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聖ベネディクト修道院長    St. Benedictus, fundator O.S.B. 

2024-07-11 00:00:05 | 聖人伝
聖ベネディクト修道院長    St. Benedictus, fundator O.S.B.   記念日 7月 11日


 大聖ベネディクトは始めて修道会戒律中に共同生活に関する規定を設けた人で、世に修道会の始祖と称せられる。もっともこれより先聖アントニオも既にエジプトで諸々に散在する山修士隠遁者等を糾合して共同的修道生活を行った例はあったが、その時はまだ規定として明文に載せた訳ではなかった。その後修道士等の生活には弛緩堕落の風が兆し、これを慨したベネディクトが一般修道生活を振粛すべくその基礎となるべき戒律を編み、自らベネディクト修道会を起こし範を垂れたのである。もちろんその大使命遂行には彼が天賦の才能手腕の外に特別な天主の聖寵が豊かに与えられたことは否まれない。

 彼は5世紀の末(480年頃)イタリア中部の田舎町ヌルシアに生まれ、小学校をおえると父の許可を得て、首都ローマに遊学する事になった。ローマは聖会本部の所在地でもあり、学問の中心地でもあるから、偉人英才も定めし多かろうと、若きベネディクトは希望に燃えつつ上京したが、居ること幾ばくもなくして早くも幻滅の悲哀を味わねばならなかった。それは学生間に怠惰享楽の気風が瀰漫し、その日頃生活にひんしゅくすべきものが数多あったからである。そこで彼はここは士君子に居るべき場所でないと思い、転じてエンフィデに行った。そこには熱心な若干の司祭達が敬虔な共同生活を営んでいたので、彼もその中に加わった。ところがある時彼の祈りによって不思議が起こり、たちまち大評判になったのを、謙遜な彼はいたく苦にし、人知れずスビアコの山奥に行って隠遁生活を始めた。彼の所在を知っているのは、唯ロマノという修道士だけでこれが時々自分の食する乏しいパンの中から幾らかを取りのけて持って来てくれる。ベネディクトはその情けのパンに養われつつ唯一人一心に祈祷と黙想にふけった。
 ある時悪魔の誘惑によって激しく邪念の起こった事がある。すると彼は衣服を脱いで荊棘の中に躍り込みあちらこちら転げ回って全身傷だらけとなり辛うじてその思いに打ち勝つことができた。その後かような誘惑に苦しめられる事は再びなかったという。ベネディクトはかかる隠遁生活を3年の間続けた。もとより人跡絶えた山中の事とて、その間聖式にあずかる機会もなければ秘蹟を授かる折りもなかった。全く孤独瞑想の中に日を送っていたのである。しかしこの頃になって彼は一人を守るという事が修道の最良の途でないと気づき、それからは無邪気な牧童等を集めて聖教の話を聞かせたりした。その内に彼の名を聞き伝えて同様な志を持つ者が次第に集まって来、その指導を仰いだから、彼もこれら兄弟の為一つの修道院を建て、自らその院長となった。すると間もなく付近のヴィコバロ修道院の院長が死去したのを機として、そこの修士等は徳望高い聖人をその後任に迎えたいとしきりに辞を低うして願い出た。ベネディクトはたっての懇望黙し難く、遂に就任を承諾したが、遺憾にもその修道院は規律乱れ頽廃の気分が濃厚であったので、彼は徹底的に改革のメスをふるおうと試みた。所がその厳格さが遊惰に馴れた修士等には疎ましかったのであろう。いつか彼等は新院長を嫌うようになったが、自分達から呼び迎えたのであるから公然排斥する訳にもいかない。そこで彼等は恐ろしくも聖人を殺害しようと謀り、昼食の折りぶどう酒の中に毒を盛ってこれを薦めた。ベネディクトはそれを飲むに先立ち、いつもの如く十字架の印をすると、たちまちその杯が石にでも当たった如く割れてしまったので、彼は一切を悟り、彼等の度し難きを嘆きつつ即日その修院を去ってスビアコに帰った。
