『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
7 李氏朝鮮の建国
1 李成桂の登場
元から明(みん)への交替にあたって、高麗(こうらい)は大きくゆれ動いた。
元朝が倒れたといっても、それは中国の支配をうしなったに過ぎない。
元朝そのものは、なおモンゴル本土において余勢をたもっている。
いったい高麗としては、そのまま元朝に属しているべきか。
あたらしく興った明朝に属すべきか。それは高麗にとって、国家の死活に関する大問題であった。
十三世紀の後半(一二六〇)から、高麗は元朝の属国となっている。
その国王は、モンゴル皇帝の臣下として、その皇女をめとり、その問に生まれた子が、つぎの国王に立った。
そして生涯の大半は元の大都(北京)に住み、モンゴル人の服装をして、モンゴル名さえ持っていた。
元朝の命ずるままに、廃位されたり、復位したり、なかには流刑に処せられた国王もあった。
ところ恭愍王(きょうびんおう)が立つころ(十四世紀半ば)になると、様子がかわってきた。
元朝は順帝の治世なかばであり、中国の各地には反乱がしきりであった。
元の軍隊も、これを鎮圧しかねている。しかも順帝の皇后が、高麗人の奇氏であった。
そこで奇氏の一族は、帝室の外戚ということになって、国王をしのぐ勢いを示していた。
国王にとって不愉快なだけでなく、危険であった。
ついに至正十六年(一三五六)、恭愍王も覚悟をきめた。
まず国内で、奇氏一族をみな殺しにした。
ついで元朝の年号をつかうことをやめ、鴨緑江(おうりょくこう)の北に出兵して元の諸城をおとしいれた。
半島の東北部(いまに咸鏡道)も元の領域であったが、これも奪いとった。
もはや元朝に対して公然たる反逆であった。
このとき高麗軍に加わった武将のひとりに、李成桂(りせいけい)があった。二十代の青年であった。
その家は、もと南部に住んでいたというが、当時は女真(ツングース)人の伴地にあって、その首領となっていた。
李成桂は、女真人の手兵をひきいて、高麗の部将となったのである。
それから三年たった(一三五九)。
このたびは大陸からの進攻を受けた。といっても元軍ではない。
元朝に反抗していた紅巾の軍の一部が、東北地方から鴨緑江をこえて、高麗の領内ふかく攻め入ってきたのである。
高麗では、これを紅頭の賊とよんだ。
紅頭の別軍には、二年後にも来た(一三六一)。
こんどは開京(開城)をもおとしいれた。国王たちは南方へのがれた。
年をこしてから高麗軍は、開京をかこんで紅頭の軍の大半をほろぼす。この二回にわたる侵入に対して、大功を立てたのが李成桂であった。李成桂は、めきめきと頭角をあらわしていった。やがて大陸では一三六八年、明朝が立てられ、元朝を追いはらった。
その翌年、明の洪武帝は使者をつかわして、建国のことを告げた。
すでに元朝にそむいていた恭慾王は、ただちに明朝に属する意志を表明した。このころ高麗の官廷は乱脈をきわめていた。
僧の遍照という者が、国王のあつい信任をえて、かってにふるまう。
王の長子たる禑(ぐう)も、ほんとうの父親は遍照だった、というありさまである。
その遍照は、ついに国王の弑逆(しいぎゃく)をはかって失敗し、逆に殺された。
三十一代恭愍王じしんも、一三七四年には宦官によって殺されてしまった。
権臣たちは、禰を立てて王とした。しかし恭愍王の実子ではない。
遍照の俗姓は辛(しん)氏であったから、あたらしい王は辛禑(しんぐう)とよばれる。
恭愍王が死んで、高麗の国策は一変した。
実権を古くからの大官たちがにぎって、元朝に属することにしたのである。
元朝といっても、いまはモンゴル本土を保つのみの一地方政権にすぎない。いわゆる北元である。
高麗の宮廷からは浙王の即位を北元に報じ、高麗国王の冊封(さくほう=地位の認め)をうけた。
いっぽう明朝からも、三十二代辛禑を高麗国王に冊封してくる。
それも受けたものの、もはや高麗宮廷の目は、はっきり北元へむけられていた。
明朝としても、まだ建国してから十年にみたず、朝鮮半島をおさえるまでの力はない。
高麗も、実は別のことで苦しんでいた。
南鮮の海岸一帯に、倭寇(わこう)の進入がはげしかったのである。
辛禑が即位したころ、その被害は頂点に達していた。
これの討伐にむかったのが李成桂である。
一三八〇年、半島の南部(全羅北道の雲峰面)ふかく進入してきた倭寇と戦い、これを大いに破った。
李成桂の盛名は、ますます上がる一方である。