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6-2-4 明宗と馮道

2023-06-08 07:50:33 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
2 武人の天下
4 明宗と馮道(ふうどう)

 後唐の荘宗の後宮には、千人あまりの宮女がいた。
 しかし明宗は、即位するとすぐ、宮女を十分の一にへらしたばかりか、宮中のしきたりにくわしい年配のものだけを残し、若い者は後宮をさがらせた。
 新皇帝として、きびしい統治の姿勢を群臣に示したのであった。
 このころから、分権的な五代のなかで、皇帝権を強化しようとする試みがあらわれてくる。
 支配の強化といえば、それまでは私的な主従の結びつきを軸にしていた。
 しかし、それまでさかんにみられた仮父子の関係は、この明宗を最後にして姿を消してしまう。
 明宗はわずか五名ていどという小人数の仮子をおいたにすぎなかった。
 しかも、そのうち三名は鳳翔(ほうしよう)の独立勢力たる李茂貞(りもてい)の子どもたちであった。
 つまり明宗が手足として働かせるというよりも、懐柔(かいじゅう)のための処置という色あいかつよかった。
 仮父子の関係がこのように小規模となり、もはや仮父子のようなむすびつきは、主従の関係においても変形のもの、と見られてきたのである。
 皇帝権をつよめるにしても、そのような関係には頼らない、まともな方向で、新しい国づくりをめざすようになっていった。
 まず、皇帝の直属軍として、禁軍を充実することがはかられた。
 それは「侍衙(じえい)軍」とよばれ、騎兵隊と歩兵隊とから成っていた。
 禁車の整備は、明宗によって口火をきられたのである。
 禁軍をつよくして、節度使の力をよわめる。
 そうすれば藩鎮の機構に、中央からくさびを打ちこみ、その体制をじょじょに解体してゆくことができるであろう。
 さらに明宗は、節度使の幹部たる「元従(げんじゅう)」という集団に目をつけた。
 これは、節度使が転任するようなときには、いつも従ってゆく人たちである。
 だから節度使との主従のむすびつきは、もっとも固い。
 いわば節度使の勢力の中核をなすものであった。
 明宗は、この「元従」の名を中央に報告させることにしたのである。
 その名を知り、その内容をつかんで、節度使を制禦(せいぎょ)しようとはかったのであった。
 明宗は帝位についたとき、すでに六十の坂をこえ、その治世も八年間にすぎなかった。
 それでいて五代十国の君主のうち、もっとも治績をあげた一人であった。
 節度使の力をたくみにおさえて、しかも波乱をおこさず、その治世のもとにおいて、後唐の天下はおだやかであった。
 この名君をたすけたのが、宰相の馮道(ふうどう)である。
 馮道はすこぶる有能な官僚であった。文筆にすぐれ、品行も正しい。
 まだ晋王であったころの荘宗につかえ、その才能と人物をひろく認められた。
 これを知っていた明宗が、みずからの発意によって宰相に任じたのである。
 ときに即位の翌年(九二七)、馮道は四十六歳であった。
 武人あがりの老皇帝は民政について、よく馮道の意見をきいた。
 もちろん馮道は文官である。
 軍事のことには関与できない。
 しかし、そこにこそ文官たるものの役目があった。
 世は武人の天下であり、武人におさえられているものの、その限りにおいて文官は、いささかでも善政がほどこされるように、つとめるほかはなかった。
 明宗がたずねる。
 「ことしは豊作である。人民はすくわれているだろうな。」
 すると馮道はこたえる。
 「農家というものは、凶作ですと穀物の値段があがりすぎて餓死します。
 豊作ですと穀物の値段がさがりすぎて傷つきます。
 豊凶、ともにみな病(やまい)するのが、農家というものでございます。
 人主たるもの、この点よく心得ておかねばなりません。」
 こうして七年、明宗は死んだ。
 その子の閔帝(びんてい)があとをついだ。
 馮道は、依然として宰相であった。
 ところが、たちまちにして反乱がおこった。
 さきのように明帝の養子で、大きな勢力をもっていた李從珂(りじゅうか)が、兵をあげたのである。
 帝位にあること四ヵ月で、閔帝は都を追われた。
 このとき馮道は、宰相でありながら、何の動きもしめさなかった。帝位のあらそいを静観していた。
 昔孟子は「社稷(しゃしょく)は重く、君は軽い」と述べている。
 馮道にとって大事なものは、社稷(国家)である。主君は、ただ奉ずればよい。
 やがて李從珂が到着すると、ただちにこれをむかえる準備を命じた。
 そのとき、馮道は言った。
 「事はまさに実を務むべし。」
 なにごとも現実を見なければならない。現実のうごくままに、つとめてゆく。
 それが馮道の生きかたなのであった。
 こののちも馮道は、王朝がかわるたびに、新しい王朝につかえて宰相となる。
 その臣事した皇帝は、じつに十一人にもおよんだ。
 それで後世から節操がないと非難もされるのだが、武人の天下に生きぬいた官僚の典型たるべき人物ではあった。
 李従珂が皇帝となったとき、明宗のむすめをめとった河東の節度使、石敬塘(せきけいとう)が大きな勢力をもっていた。
 いきおい、この二つの勢力は対立した。
 このころ北方の契丹は、太宗のもとに民族として結集をとげ、国勢いよいよさかんで、モンゴル高原を征服し、中原に南下する機をうかがっていた。
 石敬塘は契丹に服属することによって、その援兵をうけることに成功した。





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