『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
1 唐の大乱の主役
5 唐朝の落日
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/03/35f64c49952d42459af7d6b5a2f97b0e.png)
朱温は幼くして父に死にわかれ、母や二人の兄といっしょに、ある地主の家に住みこみで働いていた。
やがて二十歳をこしたころ、すぐ上の兄とその家をとびだし、黄巣の軍に加わる。兄は広州攻撃のとき戦死したが、朱温はしだいに頭角をあらわし、いつのまにか指導者の一人にのしあがった。
朱温は貧民の意識というより、うだつのあがらない生活からぬけだすため、反乱に加わったのである。
いわば出世を反乱にかけていたといってよい。
この朱温が、中和二年(八八二)、唐朝にくだった。僖宗は大いによろこんで、これに全忠という名をたまわった。
よって、これから朱全忠ととなえる。
いまや朱全忠は、反乱を打倒するための一方の大将とされ、翌年には汴(べん)州(開封)の節度使に任ぜられた。
朱全忠の寝がえりは、「黄巣の兵、なお強し」といわれながらも、やはり反乱軍にとって痛手であった。
つづいて、いまの山西の地に勢力をふるっていた李克用(りこくよう)も、討伐軍にくわわる。
李克用の出身は沙陀(しゃだ)族で、トルコ系の人であった。
それが唐朝から河東節度使に任ぜられ、この地方を支配していたのである。
配下の全軍は黒ずくめの装束をつけ、「鴉軍(あぐん)」(カラス部隊)とよばれた。
遊牧民の習性をたもっていて、すこぶる精鋭であった。それが唐朝のがわに立つ。
反乱軍は、形勢ますます不利となった。
中和三年(八八三)四月、十五万の反乱軍は、黄巣にひきいられて、整然と撒退した。
長安を占拠すること、三年半であった。
かわって討伐軍が入城する。掠奪と放火をほしいままにし、壮麗な唐朝の宮殿は、このとき灰燼(かいじん)に帰した。
黄巣にとって、関東こそ蜂起の地である。
しかし、いまや関東にも安住の場所はなかった。
不幸にも関東はまたもや飢饉で、食糧さえ十分に手に入れることができない。
討伐軍の追撃はいよいよはげしく、反乱軍は壊滅して、黄巣は泰山(たいざん)の谷間で自殺した。
十年にわたった大乱は、こうして挫折(ざせつ)したのである。
中和四年(八八四)六月のことであった。
黄巣はその死後、講談のなかで民衆に語られただけではない。
乱に敗れたのちも、生きていると語りつたえられていた。
洛陽(らくよう)では僧形(そうぎょう)の黄巣をみかけたともいう。
江南の明州(いまの寧波)にうつって、そこの山中に住み、死後には墓がたてられて、毎年まつりが行われたともいう。
また湖南の柳州(りゅうしゅう)には、南宋のころまで黄巣廟(びょう)があったという。
また福建では、宋代に、ある深山の地下の蔵からたくさんの宝物がみつかったが、これは黄巣がかくしておいたものだ、といわれた。
広い地域にわたって、黄巣は民衆のなかに生きつづけたのであった。
黄巣が死んだ翌年、僖宗は長安に帰ったが、その支配のおよぶ範囲は長安を中心に、反乱軍の影響をこうむらなかった地域に限られていた。
もはや唐朝は、地方政権に転落してしまったのであった。
その地域にしても、節度使となったのはおもに神策軍の武将で、貴族や官僚はほとんど見あたらない。
そのほかの藩鎮では大乱を機会に、兵士たちが中央から派遣されてくる節度使を拒否した。
こうして五十あまりあった藩鎮の大部分では、兵士の支持をとりつけて、反乱軍や群盗あがり、または藩鎮の将士など、さまざまの出身のものが節度使となっていった。
なかにはろくに読み書きのできないものさえいた。
科挙をめざす知識人は、これらの節度使につかえ、得意の筆をつかって文書づくりや藩鎮事務をとる存在となった。
もはや藩鎮は、中央に税をおくろうとはせず、それぞれ自立の傾向をみせていた。
世の中は大きく変わってきた。
貴族や官僚は地方統治の座から迫いはらわれた。
挫折(ざせつ)したとはいえ、金色の蝦蟆(がま)が目をむいたら、天下はひっくりかえったのであった。
