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『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
1 唐の大乱の主役
3 大乱おこる
黄河は英語の「r」の筆記体の形「」で、三度ほどするどくまがり、西から東へと流れている。
その最後にまがるところの南には、潼関(どうかん)や函谷関(かんこくせき)があった。
これは唐の都の長安のまもりとされていたところである。
そこから東の地方は「関東」とよばれた。
黄巣や王仙芝の生まれ故郷も、闇塩を売りさばいたところも、この関東の地であった。
これまで山谷を流れてきた黄河は、この地点をすぎて、しばらくすると華北の大平野にはいって、急に流れがゆるやかになる。
そのため二年に一度といわれるほど、昔から決壊(けっかい)と氾濫(はんらん)をくりかえしてきた。
唐朝十八代目の皇帝たる僖宗(きそう)が、わずか十二歳で即位した(八七三)ころも、そうであった。
おまけに洪水に見舞われたかと思えば、その翌年は雨が降らず、ひでりとなった。
社会には不安がみなぎる。ほうっておけることではなかった。
中央のある役人は、つぎのような意見をさしだした。
「陛下は、はじめて政治にのぞまれようとされていますが、ふかく民のことを考えなければなりませぬ。
国に民がいるのは、草や木に根があるようなものでございます。……
臣のみるところによりますと、関東の一帯はたいへんな災害で、冬の麦は平年作の半分しかとれず、秋の収穫は皆無にひとしく、野菜の出来高も、いたって少ないありさまでございます。
まずしい者は蓬(よもぎ)を臼(うす)でひいて団子(だんご)をつくり、槐(えんじゅ)の葉をたくわえて食糧にしていると申します。
もうすこしひどくなれば、収拾できなくなりましょう。
いつもならば、収穫のよくない土地の住民をほかに移して、なんとか急場をしのぎますが、いまはどこもかしこも飢饉(ききん)なので、それもできません。
民は、ただ餓死するのを待つだけでございます。
税を免除するといいましても、民から取りたてるものがありません。
それなのに、州や県の役人は中央に税をおくるために、農民を笞(むち)で打っておどし、むりにも取りたてようとしております。
こうして農民は、家屋をこわされて持っていかれたり、庭の木を切られたり、それでもたりないものは、妻を働きに出したり、はては子どもを売ったりするほどであります。
しかし、こうして取りたてましても、地方の役人の酒代にかわってしまったりして、容易に国庫へは、はいってこないありさまです。
さらに正規の税ほか、べつの取りたてがあるのでございます。
ここで朝廷が救済策をうちださなければ、民は生きる術(すべ)がありませぬ。
未納分がありましても、どうかこれ以上は税の取りたてをすべてやめるよう、州や県に勅令をだしていただきたい。
また各地の国庫をひらいて、救済するようにしていただきたい。
春もふかまってくれば、菜の葉や木の芽もでてきますし、桑(くわ)の実もみのり、農民もそれを食べて、いくらかは息をつけましょう。
この数ヵ月間が、もっとも苦しいのでございます。
救済を急がねばなりませぬ。」
ひとたび飢饉におそわれたときにおちいる農民の悲惨さが、ここに語られている。
この意見にしたがって詔(みことのり)がだされたが、かけ声だけにおわって、実行はされなかった。
おまけに州や県の役人は、これほどの災害の実情を、中央に報告しようとはしなかった。
まともに報告すれば、役人としての成績に影響するし、昇進に関係してくるからであった。
飢饉なのに飢饉でないと報告したのだから、地方の役人はいつもと同じように税の取りたてをしようとした。
そうでなければ、これまた責任を問われることになるからであった。
こうして中央は、地方の実情をつかめない。
宮廷はいよいよ豪奢(ごうしゃ)な生活にあけくれて、その費用も莫大(ばくだい)なものであった。
うちつづいた飢饉でとくにいためつけられたのは、すこししか耕地を持たない自作農や、小作人であった。
彼らは生活を破壊されても、どこにも訴えていくところはなく、流民になるほかはなかった。
僖宗(きそう)が即位した翌年(八七四)になると、群盗が各地に蜂起(ほうき)する。
生活を破壊された農民たちの群れであった。
その力は、州県の兵がうちやぶられてしまうほどのものであった。
ところで人びとが、ときの支配に激しい怒りをいだいていたにしても、まずしい農民たちは一つの村落のなかで、外部とはほとんど交渉もなく暮らしていた人たちであった。
全般の状勢にもくらく、また蜂起は孤立的、分散的でもあった。
それを巨大な力にまで結集したのが、黄巣(こうそう)や王仙芝(おうせんし)と、その徒党である。
乾符(かんぷ)元年(八七四)、まず王仙芝が数千の衆をひきいて、飢饉にくるしむ関東の一角に蜂起した。
ついで黄巣も、数千を集めて合流する。
こうして日ごとに大きな勢力となり、数ヵ月のあいだに数万の大集団になった。
各地の群盗や流民が、ここに結集点をみいだし、参加していったからである。
黄巣や王仙芝や、これにしたがって闇塩の行商をしていた徒党は、ひろく各地をめぐって当時の社会状況にも通じていた。まして黄巣は、科挙の試験をうけたほどの知識人である。
したがって、社会の状況を分析するだけの能力をもっていたであろう。
反乱には知識分子も、多く参加していたのである。
これらの知識分子は、貴族礼会の身分制にさえぎられて、官界への進出をはばまれた人たちであった。
この点て、黄巣と共通する一面をもっていた。また黄巣の一族も加わっており、これらの人びとが集団の指導部を形成していた。
したがって指導部は、仲間的にせよ、血縁によるにせよ、多かれ少なかれ、私的な関係で結ばれていた。
