『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
2 武人の天下
3 節度使の力
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/ec/365e418683a955657c9340a5b9192ff6.png)
皇帝や王を袮した者にしても、一般の節度使にしても、何よりも求めなければならなかったものは、兵力であった。
募兵だけでは、まにあわない場合も出てくる。
唐代の中期に、民衆の抵抗によって廃止されたはずの徴兵が、ふたたび実施されたりもした。
いまの北京にあたる幽(ゆう)州を中心に、勢力をふるったのが、劉仁恭である。
そこでは領内の十五歳から七十歳までの男子すべてを徴兵し、そのため村には男子の姿はみられなくなった、と記録ざれている。
そのうえ徴兵した二十万人の兵士に強制して、「定覇都(ていはと)」という三字を顔に入墨(いれずみ)した。
定覇都とは、羂権を決定づける部隊ということである。
入墨したのは、逃亡をふせぎ、たとえ逃亡してもすぐ見つけだせるためであった。
また支配層にも、一心に主君に仕えるという意味の「一心事主」の四字を入墨した。
これは人目につかないように、腕にした。
入墨の場所にしても、役人などの支配層と民衆とでは区別したのであった。
兵士の入墨といえば、朱令忠も強制して逃亡をふせいでいる。
しかし一般に節度使の軍団兵は、待遇に敏感な傭兵であった。
そこで節度使は、この点をいつも考慮しておかなければならなかったのである。
後唐の明宗が「死んだのち、その子の閔(びん)帝があとをついだが、明宗の養子で鳳翔(長安の西)の節度使であった李從珂(じょうか)が、帝位をねらって兵をあげた。
そのとき、成功のあかつきには兵士に厚い褒賞をあたえることを約束した。
しかし、帝位について、褒賞が約束より下まわった。兵士たちは言った。
「菩薩(ぼさつ)をのぞき、一条の鉄(てつ)をたすけた。」
殺された閔帝の幼名が、小菩薩であった。一条の鉄とは、李從珂をさしている。
我々の功績を認めよ、というのであり、この謡言(ようげん)には褒賞に不満な兵士たちの、李従珂に対する示威がふくまれていた。
こういう次第であったから、節度使は兵士たちの待遇をよくしないわけにはいかない。
都合のよいことに、節度使は徴税など、大幅の権限をもっていた。
そこで領民からはげしい取りたてをする。
兵士たちの待遇をよくするばかりでなく、同時に私腹をも肥やした。
貪欲(どんよく)な節度使の例は数えきれないほどである。
趙在礼(ちょうざいれい)は、後唐から後晋にかけて、十あまりの節度使を歴任したが、不法の収奪がはげしかった。
これに苦しめられた領民が、ほかに転任ときまったとき、大いによろこんで「眼中の釘がぬける思いだ」と言い合った。
これを耳にした趙在礼は激怒し、さらに一年、その藩鎮に留任することを中央に願いでた。
ゆるされると、「抜釘銭(ばっていせん)」と名づけてすべての人から一千文ずつを取りたて、自分のふところに入れている。
また劉銖(りゅうしゅ)という節度使は、国法をまもらず、かってに刑罰を加えていた。
役人と民間人とをとわず、すこしでも過失があると、しばって押したおしたまま数百歩をひきずる、という刑を加えた。
笞(むち)で打つときは、刑の執行人に二本の笞をもたせ、これを、喜びが二倍になるというので、「合歓杖(ごうかんじょう)」とよんだ。
さらに受刑者の年齢だけ打ちすえては「随年杖(ずいねんじょう)」といった。
その一方で私腹を肥やし、そのころきわめて高価だった塩を、数棟の倉庫にたくわえていた。
やがて、あまりの悪政のために中央に呼びもどされることになった。
いざ離任の日がくると、この塩に糞などをまぜて井戸に投げこみ、表面を平らにして、わからないようにしてしまった。
都にも持ちかえれず、といって後任者の手にわたったり、中央に没収されてしまうのがしゃくで、こうしたのであった。
また乞食からも税を取りたてる者がいた。
死んだ家族を城外の墓地に埋葬しようとすると、通過税を払わなければ城門を通さない人物もいた。
節度使はひとつの藩鎮に、平均すれば三年前後の短い期間しか在任しない。
そこで在地にしっかり根をおろす統治姿勢に欠けていた。
しかも大幅の権限をもっていたから、これをフルに活用し、また武力にものをいわせて、できるだけ私腹を肥やそうとしたのであった。
いってみれば、食い逃げ的な統治をしがちであった。
それにしても節度使は、つよい権力をにぎっていた。
その権力の基盤となったのは、牙軍(がぐん)とよばれた傭兵的な軍団である。
節度使は牙軍の幹部に、自分と主従関係をむすんでいる武人を任じて、軍事力を掌握した。
また徴税や治安など、領内を統治するについての重要な役目をもたせていった。
唐代とちがって、地方の統治権をにぎるのは、貴族や文官ではない。
節度使と私的にむすばれた武人たちであった。
領内の商業や交通や、さらに軍事における要地には、小部隊をひきいた「鎮将(ちんしょう)」というものがおかれ、これが、領民を支配する末端の機関となった。
文官の県令(県の長官)は存在はしたが、もはや統治の実権を失ってしまい、県令といえば、権力なき無能者の代名詞にさえなっていた。
また州(県の上の行政区画)の長官たる刺史(しし)の地位からも文官は追放されて、武人にかわられてしまった。
このようにして節度使は、自分の領内を武力でかため、しかも要所には私的な関係をむすんだ部下を配していったのである。
そして私的なむすびつきのうち、もっとも強いものが血縁によるものであり、血縁のない有力な部下とは、仮父子という特殊な関係をつくったのであった。
