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6-1-5 唐朝の落日

2023-06-04 05:02:04 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
1 唐の大乱の主役
5 唐朝の落日

 朱温は幼くして父に死にわかれ、母や二人の兄といっしょに、ある地主の家に住みこみで働いていた。
 やがて二十歳をこしたころ、すぐ上の兄とその家をとびだし、黄巣の軍に加わる。兄は広州攻撃のとき戦死したが、朱温はしだいに頭角をあらわし、いつのまにか指導者の一人にのしあがった。
 朱温は貧民の意識というより、うだつのあがらない生活からぬけだすため、反乱に加わったのである。
 いわば出世を反乱にかけていたといってよい。
 この朱温が、中和二年(八八二)、唐朝にくだった。僖宗は大いによろこんで、これに全忠という名をたまわった。
 よって、これから朱全忠ととなえる。
 いまや朱全忠は、反乱を打倒するための一方の大将とされ、翌年には汴(べん)州(開封)の節度使に任ぜられた。
 朱全忠の寝がえりは、「黄巣の兵、なお強し」といわれながらも、やはり反乱軍にとって痛手であった。
 つづいて、いまの山西の地に勢力をふるっていた李克用(りこくよう)も、討伐軍にくわわる。
 李克用の出身は沙陀(しゃだ)族で、トルコ系の人であった。
 それが唐朝から河東節度使に任ぜられ、この地方を支配していたのである。
 配下の全軍は黒ずくめの装束をつけ、「鴉軍(あぐん)」(カラス部隊)とよばれた。
 遊牧民の習性をたもっていて、すこぶる精鋭であった。それが唐朝のがわに立つ。
 反乱軍は、形勢ますます不利となった。
 中和三年(八八三)四月、十五万の反乱軍は、黄巣にひきいられて、整然と撒退した。
 長安を占拠すること、三年半であった。
 かわって討伐軍が入城する。掠奪と放火をほしいままにし、壮麗な唐朝の宮殿は、このとき灰燼(かいじん)に帰した。
 黄巣にとって、関東こそ蜂起の地である。
 しかし、いまや関東にも安住の場所はなかった。
 不幸にも関東はまたもや飢饉で、食糧さえ十分に手に入れることができない。
 討伐軍の追撃はいよいよはげしく、反乱軍は壊滅して、黄巣は泰山(たいざん)の谷間で自殺した。
 十年にわたった大乱は、こうして挫折(ざせつ)したのである。
 中和四年(八八四)六月のことであった。
 黄巣はその死後、講談のなかで民衆に語られただけではない。
 乱に敗れたのちも、生きていると語りつたえられていた。
 洛陽(らくよう)では僧形(そうぎょう)の黄巣をみかけたともいう。
 江南の明州(いまの寧波)にうつって、そこの山中に住み、死後には墓がたてられて、毎年まつりが行われたともいう。
 また湖南の柳州(りゅうしゅう)には、南宋のころまで黄巣廟(びょう)があったという。
 また福建では、宋代に、ある深山の地下の蔵からたくさんの宝物がみつかったが、これは黄巣がかくしておいたものだ、といわれた。
 広い地域にわたって、黄巣は民衆のなかに生きつづけたのであった。
 黄巣が死んだ翌年、僖宗は長安に帰ったが、その支配のおよぶ範囲は長安を中心に、反乱軍の影響をこうむらなかった地域に限られていた。
 もはや唐朝は、地方政権に転落してしまったのであった。
 その地域にしても、節度使となったのはおもに神策軍の武将で、貴族や官僚はほとんど見あたらない。
 そのほかの藩鎮では大乱を機会に、兵士たちが中央から派遣されてくる節度使を拒否した。
 こうして五十あまりあった藩鎮の大部分では、兵士の支持をとりつけて、反乱軍や群盗あがり、または藩鎮の将士など、さまざまの出身のものが節度使となっていった。
 なかにはろくに読み書きのできないものさえいた。
 科挙をめざす知識人は、これらの節度使につかえ、得意の筆をつかって文書づくりや藩鎮事務をとる存在となった。
 もはや藩鎮は、中央に税をおくろうとはせず、それぞれ自立の傾向をみせていた。
 世の中は大きく変わってきた。
 貴族や官僚は地方統治の座から迫いはらわれた。
 挫折(ざせつ)したとはいえ、金色の蝦蟆(がま)が目をむいたら、天下はひっくりかえったのであった。
