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8-16-1 オスマン・トルコ

2024-03-10 04:38:01 | 世界史
『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
1 ふたりの征服者

 十四世紀の末、アジアの西部には、ふたりの征服者がならび立っていた。
 ひとりは、内陸より起こった王者チムールである。
 もうひとりは、オスマン・トルコのスルタン(君主)で、「稲妻王」とよばれたバヤジット一世である。
 オスマン・トルコはモンゴル軍に追われて、中央アジアの草原から小アジアへと移動してきた部族であった。
 その族長オスマンが、小アジアの西北部に建国して(一二九九)以来、しだいに西方へと発展してゆく。
 そしてムラト一世(一三五九~八九)のとき、東南ヨーロッパの一角に侵入して、アドリアノープルに首都をかまえた。
 ついで立ったスルタンが、バヤジット一世であった(一三八九~一四〇二)。
 おりからハンガリー王の要請にこたえて結成された対オスマン十字軍を、ドナウ川流域で破って、バルカン半島の大部分を征服する。
 小アジアでは、セルジューク・トルコが滅亡してから、各地に分立していた多くのトルコ君侯国をほぼ平定した。
 しかし、オスマン・トルコの前進をはばむ強大な勢力として、東方からあらわれたのが、チムールであった。
 たまたまトルコマン族の一族長が、チムールに追われて、バヤジットのもとにいたる。
 これをバヤジットが保護したことが、ふたりの征服者が撃突する導火線となった。
 チムールは、バヤジットに対して、この亡命者の返還をもとめた。
 拒絶されると、ただちに小アジアへ進軍をはじめた。
 東部の一都市を占領するや、またも返還を要求し、その手紙の最後で、おびやかすように述べた。
 「なんじ、もし余の命令にそむくことあらば、余ののろいがなんじの身にふりかかることを覚悟せよ。」
 ほこり高きスルタン、バヤジットにとって、この強圧的な要求は、あまりにも大きい辱しめであった。
 チムールヘの返言のなかで呼びかけている。
 「なんじ、チムールと名のる狂い犬よ。なんじ、ビザンチン(東ローマ)皇帝どもより、なお不信の徒なるチムールよ。われ、なんじの書簡をしかと読みたり。この、のろわれたる者よ」。
 バヤジットの怒りと決意とをしめして、あまりあろう。
 ふたりの征服者が干戈(かんか=戦)のうちにあいまみえるのは、もはや時の問題であった。
 二十万の騎兵とインドの象軍とからなるチムール軍は、ふたたび西進を開始した。
 この報をうけると、バヤジットは、重装備と兵站(へいたん)はすべてアンカラ(現在のトルコの首都)の城塞にのこし、軽装備の歩兵をひきいて東進した。
 小アジア東部の山岳地帯で会戦し、歩兵による戦闘を有利に展開しようとしたのである。
 山地での騎兵戦の不利をさとったチムールは、会戦をことさら避けて、バヤジットの本拠たるアンカラへ進軍しはじめた。
 この企図を察知したバヤジットもまたアンカラへ急行した。
 二つの大軍は、ほぼ平行して、それぞれの道をすすむ。めざすは同じアンカラ城塞である。
 アンカラ到着は、チムール軍がひとあし早かった。
 チムールは、ただちに城塞を包囲攻撃したが、守りは固かった。
 チムールが攻めあぐんでいるうちに、北東の方向から姿を現したバヤジットは、チムール軍の背後からはげしく攻撃した。
 チムールの軍は混乱におちいった。これこそオスマン軍にとっては、のがしてはならぬ好機であった。
 王子や将軍たちは、すぐさま決戦に転ずることを進言した。しかしバヤジッ卜は、これを拒否した。
 自信にあふれるバヤジットにとって、チムールとの一騎打ちこそ、のぞむところだったからである。
 チムールはたちまち陣営をたてなをした。




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