 スビアコの修道院は日に増し隆盛に赴き、修士の数は増えるばかりであったが、そうなると又嫉む者も出て、事毎に邪魔を入れるので、ベネディクトは又もそこを去り、南の方モンテ・カッシーノ山に至りそこで修道生活を行おうと思った。モンテ・カッシーノ付近の土着民等はなお偶像教を奉じ、その山頂にも偶像が祭ってあった。聖人はこれをこぼち、代わりに洗者聖ヨハネの聖堂を建て、また別に聖マルチノの聖堂と修道院をも設けた。これは今日に至るまでなおベネディクト修道会の本部になっている。
 さてこのモンテ・カッシーノの修道院にも次第に修士が増した時、ベネディクトは一般修道会の根底となるべき戒律を作った。その戒律は始めにも述べた通り共同生活を明らかに規定し、従順を最要の徳とし、財産の私有を禁じ、生涯同一の修道院に留まるべき事、殊に典礼を重んじて聖会の教導に従うべき事を命じている。
 彼がどれほど従順の徳を重んじたか、数ある例の中から試みに一つを挙げて見よう。ある飢饉の時の話である。一司祭が彼の修道院に来て油を請うた。聖人は快くこれを許したが、食糧係の修士がもはや油もそれだけしかないので、拒んで与えなかった。すると之を聞いたベネディクトはその修士を呼びつけ、「従順の徳を破らせたような物をこの修道院におく事は出来ぬ。早速その油を容器もろとも棄ててしまいなさい」と厳しく命じたという事である。
 聖ベネディクトはまた事の真相を見抜く不思議な眼力や預言の能力をも具えていた。その実例も少なくないが、ゴート人の王トチラスの話もその一つである。トチラスは南イタリア遠征の途中聖人を訪ねようとし、わざと臣下のリッゴという者に王の装いをさせ、先に聖人に会わせた。所がベネディクトは王と対面したことがないにもかかわらず、リッゴを見るや「あなたの衣服でもないものを着ていてはなりません。早々お脱ぎなさい!」とたちまちその偽なる事を見破り、また後に来たトチラスに対しても、9年間栄えて10年目に死すべき事を預言したばかりか、「あなたも随分残酷な事をなさいましたがそういう事は早くおやめにならねばいけません」と戒めたという。歴史を見ればトチラスは聖人に会った後多少所行を慎んだようであり、またその預言通り果たして会見の十年目に死んだことが解るのである。
 ベネディクトは男子の為修道院を建て戒律を作ったばかりでなく、妹スコラスチカ及びその同志なる婦人の為にも修道の戒律を定め物質的精神的にも種々の援助を与えた。スコラスチカは兄に先立って死んだが、生前は互いに励まし合って完徳の道を辿り、彼が修道士の父となれば、これは修道女の母となって、共に慈愛の中に彼等を導いたのであった。
 ベネディクトは543年の3月21日に帰天した。その日彼は老衰の身を弟子達に支えられて祭壇の前に立ち、手を挙げて祈りつつ息を引き取ったのである。

 その後彼の創立にかかるベネディクト修道会は年をおって盛んになり、今は全世界に男子修道院170,女子修道院303を有し、修士九千人、修女一万三千人を擁している。我が国においても神奈川県殿ヶ丘にその修道院が置かれ、また韓国元山教区は同修道会の布教地で、徳源に大きい修道院がある。
 なおベネディクト会員は古来美術文化に貢献するところすこぶる多く、ある学者の如きは「地上如何なる国民も貴族も、聖ベネディクトの弟子に優って美術文化の為に尽くした者はない」と口を極めて賞賛している。



教訓

 聖ベネディクトは自ら有数の大聖人になったばかりでなく、また多くの人々を導いて同じく聖人たらしめ、その社会に与えた善き影響は計り知れぬほどであるが、そのもとは唯一つ、天主の聖旨に従う事、即ち義を求めて倦まなかった所にある。されば我等も彼に倣ってまず義を求めようではないか。








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