改宗させてから何をしましたか

蛮族を改宗させてから、聖会はフランス王と手を携えて、その使命の達成に邁進しました。
ローマ皇帝はローマを去って都をコンスタンチノープルに移しましたので、教皇がその後を引き受け、蛮族に対してローマを防ぎ守ると共に、また貧者の救済をも担当しました。
教皇はずっと以前から信者たちの寄進により、各地に「聖ペトロの遺産」と称する広大な土地を所有していましたので、ローマ及びイタリア住民の為に、惜しげも無く、救いの手を伸ばすことができたのであります。

さて、クローヴィス王の後継者は有名無実の「ぐうたら王」となって、
一切の権力は宮宰の手に帰してしまいました。
751年、宮宰ピピンは、国王を廃して自ら王位につき、教皇ステファヌス2世の手より祝聖式を受けました。
時に、北イタリアのロンバルド王が侵略をたくましくし、ローマが脅かしましたので、ピピンは教皇の要請を容れて、兵をイタリアに出すこと2回、ロンバルド王を降して、その征服した22の都市を教皇に贈呈して、「聖ペトロの遺産」に加えました。
教皇の俗領は、ここに始まったのであります。

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それからどうなりましたか

ピピンに継いで、その子カール大帝(シャルルマーニュ)が立ちました。
ロンバルド国を滅ぼし、その王を捕えてフランスに送り、父王の贈呈した教皇領を確認したのみならず、更にこれを加増しました。

紀元800年、カールは教皇レオ3世から帝冠を加えられて、西ローマ皇帝となり、その英才を発揮して、領土を広める一方、また、広く福音を宣伝し、大に文化を進めました。
国内にはキリスト教精神にしっくりはまった法律を発布し、聖職者を助けて、各地に修道院や病院、療養所などを新設しました。
都のアーヘンには有名な学者を招いて、宮廷学校を創立し、各司教館、及び各修道院には、附属事業として必ず学校を設けさせ、後では都市村落の別なく、聖堂の傍らには、それぞれ学校を開き、民間の子弟を無料入学させました。

帝はまた、聖地の保護者となり、バグダッドのイスラム教主は、帝にキリストの御墓の鍵を贈りました。
近東地方におけるフランスの保護権は、ここに始まったのであります。

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その後聖会はどのような試練にもまれましたか

カール大帝の死後、その国はフランスとドイツとイタリアとに分かれて相争い、為に国勢が次第に衰えはてたのに乗じて、北方からはノルマン族、南の地中海放免からはサラセン人(イスラム教徒)、東からはハンガリア人が侵入して、家を焼き、財をかすめ、人を殺し、乱暴の限りを尽くしました。

聖会は彼らを改宗させて文化に導くため、以前に劣らぬ努力を重ねねばなりませんでした。

しかし、聖会の為に最も耐えがたい試練は、東教会の分離でした。
コンスタンチノープルの総司教は、東ローマ皇帝の支持をたのんで、東教会の教皇になろうとし、信徒をひきつれて、カトリック教会から離れてしまったのです。(859年と1053年)この離教は、不幸にして今日までも続いているのであります。

結び--
西ローマ皇帝の権力は全く宗教的で、教皇を助けてキリスト教を保護し、特に教皇領の防衛に当たり、キリスト教の発展、拡張、異教徒の改宗を図らねばならないのでした。

(戦いの絵は、トゥール・ポワティエの戦い)
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