2 武人の天下
3 節度使の力
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皇帝や王を袮した者にしても、一般の節度使にしても、何よりも求めなければならなかったものは、兵力であった。
募兵だけでは、まにあわない場合も出てくる。
唐代の中期に、民衆の抵抗によって廃止されたはずの徴兵が、ふたたび実施されたりもした。
いまの北京にあたる幽(ゆう)州を中心に、勢力をふるったのが、劉仁恭である。
そこでは領内の十五歳から七十歳までの男子すべてを徴兵し、そのため村には男子の姿はみられなくなった、と記録ざれている。
そのうえ徴兵した二十万人の兵士に強制して、「定覇都(ていはと)」という三字を顔に入墨(いれずみ)した。
定覇都とは、羂権を決定づける部隊ということである。
入墨したのは、逃亡をふせぎ、たとえ逃亡してもすぐ見つけだせるためであった。
また支配層にも、一心に主君に仕えるという意味の「一心事主」の四字を入墨した。
これは人目につかないように、腕にした。
入墨の場所にしても、役人などの支配層と民衆とでは区別したのであった。
兵士の入墨といえば、朱令忠も強制して逃亡をふせいでいる。
しかし一般に節度使の軍団兵は、待遇に敏感な傭兵であった。
そこで節度使は、この点をいつも考慮しておかなければならなかったのである。
後唐の明宗が「死んだのち、その子の閔(びん)帝があとをついだが、明宗の養子で鳳翔(長安の西)の節度使であった李從珂(じょうか)が、帝位をねらって兵をあげた。
そのとき、成功のあかつきには兵士に厚い褒賞をあたえることを約束した。
しかし、帝位について、褒賞が約束より下まわった。兵士たちは言った。
「菩薩(ぼさつ)をのぞき、一条の鉄(てつ)をたすけた。」
殺された閔帝の幼名が、小菩薩であった。一条の鉄とは、李從珂をさしている。
我々の功績を認めよ、というのであり、この謡言(ようげん)には褒賞に不満な兵士たちの、李従珂に対する示威がふくまれていた。
こういう次第であったから、節度使は兵士たちの待遇をよくしないわけにはいかない。
都合のよいことに、節度使は徴税など、大幅の権限をもっていた。
そこで領民からはげしい取りたてをする。
兵士たちの待遇をよくするばかりでなく、同時に私腹をも肥やした。
貪欲(どんよく)な節度使の例は数えきれないほどである。
趙在礼(ちょうざいれい)は、後唐から後晋にかけて、十あまりの節度使を歴任したが、不法の収奪がはげしかった。
これに苦しめられた領民が、ほかに転任ときまったとき、大いによろこんで「眼中の釘がぬける思いだ」と言い合った。
これを耳にした趙在礼は激怒し、さらに一年、その藩鎮に留任することを中央に願いでた。
ゆるされると、「抜釘銭(ばっていせん)」と名づけてすべての人から一千文ずつを取りたて、自分のふところに入れている。
また劉銖(りゅうしゅ)という節度使は、国法をまもらず、かってに刑罰を加えていた。
役人と民間人とをとわず、すこしでも過失があると、しばって押したおしたまま数百歩をひきずる、という刑を加えた。
笞(むち)で打つときは、刑の執行人に二本の笞をもたせ、これを、喜びが二倍になるというので、「合歓杖(ごうかんじょう)」とよんだ。
さらに受刑者の年齢だけ打ちすえては「随年杖(ずいねんじょう)」といった。
その一方で私腹を肥やし、そのころきわめて高価だった塩を、数棟の倉庫にたくわえていた。
やがて、あまりの悪政のために中央に呼びもどされることになった。
いざ離任の日がくると、この塩に糞などをまぜて井戸に投げこみ、表面を平らにして、わからないようにしてしまった。
都にも持ちかえれず、といって後任者の手にわたったり、中央に没収されてしまうのがしゃくで、こうしたのであった。
また乞食からも税を取りたてる者がいた。
死んだ家族を城外の墓地に埋葬しようとすると、通過税を払わなければ城門を通さない人物もいた。
節度使はひとつの藩鎮に、平均すれば三年前後の短い期間しか在任しない。
そこで在地にしっかり根をおろす統治姿勢に欠けていた。
しかも大幅の権限をもっていたから、これをフルに活用し、また武力にものをいわせて、できるだけ私腹を肥やそうとしたのであった。
いってみれば、食い逃げ的な統治をしがちであった。
それにしても節度使は、つよい権力をにぎっていた。
その権力の基盤となったのは、牙軍(がぐん)とよばれた傭兵的な軍団である。
節度使は牙軍の幹部に、自分と主従関係をむすんでいる武人を任じて、軍事力を掌握した。
また徴税や治安など、領内を統治するについての重要な役目をもたせていった。
唐代とちがって、地方の統治権をにぎるのは、貴族や文官ではない。
節度使と私的にむすばれた武人たちであった。
領内の商業や交通や、さらに軍事における要地には、小部隊をひきいた「鎮将(ちんしょう)」というものがおかれ、これが、領民を支配する末端の機関となった。
文官の県令(県の長官)は存在はしたが、もはや統治の実権を失ってしまい、県令といえば、権力なき無能者の代名詞にさえなっていた。
また州(県の上の行政区画)の長官たる刺史(しし)の地位からも文官は追放されて、武人にかわられてしまった。
このようにして節度使は、自分の領内を武力でかため、しかも要所には私的な関係をむすんだ部下を配していったのである。
そして私的なむすびつきのうち、もっとも強いものが血縁によるものであり、血縁のない有力な部下とは、仮父子という特殊な関係をつくったのであった。
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