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『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
6 ギリシアを二分した大戦争 ―ペロポネソス戦争―
1 二人の将軍の運命
ペルシアの大侵攻は、サラミスの海戦と、プラタイアの戦いによって妨げられ、ギリシアは独立を保ったばかりか、かつてない繁栄を楽しんだ。
ところが、ギリシアを救った二人の将軍、サラミスの際のテミストクレスもプラタイアの際のパウサニアスも、ともに晩年をまっとうすることができなかった。
ことに、パウサニアスの死は悲惨だった。
彼はスパルタのアクロポリスにあった「青銅のアテナ神殿」の付属建物の中に閉じこめられた。
建物の屋根には穴があけられ、そこから彼は監視されていた。
そしてパウサニアスが飢えと渇きのため、ほとんど死ぬばかりになったとき、建物の戸は開かれ、彼は外にかつぎ出された。
しかし彼は衰弱しきっていたので、まもなく死んでしまった。
パウサニアスはスパルタ王クレオンブロトスの王子だった。
レオニダス王の王子プレイスタルコスがまだ幼くて王位についたので、パウサニアスはその摂政(せっしょう)になった。
そのうえ、ギリシア軍がプラタイアの輝かしい勝利を得た際の総司令官だった。
その彼が、どうしてこのような悲惨な最期を遂げなくてはならなかったのだろうか。
パウサニアスは軍人としては、なかなか立派な人であったようである。
ブラタイアの戦いでペルシア軍を指揮していたマルドニオスは、スパルタ人のアエイムネトスが投げた石が頭に当たって戦死した。
するとアイギナ人のランポンという者はパウサニアスに、「クセルクセスやマルドニオスは、テルモピュレでは戦死したレオエダス王の首を斬り、はりつけにしたのだから、マルドニオスの死骸を、こんどは同じようなめにあわせて、伯父さまのレオユダス王の恨みをはらされるがよい」とすすめた。
しかしパウサニアスは、「そういうことは野蛮人にふさわしいことで、ギリシア人にはふさわしいことではない」といって、すすめに従わなかったという。
またプラタイアの戦いが終わったとき、パウサニアスの率いるギリシア軍はテーベに進軍し、ペルシア側に味方したテーベ人を引き渡すことを要求した。
テーベはこの要求を入れて和睦(わぼく)することになった。
しかし引き渡しを約束したなかにいたアッタギノスという男は逃亡してしまった。
そのため、彼のかわりに彼の子供たちが引き渡された。
しかしパウサニアスは、「子供には何の罪もない」といって、アッタギノスの子供らを放免してやったという。
こんな話が他にも伝わっていて、パウサニアスが血もあり涙もある人であることがわかる。
しかし彼には傲慢で乱暴な性格もあったらしい。
サラミス、プラタイアの二つの戦いに破れたペルシア軍は、本国に逃げ帰った。
ギリシア連合艦隊はこれを追い、小アジアのミュカレで海戦をし、ふたたびペルシア海軍に勝った。
その後も、ギリシア人は連合艦隊を解散せず、小アジア沿岸のギリシア植民市を、ペルシアから独立させた。
連合艦隊の司令官にはパウサニアスが任じられていた。
彼はビザンティオンを占領して、ここをギリシア連合艦隊の根拠地にした。
ここでは彼の性格のいやな面が強く出てきて、スパルタ人以外のギリシアの同盟諸市の人々に嫌われるようになった。
彼は泉や野原に番兵を置き、スパルタ人より先に水をくもうとしたり、馬の飼い葉や寝藁をとろうとする者があると、追い払った。
同盟諸市のものがそれを訴えようとすると、乱暴に応対して話もろくにきかなかった。
そのうえ気に入らない兵士たちを鞭で打たせたり、錨を負わせて一日立たせたりひどいことをした。
アテネの将軍のアリスティデスは、忠告してこれをいさめようとしたが、パウサニアスはうるさそうな顔をしていった。 「忙しくて、あなたの話など聞く暇はない」。
こういうことからパウサニアスの人望はなくなったばかりか、彼は嫌われ、同盟諸市の人々は彼を司令官と仰ぐことにがまんできなくなった。