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1 唐の大乱の主役
3 大乱おこる
黄河は英語の「r」の筆記体の形「」で、三度ほどするどくまがり、西から東へと流れている。
その最後にまがるところの南には、潼関(どうかん)や函谷関(かんこくせき)があった。
これは唐の都の長安のまもりとされていたところである。
そこから東の地方は「関東」とよばれた。
黄巣や王仙芝の生まれ故郷も、闇塩を売りさばいたところも、この関東の地であった。
これまで山谷を流れてきた黄河は、この地点をすぎて、しばらくすると華北の大平野にはいって、急に流れがゆるやかになる。
そのため二年に一度といわれるほど、昔から決壊(けっかい)と氾濫(はんらん)をくりかえしてきた。
唐朝十八代目の皇帝たる僖宗(きそう)が、わずか十二歳で即位した(八七三)ころも、そうであった。
おまけに洪水に見舞われたかと思えば、その翌年は雨が降らず、ひでりとなった。
社会には不安がみなぎる。ほうっておけることではなかった。
中央のある役人は、つぎのような意見をさしだした。
「陛下は、はじめて政治にのぞまれようとされていますが、ふかく民のことを考えなければなりませぬ。
国に民がいるのは、草や木に根があるようなものでございます。……
臣のみるところによりますと、関東の一帯はたいへんな災害で、冬の麦は平年作の半分しかとれず、秋の収穫は皆無にひとしく、野菜の出来高も、いたって少ないありさまでございます。
まずしい者は蓬(よもぎ)を臼(うす)でひいて団子(だんご)をつくり、槐(えんじゅ)の葉をたくわえて食糧にしていると申します。
もうすこしひどくなれば、収拾できなくなりましょう。
いつもならば、収穫のよくない土地の住民をほかに移して、なんとか急場をしのぎますが、いまはどこもかしこも飢饉(ききん)なので、それもできません。
民は、ただ餓死するのを待つだけでございます。
税を免除するといいましても、民から取りたてるものがありません。
それなのに、州や県の役人は中央に税をおくるために、農民を笞(むち)で打っておどし、むりにも取りたてようとしております。
こうして農民は、家屋をこわされて持っていかれたり、庭の木を切られたり、それでもたりないものは、妻を働きに出したり、はては子どもを売ったりするほどであります。
しかし、こうして取りたてましても、地方の役人の酒代にかわってしまったりして、容易に国庫へは、はいってこないありさまです。
さらに正規の税ほか、べつの取りたてがあるのでございます。
ここで朝廷が救済策をうちださなければ、民は生きる術(すべ)がありませぬ。
未納分がありましても、どうかこれ以上は税の取りたてをすべてやめるよう、州や県に勅令をだしていただきたい。
また各地の国庫をひらいて、救済するようにしていただきたい。
春もふかまってくれば、菜の葉や木の芽もでてきますし、桑(くわ)の実もみのり、農民もそれを食べて、いくらかは息をつけましょう。
この数ヵ月間が、もっとも苦しいのでございます。
救済を急がねばなりませぬ。」
ひとたび飢饉におそわれたときにおちいる農民の悲惨さが、ここに語られている。
この意見にしたがって詔(みことのり)がだされたが、かけ声だけにおわって、実行はされなかった。
おまけに州や県の役人は、これほどの災害の実情を、中央に報告しようとはしなかった。
まともに報告すれば、役人としての成績に影響するし、昇進に関係してくるからであった。
飢饉なのに飢饉でないと報告したのだから、地方の役人はいつもと同じように税の取りたてをしようとした。
そうでなければ、これまた責任を問われることになるからであった。
こうして中央は、地方の実情をつかめない。
宮廷はいよいよ豪奢(ごうしゃ)な生活にあけくれて、その費用も莫大(ばくだい)なものであった。
うちつづいた飢饉でとくにいためつけられたのは、すこししか耕地を持たない自作農や、小作人であった。
彼らは生活を破壊されても、どこにも訴えていくところはなく、流民になるほかはなかった。
僖宗(きそう)が即位した翌年(八七四)になると、群盗が各地に蜂起(ほうき)する。
生活を破壊された農民たちの群れであった。
その力は、州県の兵がうちやぶられてしまうほどのものであった。
ところで人びとが、ときの支配に激しい怒りをいだいていたにしても、まずしい農民たちは一つの村落のなかで、外部とはほとんど交渉もなく暮らしていた人たちであった。
全般の状勢にもくらく、また蜂起は孤立的、分散的でもあった。
それを巨大な力にまで結集したのが、黄巣(こうそう)や王仙芝(おうせんし)と、その徒党である。
乾符(かんぷ)元年(八七四)、まず王仙芝が数千の衆をひきいて、飢饉にくるしむ関東の一角に蜂起した。
ついで黄巣も、数千を集めて合流する。
こうして日ごとに大きな勢力となり、数ヵ月のあいだに数万の大集団になった。
各地の群盗や流民が、ここに結集点をみいだし、参加していったからである。
黄巣や王仙芝や、これにしたがって闇塩の行商をしていた徒党は、ひろく各地をめぐって当時の社会状況にも通じていた。まして黄巣は、科挙の試験をうけたほどの知識人である。
したがって、社会の状況を分析するだけの能力をもっていたであろう。
反乱には知識分子も、多く参加していたのである。
これらの知識分子は、貴族礼会の身分制にさえぎられて、官界への進出をはばまれた人たちであった。
この点て、黄巣と共通する一面をもっていた。また黄巣の一族も加わっており、これらの人びとが集団の指導部を形成していた。
したがって指導部は、仲間的にせよ、血縁によるにせよ、多かれ少なかれ、私的な関係で結ばれていた。
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