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8-3 甘粛(かんしゅく)の文化

2017-06-23 09:40:58 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

8-3 甘粛(かんしゅく)の文化

 アンダーソンは、彩文土器が西方から伝えがれたものと考えた。
 とすれば、のちの「絹の道(シルク・ロード)」と同じように、天山山脈の南側をとおって、もたらされたのであろう。
 そこから東のかた、中国へむかって進めば、甘粛省の蘭州のあたりで黄河をわたることになる。
 こういう想定のもとにアンダーソンは、彩文土器の源流をもとめて、一九二二年の春、甘粛への旅行をおこなった。
 蘭州へは六月の下旬に着いた。
 しかし西安から蘭州へいたるまでのあいだ、黄土の谷川の崖に注意をおこたらなかったにもかかわらず、先史時代の遺物は、何ひとつ見つけだすことができなかった。
 つぎの目標は、西北方にある青海(ココ・ノール)である。蘭州から黄河をわたり、さらに支流の西寧河をさかのぼって、一行は青海にむかった。
 七月なかば、西寧のちかくの崖壁から、彩文土器の断片が発見された。

 そこにとどまって発掘すること一週間、土器ばかりでなく、石器や骨器もほりだされた。
 土器の断片は無数にあった。しかもヤンシャオ式のものであった。
 ヤンシャオ文化は、たしかに青海の地方までひろがっていたことが、ここに認められた。
 そうして七月の末、ついに青海に達した。その周辺でもヤンシャオ式土器の断片が見つかった。
 しかし、この旅行における最大の収穫は、帰途にあったのである。
 それは西寧河の北岸にある朱家寨(チュージャツアイ)の遺跡の発見であった。
 朱家寨の遺跡は、南北九〇〇メートル、東西五〇〇メートルの範囲にひろがっている。
 その広さはヤンシャオをしのぐけれども、文化層の密度という点ではおよばない。
 竪穴住居の展開もまばらであった。
 しかし、ここにもヤンシャオと同じ時期の文化が発達していたことは、いうまでもない。
 さらに朱家寨では、墓のあとも発見された。
 墓からは四十三体もの人骨と、さまざまの副葬品まで出土した。
 ヤンシャオ文化をつくった人々の遺骸が、見つけだされたのである。
 この人骨を検討すれば、ヤンシャオ文化をになった人々が、どういう系統に属していたかも、解明されるであろう。
 蘭州までもどって、アンダーソンは一九二二年の冬をすごした。
 ところが、ここでアンダーソンは、すばらしい彩文土器の壺を見せられたのである。
 それは甘粛省の地方官の所蔵とのことであった。出所はわからない。
 所藏者にかけあって、まず五個の壺をえたアンダーソンは、さらに古物商をたずねまわった。
 この種の壺が売れると知るや、古物商たちは争ってあつめ、アンダーソンのもとに持ちこんできた。
 翌二三年の春になると、宿の門前には連日のように、壺をかかえた人たちの列が立ちならんだ。
 こうなっては資力もつづかない。
 アンダーソンは中国人の助手に金をわたし、壺の出所をつきとめてくるように命じた。
 数日たって、助手は蘭州の南方、洮河(とうが)のほとりに壺を出土する墓のあることを報告した。
 まさしく、あたらしい遺跡の発見である。二三年四月の末、アンダーソンは洮河にむかった。
 まず調査したのは、シンティエン(辛店)の遺跡である。
 そこではヤンシャオ期の遺物のほか青銅器時代に属する墓地が発見された。
 つまり、はじめヤンシャオ期の人々がをつくり、ずっと後代になって、青銅器をもちいるようになった人々が、ふたたび住みついたというわけである。

 一行は遺跡ちかくのに宿営地をみつけ、この地域の調査のために腰をすえた。
 一九二四年の春から夏にかけては、パンシャン(半山)遺跡の調査にあたった。
 そこは谷川にそった台地のうえに、幅せまく、東西は三五〇メートルにわたって、住居址が展開していた。
 おびただしい量の彩文土器や、石器、骨角器の類が出土したが、いずれもヤンシャオ期のものであった。
 その数量と種類は、むしろヤンシャオ村のそれを上まわった。
 さらに大きな収穫は、住居址とはなれて、はるかに高い丘の上に、大きな墓地群を発見したことであった。
 そこは海抜二二〇〇メートルにも達する高地である。
 墓地は、たしかに存在したが、無残に盗掘されていた。
 掘りかえされた土のなかには、彩文土器のかけらが散乱していた。
 住民たちが墓をあばいて、副葬品の壺を蘭州へはこんだことは明らかであった。
 墓地は五ヵ所にわかれ、全体では数百に達する墓が、眺望の見事な高地にならんでいるが、そのことごとくが破壊されていた。

 石器時代に洮河(とうが)の流域に住んでいた人々は、死者たちをから四〇〇メートルもの高さにある山頂へ、けわしく長い道のりを、あえぎながら、かつぎあげたのであろう。
 それぞれの墓の主たちは、美しい土器をささげられ、人生の旅路の果てに到達した絶景の地に、この年まで数千年の安らかな眠りをつづけてきたのであった。
 けんめいの調査によって、アンダーソンはようやく一個の完全な墓をみつけた。
 見事な彩文土器がぞくぞくと出土し、底部には遺体もぶじに横たわっていた。
 このようにして洮河のほとりでは、いくつもの住居址と、それから墓地の調査をおこない、さらに住民からは多数の石器や土器を買いもとめることができたのである。
 そうして、このたびの旅行でえた人骨を、のちにブラックが研究した結果は、いまの中国人の祖型ともいうべきものとされた。
 これをブラックは「プロト・チャイニーズ(Proto-Chinese:原中国人)」と名づけたのである。
 つまりヤンシャオ文化をになった人々は、中国人の祖先と見なされた。
 なおアンダーソンは、やはり洮河の流域にあるチージャピン(斉家坪)の遺跡において、彩文土器とはちがった形式の土器を発見した。
 それは薄手で、全体が赤味をおび、彩色はほどこされていないが、きわめて優雅であった。
 これをアンダーソンは、ヤンシャオ期に先行するものと考えた。
 そして中国の土器による編年を立てるにさいし、最初にチージャ期をおいて、前三〇〇〇年代の末期とし、つづいてヤンシャオ期が前二〇〇〇年代の前半、そしてシンティエン期は青銅器時代の初期として、前二〇〇〇年ごろと設定したのである。
 しかし、アンダーソンの編年のうち、チージャ期をもっとも原始的とみたのは、誤りであった。
 のちに発掘が各地ですすめられるにおよんで、この種の土器はむしろ彩文土器のあとにつづくものであることが判明したからである。


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