たまたま彼はペルシアと内通しているという噂が広まった。
彼がビザンティオンを占領したとき、ペルシアの王族が捕虜になった。
パウサニアスはこれをペルシア王のところへ送り返したが、その際に、「王女をわたくしの妻にくださるなら、全ギリシアを大王に臣従させましょう」という手紙を持たせたという。
クセルクセスはこれをききいれたので、パウサニアスは小アジアに行き、王家の女と婚約して、ビザンティオンに帰った。彼が本当にペルシア王にギリシアの帰服を約束したかどうかは疑わしい。
しかしとにかくそういう噂が広まり、アリスティデスとキモンは、スパルタに使いを送って、それを知らせた。
スパルタではそれをほうっておくわけにもいかないので、パウサニアスを召還して、エポロイが調べることになった。
取り調べの結果、パウサニアスには内通の事実はないということになり、無罪になった。
しかし、権力は人を堕落させるし、こんな噂が立てばスパルタの評判も悪くなると、スパルタはこの後、連合軍の司令官を出さないことにした。
同盟諸市の人々は、「正義の人」とよばれたアリスティデスと、キモンを指揮者として選んだ。
しかしパウサニアスはスパルタでじっとしている気はなかった。
彼は軍艦をひそかに手に入れて、祖国をぬけ出し、ピザンティオンに向かった。
ビザンティオンを守っている人々は、しかし彼をうけ入れず、武力で反抗をした。
パウサニアスはやむをえず、小アジアのコロナイに行った。
ここでまた彼はギリシアを売り渡すために、ペルシア王と相談しているという噂がとんだ。
そればかりか本国のヘイロタイたちをそそのかして、反乱を起こさせようとしているという噂まで出た。
そこで彼は本国に取り調べのために召還された。
彼は本当は潔白だったためか、前のように申し開きをして無罪になる自信があったためか、召還に応じて祖国に帰った。
エポロイたちはパウサニアスを取り調べたが、噂を証明するような証拠は何も出てこなかった。
それに彼は王族で、現王の摂政だったので、確かな証拠がなくては処刑することはできないので、彼は放免された。
ところが思いがけない事態が展開した。彼の腹心の家来が、あるときペルシア王に手紙をひそかにとどけるように命じられた。
いよいよ出かけることになって、家来は、彼の前に使いに出された者が一人も帰って来ないことに気づき、なんとなく気がかりになった。
そこで彼は主人の手紙をそっと開いて見た。
すると文末に、「この使者も他のものと同じように殺すように」と書いてあった。
彼は驚いて、エポロイに密告した。
これで証拠はできたものの、エポロイはさらに慎重にパウサニアスの自白も手に入れようとした。
そこでその家来をある神殿に逃げこませた。
神殿にいる者は神の保護下にあるので、これを殺したり罰したりすれば、?神罪(とくしんざい)になると考えられていたからだった。
パウサニアスは神殿に行き、なぜ使いに行かないで、神殿に逃げこんだのかと、家来にきいた。
彼は手紙を見たことを自白した。
パウサニアスは、それではそこを削るから、思いなおして使いに行ってくれと頼んだ。
エポロイたちはかげでこれをきき、パウサニアスが有罪の証拠は揃ったと思った。
しかし神殿で捕えることはできないので、そのときは、そのままパウサニアスは見のがされた。
その後、エポロイたちは彼を逮捕するために出かけた。
エポロイのなかにはパウサニアスに好意を持っている者もいて、パウサニアスに合図をした。
パウサニアスは気づいて逃げ、アクロポリスの「青銅のアテナ神殿」に保護を求めた。
そうして、彼がついにここで死んだことは、先に書いた。
彼の死の年は、紀元前四六九年とか四六七年とかいろいろにいわれていて、はっきりしない。
パウサニアスが本当にペルシアに内通していたかどうかは疑わしいが、アテネの将軍のテミストクレスが、パウサニアスと手を結んで、彼もペルシアに内通していたというのは、なお疑わしい。
しかしパウサニアスの死後、彼のところで発見された書類や手紙のなかに、テミストクレスも陰謀に加担している証拠になりそうなものがあった。