 しかし金色の蝦蟆にしたがって、天下をひっくりかえす力を発揮した貧しい民衆は、むくいられることがなかったのである。
 新しい世の中となって、権力という果実をつかみとったのは、藩鎮の武人たちてあった。
 地方の藩鎮が、唐朝の支配をはなれて自立しつつあったとき、中央では貴族や官僚と宦官との間に、勢力あらそいがつづいていた。
 もともと宦官は宮廷の私用人であって、政治に口を出すべきものではない。
 しかし神策軍の指揮権をにぎったのちは、政治に強い発言力をもつようになっていた。
 穆宗(ぼくそう=十二代)から、僖宗のつぎの昭宗(十九代)までの八人の皇帝のうち、七人は宦官に擁立されて帝位についた。
 そのため「門生天子」などといわれたほどであった。
 科挙の試験官が座主といわれたのに対し、その合格者のことを門生という。
 つまり宦官の目がねにかなって、引きたてられた天子だ、というわけである。
 大乱ののち、中央にしかいられなくなってしまうと、かえって貴族官僚と宦官の争いは激しくなっていった。
 しかし結局はコップのなかの争いであった。
 藩鎮が自立して、唐朝の財政は極度に不如意となる。
 いまや神策軍の兵士五万四千の給与にも差しつかえると、兵士のあいたに不隠の動きがでてきた。
 神策軍の兵士とて、傭兵(ようへい)の性格をもつことにかわりはなかったのである。
 そうしたところにつけこんで、節度使が中央の政界に介入してきた。
 こうなると、中央の政局さえ、節度使によって左右されるにいたる。
 節度使のなかで、とくに力を強くしてきたのが、汴(べん)州による朱全忠と、大乱の討伐にもっとも功績のあった河東節度使の李克用であった。
 政局の焦点は、長安をふくめて、中原(ちゅうげん)といわれる地方(黄河の中~下流域)にあったが、そこが二人の実力者の対立をめぐってゆれ動いた。
 しかしなお唐朝は、しばらくつづいた。
 中央の政局に介入した節度使も、輝かしい歴史をもつ唐の帝室の権威をかりて、天下に号令しようとしたからであった。
 僖宗のあとをついた昭宗は、長安にほど近い二、三の節度使の間をたらいまわしにされたのち、最後に朱全忠の掌中に帰した。
 住みこみの雇い人、反乱軍の幹部、そして節度使と、三段とびをしてきた朱全忠は、今や皇帝の座をねらうにいたる。
 もはや朱全忠にとって、皇帝の権威に寄生しながら政治に口をだす宦官は、邪魔な存在であり、無用のものであった。
 朱全忠は宮廷をおそって、数百人の宮官を、いっきょに殺してしまった。
 それが天復三年(九〇三)のことである。
 翌年には、昭宗をも殺し、その子の哀帝を十三歳で皇帝に立てた。
 もちろん名ばかりの皇帝であった。
 さらに朱全忠は、貴族や高官に魔の手をのばしてゆく。彼らは実際の権力もないくせに、家柄と教養をほこっていた。
 昭宗を殺害した翌年(九〇五)、朱全忠はおもだった貴族や高官の三十余人を、黄河の岸に集めて、皆殺しにした。
 あげくのはてに、その屍体をことごとく黄河の濁流に投げいれた。
 「この連中は、いつも清流といっていばっているから、黄河に投じて濁流にしてしまえ。」
 側近の一人の、そういう意見にしたがったものであった。
 この側近も、黄巣とおなじく、科挙をうけて不合格となった知識分子である。
 みずからを清流(上流階級)といって自負していた貴族は、庶民を濁流とでも考えていたのであろう。
 あふれでる黄河の濁流に生活を破壊された農民に、なんら救いの手もさしのべなかった清流が、いまや濁流におし流されることになった。
 貴族は完全に没落し、庶民の出身者が権力をにぎる時代となったのである。
 これは、その象徴的な事件であった。
 それから二年後の天祐四年(九〇七)四月、朱全忠は哀帝から帝位をゆずりうけた。
 じっさいは朱全忠が力づくで、哀帝から帝位をうばったのである。

 三百年ちかくもつづいた唐朝は、ここに滅亡した。
 朱全忠は皇帝となって、国号を「梁(りょう)」と袮した。世に「後梁(こうりょう)」という。
 しかし李克用をはじめとして、各地にいる強力な節度使は、それぞれ自立への道をあゆんでいる。
 昔の唐朝のような統一は、思いもよらぬありさまであった。



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