しかし金色の蝦蟆にしたがって、天下をひっくりかえす力を発揮した貧しい民衆は、むくいられることがなかったのである。
新しい世の中となって、権力という果実をつかみとったのは、藩鎮の武人たちてあった。
地方の藩鎮が、唐朝の支配をはなれて自立しつつあったとき、中央では貴族や官僚と宦官との間に、勢力あらそいがつづいていた。
もともと宦官は宮廷の私用人であって、政治に口を出すべきものではない。
しかし神策軍の指揮権をにぎったのちは、政治に強い発言力をもつようになっていた。
穆宗(ぼくそう=十二代)から、僖宗のつぎの昭宗(十九代)までの八人の皇帝のうち、七人は宦官に擁立されて帝位についた。
そのため「門生天子」などといわれたほどであった。
科挙の試験官が座主といわれたのに対し、その合格者のことを門生という。
つまり宦官の目がねにかなって、引きたてられた天子だ、というわけである。
大乱ののち、中央にしかいられなくなってしまうと、かえって貴族官僚と宦官の争いは激しくなっていった。
しかし結局はコップのなかの争いであった。
藩鎮が自立して、唐朝の財政は極度に不如意となる。
いまや神策軍の兵士五万四千の給与にも差しつかえると、兵士のあいたに不隠の動きがでてきた。
神策軍の兵士とて、傭兵(ようへい)の性格をもつことにかわりはなかったのである。
そうしたところにつけこんで、節度使が中央の政界に介入してきた。
こうなると、中央の政局さえ、節度使によって左右されるにいたる。
節度使のなかで、とくに力を強くしてきたのが、汴(べん)州による朱全忠と、大乱の討伐にもっとも功績のあった河東節度使の李克用であった。
政局の焦点は、長安をふくめて、中原(ちゅうげん)といわれる地方(黄河の中~下流域)にあったが、そこが二人の実力者の対立をめぐってゆれ動いた。
しかしなお唐朝は、しばらくつづいた。
中央の政局に介入した節度使も、輝かしい歴史をもつ唐の帝室の権威をかりて、天下に号令しようとしたからであった。
僖宗のあとをついた昭宗は、長安にほど近い二、三の節度使の間をたらいまわしにされたのち、最後に朱全忠の掌中に帰した。
住みこみの雇い人、反乱軍の幹部、そして節度使と、三段とびをしてきた朱全忠は、今や皇帝の座をねらうにいたる。
もはや朱全忠にとって、皇帝の権威に寄生しながら政治に口をだす宦官は、邪魔な存在であり、無用のものであった。
朱全忠は宮廷をおそって、数百人の宮官を、いっきょに殺してしまった。
それが天復三年(九〇三)のことである。
翌年には、昭宗をも殺し、その子の哀帝を十三歳で皇帝に立てた。
もちろん名ばかりの皇帝であった。
さらに朱全忠は、貴族や高官に魔の手をのばしてゆく。彼らは実際の権力もないくせに、家柄と教養をほこっていた。
昭宗を殺害した翌年(九〇五)、朱全忠はおもだった貴族や高官の三十余人を、黄河の岸に集めて、皆殺しにした。
あげくのはてに、その屍体をことごとく黄河の濁流に投げいれた。
「この連中は、いつも清流といっていばっているから、黄河に投じて濁流にしてしまえ。」
側近の一人の、そういう意見にしたがったものであった。
この側近も、黄巣とおなじく、科挙をうけて不合格となった知識分子である。
みずからを清流(上流階級)といって自負していた貴族は、庶民を濁流とでも考えていたのであろう。
あふれでる黄河の濁流に生活を破壊された農民に、なんら救いの手もさしのべなかった清流が、いまや濁流におし流されることになった。
貴族は完全に没落し、庶民の出身者が権力をにぎる時代となったのである。
これは、その象徴的な事件であった。
それから二年後の天祐四年(九〇七)四月、朱全忠は哀帝から帝位をゆずりうけた。
じっさいは朱全忠が力づくで、哀帝から帝位をうばったのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/c1/c392a9fe781dcbea716ece6160394cc9.png)
三百年ちかくもつづいた唐朝は、ここに滅亡した。
朱全忠は皇帝となって、国号を「梁(りょう)」と袮した。世に「後梁(こうりょう)」という。
しかし李克用をはじめとして、各地にいる強力な節度使は、それぞれ自立への道をあゆんでいる。
