マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年
46.主日と祝日とには謹しんでミサを聴くべし
主日、祝日に労働を休業むのみでは、まだ不完全だ。なお謹しんでミサを拝聴すべしという第一の重大な義務がある。やむを得ざる場合を除いて、この義務を怠る者は大罪を犯すのである。
自己の過失や台慢でミサ聖祭の拝聴を怠ったり、ミサ聖祭の大部分を欠きたり(例えば、聖福音後ミサを拝聴し始めたり、序論より聖体拝領までの要部の間に、その}部を欠いて外出するなど)あるいは聖祭中大部分の間故意、心を散らしたりする者は、大罪を犯すのである。故に大罪を犯すよりも、財産、名誉、健康のみならず、生命までも失うのがよいと思うのは、公教信者として信仰の目をもって見た当然のことである。
・前に述べたやむを得ぬ場合とは
1、絶対的不可能の場合
どうしても教会に参詣られぬ者、即ち、病人、囚人、旅人、戦場の兵士等で彼らは御ミサに与からずとも罪にならず、「不可能の事に誰も服従の義務なし」との原則に基き、慈母たる公教会は無理な事を決して愛子たる信者に命令せぬからである。
2、相対的不可能の場合
道理上、できぬことはない。しかし実際のところで不可能。例えば事故の為、名誉とか財産とかに危害の起る時、快復しかかった病人が参詣のため、再発の恐れのある時。気候とか、遠距離の為、病気に犯される恐れのある老人その他、大変天気の悪しき時又は教会より遠く離れて住居する人などは、ミサに与らずとも罪にはならぬ。
すべての場合、全般的な法則を規定るのは、むつかしいから人により、場所により、時期により、又習慣によりて充分の理由あるか否かを判断せねばならぬ。
妻は夫より、碑僕は主人より、ミサ聖祭に与かることを禁止られた場合に於てその命令に違反する時その身が大損害を被むるとせば、彼らは御ミサを拝聴せずとも罪にはならぬが、しかし、このような家に使わるる碑僕は一日も早く、ミサ拝聴のため、自由を与えらるる他の良家を求めねばならぬ。
妻として、夫と離別れることはできぬから、益々従順、忍耐を旨として熱心なる祈祷と犠牲とを天主に捧げるようにすれば如何に頑固なる夫と言えども、遂には信仰の防害を止め、その自由を与うるように相違ない。
3、愛や、慈悲のために、御ミサに与かられない場合がある。
例えば看病人として、御ミサに与かるため病人を一人で打捨て置く事はできぬ。あるいは留守番のなき時母親は子供を捨て置くことはできぬ。このような場合には、ミサに与からずとも罪にはならぬ。
適当な理由のため、ミサ聖祭に参与のできぬ者は、それと同時に労働をする許可もあると思ってはならぬ。
ミサ拝領の責任は免がれても労働を休止める義務は、依然として残っている。なおやむを得ず、御ミサに拝聴の責任の代用として、祈祷文にあるミサに与かるを得ざる時の祈祷を唱え、あるいはコンタツ(ロザリオ)を唱うることを、熱心なる信者は怠らぬのである。
学校のある生徒が頭痛のために日曜日の御ミサを怠たる。しかして平日これ位の頭痛で学校を欠席するかと尋ぬれば、答えて否々学校を休めば損がゆく、成績に関係するという。この場合は如何でしょう、天秤で計って御覧なさい。このような勝手な口実のため御ミサ拝聴を怠るのは最も不道理で、罪になるのである。
自分は、数万人の中より天主から特に選ばれ、信仰の宝を受けておる。その有難い恩賜の報恩として我が信仰を愕からず公教信者として、その重大な本分を尽くすべき責任のある事を実験することは、自分の最上の名誉であると思わねばならぬ。
この信仰上の実現的勇気こそ、天主の光栄の発揚である。且つ未信者より尊敬を受くるもととなるのである。之に反して、信仰上の恩恵を保持しながら信者らしくない未信者を装い、信者の本分を遂行せぬのは大恩恵者たる天主に対する忘恩者である。
「人々の前にて、我を否む者は、天主の使らの前にて否さるべし」(ルカ十二~九)とのキリストのおそるべき御言葉を考慮して、心の底に深く刻込まねばならぬ。
自己とキリストの代理者なる霊父とをごまかすことは極めて容易であるが、人の心の底まで見とおし給う全知なる天主をごまかすことは決してできぬと云うことを忘れてはならぬ。
主日、祝日には労働を休みミサに授かった上にも常より多く、祈りをするのは良い聖人伝を読む事、貧しき者や、病人を見舞う事業は、主の日を聖ならむるために、最も良い方法である。