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7-13-1 ロシアの歴史をさかのぼって

2023-11-13 19:59:23 | 世界史

『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
13 ロシアの歴史をさかのぼって
1 『遠い昔の物語』

 イタリア・ルネサンスの最盛期である十五世紀中葉、ベネチアの貴族で外交官のヨサファト・バルバロというものが、当時、イタリアの植民地であったターナ地方(アゾフ海沿岸)へ旅行した。
 彼はここに十六年間も住みつき、その周辺のさまざまな民俗、習慣について、見聞したところを記録した。
 死後(一五四二年)に出版された「ターナ旅行記」がそれで、そのなかにはつぎのような記述がある。
 「コロムナから旅すること三日にして、モスクワとよぶ大河に出会う。そのほとりに同名の町があり、ここにルーシの大公を名のるヨアン(イワンのビサンチンふう呼称)の屋敷がある。
 町を貫流するこの川には大小の橋がかかり、城は丘の上にあり、森林でかこまれている。
 穀物や肉類の豊富なこと、牛肉ははかりを用いず、目分量で売買されるほどなり……」と。
 これは、おそらく、西欧人にモスクワが紹介された最初であろう。
 その後まもなく、ドイツ人の一騎士でトッペルというものが、各地を放浪したあげく、ふとした偶然から、やはりこの未知の国を「発見」した。彼は帰国するとすぐ神聖ローマ皇帝に報告した。
 「ポーランドとリトワ(リトアニア)のかなたに、ルスとよぶ国があり、その領主はポーランド王よりも偉そうで、おまけに金持ちのように見うけられます……」
 これに驚いた皇帝は、トッペルを使者に仕立ててふたたびモスクワにつかわし、その領主の娘を一人養女にもらいうけ、そのかわりに、「国王」の称号をあたえようと申し入れたが、これはことわられたという。
 この「誇り高い」モスクワの領主こそ、イワン雷帝の祖父で、ロシア統一の盟主とあおがれるイワン三世(在位一四六二~一五〇五)である。
 「ロシアの古いよび名をルス(またはルーン)というが、それが本来なにを意味したかは今日でもまだはっきりしない。
 現在のロシア人は、古代末期の世界史に登場するゲルマン人とならんで、ほぼ同じころ東ヨーロッパに定着しはじめたスラブ人の子孫である。
 しかし、彼らは十世紀末までは文字をもたなかった。
 ロシア語のアルファベットは、九世紀半ばにギリシア人宣教師キリルがスラブ諸国にキリスト教を伝導する必要からはじめて、作った(当時の四十三文字のうち二十五字を古代ギリシア文字からとっている)といわれている。
 現在あるロシア語の最古の文献は十一世紀のはじめにノブゴロドで書かれた聖書である。
 いずれにせよ、文字がなかった時代のロシアの歴史はよくわからない。
 ただ、北にノブゴロド、南にキエフという二大商業都市があり、スカンジナビア半島のノルマン人(バイキング)や、ビザンティン帝国(東ローマ)とさかんな交渉をもっていたことは、アラビア人の旅行記やビザンティンの記録からもうかがえる。
 日本では源平時代がはじまる十二世紀になると、ロシアでもビザンティン式の年代記が書かれるようになったらしいが、そのほとんどが散逸、焼失して伝わらない。
 しかし、キエフのペチョールスキー修道院の僧ネストルが編集したとおぼしいものが、ただひとつ――それも原本ではなく後代の写本で――幸いにも残っている。
 その書名は『遠い昔の物語』で、これを俗に『原初年代記』ともいう。

 さて、そのなかに、ロシア建国についての二つの説話がある

 その一つは、ノブゴロドに関するもので、八六二年に、ノブゴロドに内乱が起こった。
 そこで市民たちは相談して、海のかなたのワリャーグ人(ノルマン)のもとに使いを送り、
 「『われらの地は広大であり、豊かであるが、秩序がない。来って君臨し、領せよ』と申し入れた。
 そこでリューリクという名のワリャーグ人が一族をひきいて来り、おのれの家臣たちに町々を分けあたえた」という。
 もうひとつは、キエフに関するもので、それがいつごろのことか不明(多くの学者はこのほうがまえの話よりもはるかに古いとしている)であるが、「長兄をキイとよぶ三人兄弟があり、森で獣をつかまえて暮らしていた。
 一説によると、キイはドニエプル川の渡し守であったともいう。
 彼らがつくった町がキエフである。
 その後、キイはビザンティン皇帝のもとにでかけ、そこで大いに歓待された」というのである。
 そこで、問題の「ルス」という言葉の起源であるが、『遠い昔の物語』では、これはワリャーグ人を指している。
 しかし、その後の学者の研究によると、この言葉が文献上にあらわれるのは、ワリャーグ人の時代よりはるかに古いとされる。
 すなわち、六世紀のビザンティンの記録に、ドニエプル川流域に住む種族をルスとよび、ボルガ川も古くは「ルーシ」とよばれていたと。
 また十世紀のアラビア人の旅行記では、キエフ人をルス、ノブゴロド人をスラビャーネ(スラブ人)とよんで区別していると。
 いずれにせよ、二つのちがった建国伝説が併存することから、ロシア史の黎明期(れいめいき)である九世紀ごろ、キエフとノブゴロドに二大政治中心地があったことは疑いない。
 それが統一されてルスとよぶ「古代国家」が成立するのは、『年代記』によると、二代目のノブゴロド公オレグのとき(八八二年)であった。




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