昔の唐朝のような統一は、思いもよらぬありさまであった。
1 唐の大乱の主役
5 唐朝の落日
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朱温は幼くして父に死にわかれ、母や二人の兄といっしょに、ある地主の家に住みこみで働いていた。
やがて二十歳をこしたころ、すぐ上の兄とその家をとびだし、黄巣の軍に加わる。兄は広州攻撃のとき戦死したが、朱温はしだいに頭角をあらわし、いつのまにか指導者の一人にのしあがった。
朱温は貧民の意識というより、うだつのあがらない生活からぬけだすため、反乱に加わったのである。
いわば出世を反乱にかけていたといってよい。
この朱温が、中和二年(八八二)、唐朝にくだった。僖宗は大いによろこんで、これに全忠という名をたまわった。
よって、これから朱全忠ととなえる。
いまや朱全忠は、反乱を打倒するための一方の大将とされ、翌年には汴(べん)州(開封)の節度使に任ぜられた。
朱全忠の寝がえりは、「黄巣の兵、なお強し」といわれながらも、やはり反乱軍にとって痛手であった。
つづいて、いまの山西の地に勢力をふるっていた李克用(りこくよう)も、討伐軍にくわわる。
李克用の出身は沙陀(しゃだ)族で、トルコ系の人であった。
それが唐朝から河東節度使に任ぜられ、この地方を支配していたのである。
配下の全軍は黒ずくめの装束をつけ、「鴉軍(あぐん)」(カラス部隊)とよばれた。
遊牧民の習性をたもっていて、すこぶる精鋭であった。それが唐朝のがわに立つ。
反乱軍は、形勢ますます不利となった。
中和三年(八八三)四月、十五万の反乱軍は、黄巣にひきいられて、整然と撒退した。
長安を占拠すること、三年半であった。
かわって討伐軍が入城する。掠奪と放火をほしいままにし、壮麗な唐朝の宮殿は、このとき灰燼(かいじん)に帰した。
黄巣にとって、関東こそ蜂起の地である。
しかし、いまや関東にも安住の場所はなかった。
不幸にも関東はまたもや飢饉で、食糧さえ十分に手に入れることができない。
討伐軍の追撃はいよいよはげしく、反乱軍は壊滅して、黄巣は泰山(たいざん)の谷間で自殺した。
十年にわたった大乱は、こうして挫折(ざせつ)したのである。
中和四年(八八四)六月のことであった。
黄巣はその死後、講談のなかで民衆に語られただけではない。
乱に敗れたのちも、生きていると語りつたえられていた。
洛陽(らくよう)では僧形(そうぎょう)の黄巣をみかけたともいう。
江南の明州(いまの寧波)にうつって、そこの山中に住み、死後には墓がたてられて、毎年まつりが行われたともいう。
また湖南の柳州(りゅうしゅう)には、南宋のころまで黄巣廟(びょう)があったという。
また福建では、宋代に、ある深山の地下の蔵からたくさんの宝物がみつかったが、これは黄巣がかくしておいたものだ、といわれた。
広い地域にわたって、黄巣は民衆のなかに生きつづけたのであった。
黄巣が死んだ翌年、僖宗は長安に帰ったが、その支配のおよぶ範囲は長安を中心に、反乱軍の影響をこうむらなかった地域に限られていた。
もはや唐朝は、地方政権に転落してしまったのであった。
その地域にしても、節度使となったのはおもに神策軍の武将で、貴族や官僚はほとんど見あたらない。
そのほかの藩鎮では大乱を機会に、兵士たちが中央から派遣されてくる節度使を拒否した。
こうして五十あまりあった藩鎮の大部分では、兵士の支持をとりつけて、反乱軍や群盗あがり、または藩鎮の将士など、さまざまの出身のものが節度使となっていった。
なかにはろくに読み書きのできないものさえいた。
科挙をめざす知識人は、これらの節度使につかえ、得意の筆をつかって文書づくりや藩鎮事務をとる存在となった。
もはや藩鎮は、中央に税をおくろうとはせず、それぞれ自立の傾向をみせていた。
世の中は大きく変わってきた。
貴族や官僚は地方統治の座から迫いはらわれた。
挫折(ざせつ)したとはいえ、金色の蝦蟆(がま)が目をむいたら、天下はひっくりかえったのであった。
しかし金色の蝦蟆にしたがって、天下をひっくりかえす力を発揮した貧しい民衆は、むくいられることがなかったのである。