紀元前四七二年ごろからテミストクレスはオストラキスモスにあい、アルゴスに亡命していた。
彼はアルゴスから弁明の手紙をアテネに送った。
しかしその弁明はうけ入れられず、彼を捕えるために役人がアルゴスに遣(つか)わされた。
テミストクレスは逃げ出し、コルキュラ島に行った。
そこからさらに対岸のエペイロスに渡った。テミストクレスの友人たちは、彼の妻や子をここに送りとどけてくれた。
だが、そこも彼には安住の地でなく、彼は内地を横断してマケドニアに行き、そのピュドナから小アジアのキュメに渡った。
サラミスの敵将としてペルシア王は、テミストクレスを捕えた者には多額の賞金を与えるとふれ出していた。
そのためキュメのギリシア人のなかには、彼を捕えようとする者がいたので、テミストクレスは奥地のアイガイの町に逃げた。
彼はそこで友人のニコゲネスに女用の馬車を用意してもらい、馬車の中にかくれて、ペルシア王のところへ行った。
そのころペルシア王はクセルクセスでなく、アルタクセルクセス王の御代になっていたともいわれるが、テミストクレスが命ごいをすると、王はその大胆さに驚いて、彼を助けることにした。
そしてテミストクレスは懸賞金がかかっていたテミストクレスを、自分で連れて来だのだからと、賞金を彼に与えた。
そのおかげで、テミストクレスはペルシアの貴族のように豪奢に暮らし、その地で高齢で病死したという。
しかし、ギリシア海軍と戦うために、ペルシア海軍の参謀になれといわれて、毒を飲んで自殺したという説もある。
いずれにしろテミストクレスの死は、パウサニアスほど悲惨ではなかったかもしれないが、ペルシア戦争の二人の大立て者が、二人とも終わりをまっとうしなかったのは、悲劇的である。
その悲劇は二人とも、その性格から出ているようで、パウサニアスは傲慢で、乱暴だったし、テミストクレスのほうは自信が強すぎ、名誉心が強く、口がきたなくて、人を怒らせるようなことをずけずけいったらしい。
そのくせ、わいろなどは平気で受け取るような人だった。このためアテネの人々に嫌われたらしい。
6 ギリシアを二分した大戦争 ―ペロポネソス戦争―
1 二人の将軍の運命
ペルシアの大侵攻は、サラミスの海戦と、プラタイアの戦いによって妨げられ、ギリシアは独立を保ったばかりか、かつてない繁栄を楽しんだ。
ところが、ギリシアを救った二人の将軍、サラミスの際のテミストクレスもプラタイアの際のパウサニアスも、ともに晩年をまっとうすることができなかった。
ことに、パウサニアスの死は悲惨だった。
彼はスパルタのアクロポリスにあった「青銅のアテナ神殿」の付属建物の中に閉じこめられた。
建物の屋根には穴があけられ、そこから彼は監視されていた。
そしてパウサニアスが飢えと渇きのため、ほとんど死ぬばかりになったとき、建物の戸は開かれ、彼は外にかつぎ出された。
しかし彼は衰弱しきっていたので、まもなく死んでしまった。
パウサニアスはスパルタ王クレオンブロトスの王子だった。
レオニダス王の王子プレイスタルコスがまだ幼くて王位についたので、パウサニアスはその摂政(せっしょう)になった。
そのうえ、ギリシア軍がプラタイアの輝かしい勝利を得た際の総司令官だった。
その彼が、どうしてこのような悲惨な最期を遂げなくてはならなかったのだろうか。
パウサニアスは軍人としては、なかなか立派な人であったようである。
ブラタイアの戦いでペルシア軍を指揮していたマルドニオスは、スパルタ人のアエイムネトスが投げた石が頭に当たって戦死した。
するとアイギナ人のランポンという者はパウサニアスに、「クセルクセスやマルドニオスは、テルモピュレでは戦死したレオエダス王の首を斬り、はりつけにしたのだから、マルドニオスの死骸を、こんどは同じようなめにあわせて、伯父さまのレオユダス王の恨みをはらされるがよい」とすすめた。
しかしパウサニアスは、「そういうことは野蛮人にふさわしいことで、ギリシア人にはふさわしいことではない」といって、すすめに従わなかったという。
