『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル神父編
◆2、教皇パウロ六世の演説
一九七二年一一月一五日教皇パウロ六世の演説
1「わたしたちの父よ、悪からお救いください」
現代教会にとって第一の必要は何か
この問いに対するわたしの答えをきいて、あまりにも単純すぎるとか迷信的ひげんじつおどろあくまよだとか非現実的などといって、驚かないでほしい。それは、悪魔と呼ばれている悪から守られることの必要で、これこそ第一の必要である。
わたしが、わたしの考えを説明する前に、まずあなたたちは、信仰の光に照らされ、自分の思考の目を人間生活のビジョンに開いてほしい、なぜなら、この光さえあれば、まるで天望台に登ったようになるからである。すなわち、このビジョンは、ぐんぐんひろがっていって、最深のふちまでさぐることができるからである。
じじつ、わたしたちが全面的なリアリズムをもって眺めるように招かれている場合は、ひじょうに美しい。それこそ、創造の場合、神のみ業の場面である。
創世の書(1・10以後)に、神ご自身まず、これをみて、「よしとされた」ががみとあるように、このみ業こそ、神の知恵と全能の外部的な鏡であって、その本質的な美には、神ご自身、感嘆されたのである。
ついで、わたしたちの興味をそそるのは、人類の歴史的なドラマである。
それは、あがないの歴史、キリストの歴史、わたしたちの救いの歴史で、それに、天のしめしと、予言、聖徳、超自然的段階にまで高められた生活と、永遠の約束(エフェゾ1・10)のすばらしい宝をふくむ歴史がからんでくる。
それこそ、観方によっては、魅力をおさえることのできない人生ドラマの舞台である(聖アウグスティヌスの考え)。そのすべては意味をもち、目的があり、秩序をそなえていて、一つの超越した大存在、一つの思想、一つのいのち、そして最後に一つの愛が存在することを理解させてくれる。
このために、大宇宙は、そのもっている特長と、欠けている特長もひっくるめて、さらに美しく、さらに完全な何ものかに対する魅力と魅惑をそそり、それを実現させる準備のように、わたしたちの前に展開されていくのである(コリント前2・9。13、12。ローマ8・19と23)。
じつにキリスト教的、全宇宙と生命のビジョンこそ凱旋的な程度に楽観的なのだ!このビジョンは、わたしたちの生きる喜びと感謝を正当化するので、わたしたちは、神の光栄をうたいながら、自分自身の幸福をうたうことになる(ミサの栄光の賛歌参照)。
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◆2、教皇パウロ六世の演説
一九七二年一一月一五日教皇パウロ六世の演説
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現代教会にとって第一の必要は何か
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わたしが、わたしの考えを説明する前に、まずあなたたちは、信仰の光に照らされ、自分の思考の目を人間生活のビジョンに開いてほしい、なぜなら、この光さえあれば、まるで天望台に登ったようになるからである。すなわち、このビジョンは、ぐんぐんひろがっていって、最深のふちまでさぐることができるからである。
じじつ、わたしたちが全面的なリアリズムをもって眺めるように招かれている場合は、ひじょうに美しい。それこそ、創造の場合、神のみ業の場面である。
創世の書(1・10以後)に、神ご自身まず、これをみて、「よしとされた」ががみとあるように、このみ業こそ、神の知恵と全能の外部的な鏡であって、その本質的な美には、神ご自身、感嘆されたのである。
ついで、わたしたちの興味をそそるのは、人類の歴史的なドラマである。
それは、あがないの歴史、キリストの歴史、わたしたちの救いの歴史で、それに、天のしめしと、予言、聖徳、超自然的段階にまで高められた生活と、永遠の約束(エフェゾ1・10)のすばらしい宝をふくむ歴史がからんでくる。
それこそ、観方によっては、魅力をおさえることのできない人生ドラマの舞台である(聖アウグスティヌスの考え)。そのすべては意味をもち、目的があり、秩序をそなえていて、一つの超越した大存在、一つの思想、一つのいのち、そして最後に一つの愛が存在することを理解させてくれる。
このために、大宇宙は、そのもっている特長と、欠けている特長もひっくるめて、さらに美しく、さらに完全な何ものかに対する魅力と魅惑をそそり、それを実現させる準備のように、わたしたちの前に展開されていくのである(コリント前2・9。13、12。ローマ8・19と23)。
じつにキリスト教的、全宇宙と生命のビジョンこそ凱旋的な程度に楽観的なのだ!このビジョンは、わたしたちの生きる喜びと感謝を正当化するので、わたしたちは、神の光栄をうたいながら、自分自身の幸福をうたうことになる(ミサの栄光の賛歌参照)。
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