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6-1-3 大乱おこる

2023-06-02 00:07:08 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
1 唐の大乱の主役
3 大乱おこる

 黄河は英語の「r」の筆記体の形「」で、三度ほどするどくまがり、西から東へと流れている。
 その最後にまがるところの南には、潼関(どうかん)や函谷関(かんこくせき)があった。
 これは唐の都の長安のまもりとされていたところである。
 そこから東の地方は「関東」とよばれた。
 黄巣や王仙芝の生まれ故郷も、闇塩を売りさばいたところも、この関東の地であった。
 これまで山谷を流れてきた黄河は、この地点をすぎて、しばらくすると華北の大平野にはいって、急に流れがゆるやかになる。
 そのため二年に一度といわれるほど、昔から決壊(けっかい)と氾濫(はんらん)をくりかえしてきた。
 唐朝十八代目の皇帝たる僖宗(きそう)が、わずか十二歳で即位した(八七三)ころも、そうであった。
 おまけに洪水に見舞われたかと思えば、その翌年は雨が降らず、ひでりとなった。
 社会には不安がみなぎる。ほうっておけることではなかった。
 中央のある役人は、つぎのような意見をさしだした。
 「陛下は、はじめて政治にのぞまれようとされていますが、ふかく民のことを考えなければなりませぬ。
 国に民がいるのは、草や木に根があるようなものでございます。……
 臣のみるところによりますと、関東の一帯はたいへんな災害で、冬の麦は平年作の半分しかとれず、秋の収穫は皆無にひとしく、野菜の出来高も、いたって少ないありさまでございます。
 まずしい者は蓬(よもぎ)を臼(うす)でひいて団子(だんご)をつくり、槐(えんじゅ)の葉をたくわえて食糧にしていると申します。
 もうすこしひどくなれば、収拾できなくなりましょう。
 いつもならば、収穫のよくない土地の住民をほかに移して、なんとか急場をしのぎますが、いまはどこもかしこも飢饉(ききん)なので、それもできません。
 民は、ただ餓死するのを待つだけでございます。
 税を免除するといいましても、民から取りたてるものがありません。
 それなのに、州や県の役人は中央に税をおくるために、農民を笞(むち)で打っておどし、むりにも取りたてようとしております。
 こうして農民は、家屋をこわされて持っていかれたり、庭の木を切られたり、それでもたりないものは、妻を働きに出したり、はては子どもを売ったりするほどであります。
 しかし、こうして取りたてましても、地方の役人の酒代にかわってしまったりして、容易に国庫へは、はいってこないありさまです。
 さらに正規の税ほか、べつの取りたてがあるのでございます。
 ここで朝廷が救済策をうちださなければ、民は生きる術(すべ)がありませぬ。
 未納分がありましても、どうかこれ以上は税の取りたてをすべてやめるよう、州や県に勅令をだしていただきたい。
 また各地の国庫をひらいて、救済するようにしていただきたい。
 春もふかまってくれば、菜の葉や木の芽もでてきますし、桑(くわ)の実もみのり、農民もそれを食べて、いくらかは息をつけましょう。
 この数ヵ月間が、もっとも苦しいのでございます。
 救済を急がねばなりませぬ。」

 ひとたび飢饉におそわれたときにおちいる農民の悲惨さが、ここに語られている。
 この意見にしたがって詔(みことのり)がだされたが、かけ声だけにおわって、実行はされなかった。
 おまけに州や県の役人は、これほどの災害の実情を、中央に報告しようとはしなかった。
 まともに報告すれば、役人としての成績に影響するし、昇進に関係してくるからであった。
 飢饉なのに飢饉でないと報告したのだから、地方の役人はいつもと同じように税の取りたてをしようとした。
 そうでなければ、これまた責任を問われることになるからであった。
 こうして中央は、地方の実情をつかめない。
 宮廷はいよいよ豪奢(ごうしゃ)な生活にあけくれて、その費用も莫大(ばくだい)なものであった。
 うちつづいた飢饉でとくにいためつけられたのは、すこししか耕地を持たない自作農や、小作人であった。
 彼らは生活を破壊されても、どこにも訴えていくところはなく、流民になるほかはなかった。
 僖宗(きそう)が即位した翌年(八七四)になると、群盗が各地に蜂起(ほうき)する。
 生活を破壊された農民たちの群れであった。
 その力は、州県の兵がうちやぶられてしまうほどのものであった。
 ところで人びとが、ときの支配に激しい怒りをいだいていたにしても、まずしい農民たちは一つの村落のなかで、外部とはほとんど交渉もなく暮らしていた人たちであった。
 全般の状勢にもくらく、また蜂起は孤立的、分散的でもあった。
 それを巨大な力にまで結集したのが、黄巣(こうそう)や王仙芝(おうせんし)と、その徒党である。
 乾符(かんぷ)元年(八七四)、まず王仙芝が数千の衆をひきいて、飢饉にくるしむ関東の一角に蜂起した。
 ついで黄巣も、数千を集めて合流する。
 こうして日ごとに大きな勢力となり、数ヵ月のあいだに数万の大集団になった。
 各地の群盗や流民が、ここに結集点をみいだし、参加していったからである。
 黄巣や王仙芝や、これにしたがって闇塩の行商をしていた徒党は、ひろく各地をめぐって当時の社会状況にも通じていた。まして黄巣は、科挙の試験をうけたほどの知識人である。
 したがって、社会の状況を分析するだけの能力をもっていたであろう。

 反乱には知識分子も、多く参加していたのである。
 これらの知識分子は、貴族礼会の身分制にさえぎられて、官界への進出をはばまれた人たちであった。
 この点て、黄巣と共通する一面をもっていた。また黄巣の一族も加わっており、これらの人びとが集団の指導部を形成していた。
 したがって指導部は、仲間的にせよ、血縁によるにせよ、多かれ少なかれ、私的な関係で結ばれていた。






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