『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
1 ふたりの征服者
十四世紀の末、アジアの西部には、ふたりの征服者がならび立っていた。
ひとりは、内陸より起こった王者チムールである。
もうひとりは、オスマン・トルコのスルタン(君主)で、「稲妻王」とよばれたバヤジット一世である。
オスマン・トルコはモンゴル軍に追われて、中央アジアの草原から小アジアへと移動してきた部族であった。
その族長オスマンが、小アジアの西北部に建国して(一二九九)以来、しだいに西方へと発展してゆく。
そしてムラト一世(一三五九~八九)のとき、東南ヨーロッパの一角に侵入して、アドリアノープルに首都をかまえた。
ついで立ったスルタンが、バヤジット一世であった(一三八九~一四〇二)。
おりからハンガリー王の要請にこたえて結成された対オスマン十字軍を、ドナウ川流域で破って、バルカン半島の大部分を征服する。
小アジアでは、セルジューク・トルコが滅亡してから、各地に分立していた多くのトルコ君侯国をほぼ平定した。
しかし、オスマン・トルコの前進をはばむ強大な勢力として、東方からあらわれたのが、チムールであった。
たまたまトルコマン族の一族長が、チムールに追われて、バヤジットのもとにいたる。
これをバヤジットが保護したことが、ふたりの征服者が撃突する導火線となった。
チムールは、バヤジットに対して、この亡命者の返還をもとめた。
拒絶されると、ただちに小アジアへ進軍をはじめた。
東部の一都市を占領するや、またも返還を要求し、その手紙の最後で、おびやかすように述べた。
「なんじ、もし余の命令にそむくことあらば、余ののろいがなんじの身にふりかかることを覚悟せよ。」
ほこり高きスルタン、バヤジットにとって、この強圧的な要求は、あまりにも大きい辱しめであった。
チムールヘの返言のなかで呼びかけている。
「なんじ、チムールと名のる狂い犬よ。なんじ、ビザンチン(東ローマ)皇帝どもより、なお不信の徒なるチムールよ。われ、なんじの書簡をしかと読みたり。この、のろわれたる者よ」。
バヤジットの怒りと決意とをしめして、あまりあろう。
ふたりの征服者が干戈(かんか=戦)のうちにあいまみえるのは、もはや時の問題であった。
二十万の騎兵とインドの象軍とからなるチムール軍は、ふたたび西進を開始した。
この報をうけると、バヤジットは、重装備と兵站(へいたん)はすべてアンカラ(現在のトルコの首都)の城塞にのこし、軽装備の歩兵をひきいて東進した。
小アジア東部の山岳地帯で会戦し、歩兵による戦闘を有利に展開しようとしたのである。
山地での騎兵戦の不利をさとったチムールは、会戦をことさら避けて、バヤジットの本拠たるアンカラへ進軍しはじめた。
この企図を察知したバヤジットもまたアンカラへ急行した。
二つの大軍は、ほぼ平行して、それぞれの道をすすむ。めざすは同じアンカラ城塞である。
アンカラ到着は、チムール軍がひとあし早かった。
チムールは、ただちに城塞を包囲攻撃したが、守りは固かった。
チムールが攻めあぐんでいるうちに、北東の方向から姿を現したバヤジットは、チムール軍の背後からはげしく攻撃した。
チムールの軍は混乱におちいった。これこそオスマン軍にとっては、のがしてはならぬ好機であった。
王子や将軍たちは、すぐさま決戦に転ずることを進言した。しかしバヤジッ卜は、これを拒否した。
自信にあふれるバヤジットにとって、チムールとの一騎打ちこそ、のぞむところだったからである。
チムールはたちまち陣営をたてなをした。
16 オスマン・トルコ
1 ふたりの征服者
十四世紀の末、アジアの西部には、ふたりの征服者がならび立っていた。
ひとりは、内陸より起こった王者チムールである。
もうひとりは、オスマン・トルコのスルタン(君主)で、「稲妻王」とよばれたバヤジット一世である。
オスマン・トルコはモンゴル軍に追われて、中央アジアの草原から小アジアへと移動してきた部族であった。
その族長オスマンが、小アジアの西北部に建国して(一二九九)以来、しだいに西方へと発展してゆく。
そしてムラト一世(一三五九~八九)のとき、東南ヨーロッパの一角に侵入して、アドリアノープルに首都をかまえた。
ついで立ったスルタンが、バヤジット一世であった(一三八九~一四〇二)。
おりからハンガリー王の要請にこたえて結成された対オスマン十字軍を、ドナウ川流域で破って、バルカン半島の大部分を征服する。
小アジアでは、セルジューク・トルコが滅亡してから、各地に分立していた多くのトルコ君侯国をほぼ平定した。
しかし、オスマン・トルコの前進をはばむ強大な勢力として、東方からあらわれたのが、チムールであった。
たまたまトルコマン族の一族長が、チムールに追われて、バヤジットのもとにいたる。
これをバヤジットが保護したことが、ふたりの征服者が撃突する導火線となった。
チムールは、バヤジットに対して、この亡命者の返還をもとめた。
拒絶されると、ただちに小アジアへ進軍をはじめた。
東部の一都市を占領するや、またも返還を要求し、その手紙の最後で、おびやかすように述べた。
「なんじ、もし余の命令にそむくことあらば、余ののろいがなんじの身にふりかかることを覚悟せよ。」
ほこり高きスルタン、バヤジットにとって、この強圧的な要求は、あまりにも大きい辱しめであった。
チムールヘの返言のなかで呼びかけている。
「なんじ、チムールと名のる狂い犬よ。なんじ、ビザンチン(東ローマ)皇帝どもより、なお不信の徒なるチムールよ。われ、なんじの書簡をしかと読みたり。この、のろわれたる者よ」。
バヤジットの怒りと決意とをしめして、あまりあろう。
ふたりの征服者が干戈(かんか=戦)のうちにあいまみえるのは、もはや時の問題であった。
二十万の騎兵とインドの象軍とからなるチムール軍は、ふたたび西進を開始した。
この報をうけると、バヤジットは、重装備と兵站(へいたん)はすべてアンカラ(現在のトルコの首都)の城塞にのこし、軽装備の歩兵をひきいて東進した。
小アジア東部の山岳地帯で会戦し、歩兵による戦闘を有利に展開しようとしたのである。
山地での騎兵戦の不利をさとったチムールは、会戦をことさら避けて、バヤジットの本拠たるアンカラへ進軍しはじめた。
この企図を察知したバヤジットもまたアンカラへ急行した。
二つの大軍は、ほぼ平行して、それぞれの道をすすむ。めざすは同じアンカラ城塞である。
アンカラ到着は、チムール軍がひとあし早かった。
チムールは、ただちに城塞を包囲攻撃したが、守りは固かった。
チムールが攻めあぐんでいるうちに、北東の方向から姿を現したバヤジットは、チムール軍の背後からはげしく攻撃した。
チムールの軍は混乱におちいった。これこそオスマン軍にとっては、のがしてはならぬ好機であった。
王子や将軍たちは、すぐさま決戦に転ずることを進言した。しかしバヤジッ卜は、これを拒否した。
自信にあふれるバヤジットにとって、チムールとの一騎打ちこそ、のぞむところだったからである。
チムールはたちまち陣営をたてなをした。