またプラタイアの戦いが終わったとき、パウサニアスの率いるギリシア軍はテーベに進軍し、ペルシア側に味方したテーベ人を引き渡すことを要求した。
テーベはこの要求を入れて和睦(わぼく)することになった。
しかし引き渡しを約束したなかにいたアッタギノスという男は逃亡してしまった。
そのため、彼のかわりに彼の子供たちが引き渡された。
しかしパウサニアスは、「子供には何の罪もない」といって、アッタギノスの子供らを放免してやったという。
こんな話が他にも伝わっていて、パウサニアスが血もあり涙もある人であることがわかる。
しかし彼には傲慢で乱暴な性格もあったらしい。
サラミス、プラタイアの二つの戦いに破れたペルシア軍は、本国に逃げ帰った。
ギリシア連合艦隊はこれを追い、小アジアのミュカレで海戦をし、ふたたびペルシア海軍に勝った。
その後も、ギリシア人は連合艦隊を解散せず、小アジア沿岸のギリシア植民市を、ペルシアから独立させた。
連合艦隊の司令官にはパウサニアスが任じられていた。
彼はビザンティオンを占領して、ここをギリシア連合艦隊の根拠地にした。
ここでは彼の性格のいやな面が強く出てきて、スパルタ人以外のギリシアの同盟諸市の人々に嫌われるようになった。
彼は泉や野原に番兵を置き、スパルタ人より先に水をくもうとしたり、馬の飼い葉や寝藁をとろうとする者があると、追い払った。
同盟諸市のものがそれを訴えようとすると、乱暴に応対して話もろくにきかなかった。
そのうえ気に入らない兵士たちを鞭で打たせたり、錨を負わせて一日立たせたりひどいことをした。
アテネの将軍のアリスティデスは、忠告してこれをいさめようとしたが、パウサニアスはうるさそうな顔をしていった。 「忙しくて、あなたの話など聞く暇はない」。
こういうことからパウサニアスの人望はなくなったばかりか、彼は嫌われ、同盟諸市の人々は彼を司令官と仰ぐことにがまんできなくなった。
たまたま彼はペルシアと内通しているという噂が広まった。
彼がビザンティオンを占領したとき、ペルシアの王族が捕虜になった。
パウサニアスはこれをペルシア王のところへ送り返したが、その際に、「王女をわたくしの妻にくださるなら、全ギリシアを大王に臣従させましょう」という手紙を持たせたという。
クセルクセスはこれをききいれたので、パウサニアスは小アジアに行き、王家の女と婚約して、ビザンティオンに帰った。彼が本当にペルシア王にギリシアの帰服を約束したかどうかは疑わしい。
しかしとにかくそういう噂が広まり、アリスティデスとキモンは、スパルタに使いを送って、それを知らせた。
スパルタではそれをほうっておくわけにもいかないので、パウサニアスを召還して、エポロイが調べることになった。
取り調べの結果、パウサニアスには内通の事実はないということになり、無罪になった。
しかし、権力は人を堕落させるし、こんな噂が立てばスパルタの評判も悪くなると、スパルタはこの後、連合軍の司令官を出さないことにした。
同盟諸市の人々は、「正義の人」とよばれたアリスティデスと、キモンを指揮者として選んだ。
しかしパウサニアスはスパルタでじっとしている気はなかった。
彼は軍艦をひそかに手に入れて、祖国をぬけ出し、ピザンティオンに向かった。
ビザンティオンを守っている人々は、しかし彼をうけ入れず、武力で反抗をした。
パウサニアスはやむをえず、小アジアのコロナイに行った。
ここでまた彼はギリシアを売り渡すために、ペルシア王と相談しているという噂がとんだ。
そればかりか本国のヘイロタイたちをそそのかして、反乱を起こさせようとしているという噂まで出た。
そこで彼は本国に取り調べのために召還された。
彼は本当は潔白だったためか、前のように申し開きをして無罪になる自信があったためか、召還に応じて祖国に帰った。
エポロイたちはパウサニアスを取り調べたが、噂を証明するような証拠は何も出てこなかった。
それに彼は王族で、現王の摂政だったので、確かな証拠がなくては処刑することはできないので、彼は放免された。