新しい世の中となって、権力という果実をつかみとったのは、藩鎮の武人たちてあった。
地方の藩鎮が、唐朝の支配をはなれて自立しつつあったとき、中央では貴族や官僚と宦官との間に、勢力あらそいがつづいていた。
もともと宦官は宮廷の私用人であって、政治に口を出すべきものではない。
しかし神策軍の指揮権をにぎったのちは、政治に強い発言力をもつようになっていた。
穆宗(ぼくそう=十二代)から、僖宗のつぎの昭宗(十九代)までの八人の皇帝のうち、七人は宦官に擁立されて帝位についた。
そのため「門生天子」などといわれたほどであった。
科挙の試験官が座主といわれたのに対し、その合格者のことを門生という。
つまり宦官の目がねにかなって、引きたてられた天子だ、というわけである。
大乱ののち、中央にしかいられなくなってしまうと、かえって貴族官僚と宦官の争いは激しくなっていった。
しかし結局はコップのなかの争いであった。
藩鎮が自立して、唐朝の財政は極度に不如意となる。
いまや神策軍の兵士五万四千の給与にも差しつかえると、兵士のあいたに不隠の動きがでてきた。
神策軍の兵士とて、傭兵(ようへい)の性格をもつことにかわりはなかったのである。
そうしたところにつけこんで、節度使が中央の政界に介入してきた。
こうなると、中央の政局さえ、節度使によって左右されるにいたる。
節度使のなかで、とくに力を強くしてきたのが、汴(べん)州による朱全忠と、大乱の討伐にもっとも功績のあった河東節度使の李克用であった。
政局の焦点は、長安をふくめて、中原(ちゅうげん)といわれる地方(黄河の中~下流域)にあったが、そこが二人の実力者の対立をめぐってゆれ動いた。
しかしなお唐朝は、しばらくつづいた。
中央の政局に介入した節度使も、輝かしい歴史をもつ唐の帝室の権威をかりて、天下に号令しようとしたからであった。
僖宗のあとをついた昭宗は、長安にほど近い二、三の節度使の間をたらいまわしにされたのち、最後に朱全忠の掌中に帰した。
住みこみの雇い人、反乱軍の幹部、そして節度使と、三段とびをしてきた朱全忠は、今や皇帝の座をねらうにいたる。
もはや朱全忠にとって、皇帝の権威に寄生しながら政治に口をだす宦官は、邪魔な存在であり、無用のものであった。
朱全忠は宮廷をおそって、数百人の宮官を、いっきょに殺してしまった。
それが天復三年(九〇三)のことである。
翌年には、昭宗をも殺し、その子の哀帝を十三歳で皇帝に立てた。
もちろん名ばかりの皇帝であった。
さらに朱全忠は、貴族や高官に魔の手をのばしてゆく。彼らは実際の権力もないくせに、家柄と教養をほこっていた。
昭宗を殺害した翌年(九〇五)、朱全忠はおもだった貴族や高官の三十余人を、黄河の岸に集めて、皆殺しにした。
あげくのはてに、その屍体をことごとく黄河の濁流に投げいれた。
「この連中は、いつも清流といっていばっているから、黄河に投じて濁流にしてしまえ。」
側近の一人の、そういう意見にしたがったものであった。
この側近も、黄巣とおなじく、科挙をうけて不合格となった知識分子である。
みずからを清流(上流階級)といって自負していた貴族は、庶民を濁流とでも考えていたのであろう。
あふれでる黄河の濁流に生活を破壊された農民に、なんら救いの手もさしのべなかった清流が、いまや濁流におし流されることになった。
貴族は完全に没落し、庶民の出身者が権力をにぎる時代となったのである。
これは、その象徴的な事件であった。
それから二年後の天祐四年(九〇七)四月、朱全忠は哀帝から帝位をゆずりうけた。
じっさいは朱全忠が力づくで、哀帝から帝位をうばったのである。
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三百年ちかくもつづいた唐朝は、ここに滅亡した。
朱全忠は皇帝となって、国号を「梁(りょう)」と袮した。世に「後梁(こうりょう)」という。
しかし李克用をはじめとして、各地にいる強力な節度使は、それぞれ自立への道をあゆんでいる。
昔の唐朝のような統一は、思いもよらぬありさまであった。
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