ところが思いがけない事態が展開した。彼の腹心の家来が、あるときペルシア王に手紙をひそかにとどけるように命じられた。
いよいよ出かけることになって、家来は、彼の前に使いに出された者が一人も帰って来ないことに気づき、なんとなく気がかりになった。
そこで彼は主人の手紙をそっと開いて見た。
すると文末に、「この使者も他のものと同じように殺すように」と書いてあった。
彼は驚いて、エポロイに密告した。
これで証拠はできたものの、エポロイはさらに慎重にパウサニアスの自白も手に入れようとした。
そこでその家来をある神殿に逃げこませた。
神殿にいる者は神の保護下にあるので、これを殺したり罰したりすれば、?神罪(とくしんざい)になると考えられていたからだった。
パウサニアスは神殿に行き、なぜ使いに行かないで、神殿に逃げこんだのかと、家来にきいた。
彼は手紙を見たことを自白した。
パウサニアスは、それではそこを削るから、思いなおして使いに行ってくれと頼んだ。
エポロイたちはかげでこれをきき、パウサニアスが有罪の証拠は揃ったと思った。
しかし神殿で捕えることはできないので、そのときは、そのままパウサニアスは見のがされた。
その後、エポロイたちは彼を逮捕するために出かけた。
エポロイのなかにはパウサニアスに好意を持っている者もいて、パウサニアスに合図をした。
パウサニアスは気づいて逃げ、アクロポリスの「青銅のアテナ神殿」に保護を求めた。
そうして、彼がついにここで死んだことは、先に書いた。
彼の死の年は、紀元前四六九年とか四六七年とかいろいろにいわれていて、はっきりしない。
パウサニアスが本当にペルシアに内通していたかどうかは疑わしいが、アテネの将軍のテミストクレスが、パウサニアスと手を結んで、彼もペルシアに内通していたというのは、なお疑わしい。
しかしパウサニアスの死後、彼のところで発見された書類や手紙のなかに、テミストクレスも陰謀に加担している証拠になりそうなものがあった。
紀元前四七二年ごろからテミストクレスはオストラキスモスにあい、アルゴスに亡命していた。
彼はアルゴスから弁明の手紙をアテネに送った。
しかしその弁明はうけ入れられず、彼を捕えるために役人がアルゴスに遣(つか)わされた。
テミストクレスは逃げ出し、コルキュラ島に行った。
そこからさらに対岸のエペイロスに渡った。テミストクレスの友人たちは、彼の妻や子をここに送りとどけてくれた。
だが、そこも彼には安住の地でなく、彼は内地を横断してマケドニアに行き、そのピュドナから小アジアのキュメに渡った。
サラミスの敵将としてペルシア王は、テミストクレスを捕えた者には多額の賞金を与えるとふれ出していた。
そのためキュメのギリシア人のなかには、彼を捕えようとする者がいたので、テミストクレスは奥地のアイガイの町に逃げた。
彼はそこで友人のニコゲネスに女用の馬車を用意してもらい、馬車の中にかくれて、ペルシア王のところへ行った。
そのころペルシア王はクセルクセスでなく、アルタクセルクセス王の御代になっていたともいわれるが、テミストクレスが命ごいをすると、王はその大胆さに驚いて、彼を助けることにした。
そしてテミストクレスは懸賞金がかかっていたテミストクレスを、自分で連れて来だのだからと、賞金を彼に与えた。
そのおかげで、テミストクレスはペルシアの貴族のように豪奢に暮らし、その地で高齢で病死したという。
しかし、ギリシア海軍と戦うために、ペルシア海軍の参謀になれといわれて、毒を飲んで自殺したという説もある。
いずれにしろテミストクレスの死は、パウサニアスほど悲惨ではなかったかもしれないが、ペルシア戦争の二人の大立て者が、二人とも終わりをまっとうしなかったのは、悲劇的である。
その悲劇は二人とも、その性格から出ているようで、パウサニアスは傲慢で、乱暴だったし、テミストクレスのほうは自信が強すぎ、名誉心が強く、口がきたなくて、人を怒らせるようなことをずけずけいったらしい。
そのくせ、わいろなどは平気で受け取るような人だった。このためアテネの人々に嫌われたらしい。