『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
12 太后と皇帝
6 新しい出発
わかい武帝の側近には、すでに何人かの儒者がつかえていた。
地位もひくく、重要な政務には参加できなかったが、考えるところを皇帝に進言することは、自由であった。
武帝もまた、よくその意見をきいた。
そのなかの一人、董仲舒(とうちゅうじょ)は、下問に応じて対策を建言した。
董仲舒は主張した。
天子の地位は尊厳でなければならぬ。天子の行為は、あらゆる自然の現象に一致する。
その行為がわるければ、天は災害をくだして警告をあたえるのである。
さらに、述べた。
正しい政治をおこなうには、学問と教養のある者が、官吏とならねばならぬ。
なにが学問であるか。孔子の道である。なにが教養であるか。儒学における古典である。
すなわち、「易(えき)」「書(しょ=経)」「詩(し=経)」「礼(らい=記)」「春秋」の五経(ごきょう)である。
この建言を武帝は採用した。
まず朝廷に五経博士をおき、おのおの一経ずつを専攻させて、弟子たちに教授させることにした。
それが竇(とう)太后の死去した年のことである。
あくる年には、地方の郡や国から、徳行のある者を一人ずつ推挙させた。
これは中央の役人に任命される。
また、地方から推挙されてきた賢良の士に、武帝みずから問題をだして、試験した。
優秀な者は、博士に、さらに高官へと登用される。こうした試験は、その後もくりかえしおこなわれた。
政策の転換は、おどろくほどの速さですすめられていった。
しかし武帝のうしろには、なお守旧の勢力がうごめいている。
竇太后なきあと、その最大のものが陳皇后の母、館陶長公主であった。
皇后は母としめしあわせ、衛子夫へのいやがらせをこころみた。
子夫の弟の衛青(えいせい)をとらえ、長公主の邸におしこめて、殺してしまおうとしたのである。
衛青は姉の入内(じゅだい)にともなって宮中にはいり、武帝の離宮たる建章宮(長安の城外にある)で雑用をつとめて
いたのであった。
さいわいにして衛青は、その友人が力ずくで身がらをすくいだしてくれた。
そして、この事件を武帝がきくと、ただちに衛青を建章宮の侍衛長に任命した。
衛青は、年とともに武帝から寵用せられ、衛子夫はいよいよ武帝の愛を独占した。
陳皇后はますます遠ざけられた。
即位して十二年いけなわち元光五年(前一三〇)になった。
陳皇后が巫祝(ふしゅく)の妖術(ようじゅつ=まじないをして人ののろう術)をつかって、皇帝を呪詛(じゅそ)している、という噂が立った。
真偽のほどはわからない。しかし調査の結果は、事実とみとめられた。
巫(みこ)をはじめ、三百余人の一味がとらえられた。
このため、ついに皇后は、その地位をうばわれたのである。
もはや母の長公主も、武帝をうらむよりほかに力はなかった。
ただ長公主は、武帝にとって恩人である。
何のとがめもなく、こののちも気ままな生活をおくっていた。
廃された陳皇后は、長安の城外でさびしい余生をおくった。
廃后とおなじ年、賢良の士の試験において、すでに七十をこえた儒者、公孫弘が武帝の目にとまった。
すぐれた答案をだしたためである。
これより公孫弘は、とんとん拍子に出世する。ついに六年後には、丞相に任ぜられた。
それまでの丞相は、大名でなければ任命されない。その例をやぶったのである。
また儒者の出身であっても、才能があれば丞相に任ずる、その例がひらかれたのである。
武帝の理想は、次々に実行にうつされていった。
これより公孫弘は、元狩(げんしゅ)二年(前一二一)に八十歳で病死するまで、三年半の間、丞相の職にあった。
ところで元光、元狩とよぶのは、いうまでもなく「年号」である。
こうした年号がさだめられたのも、武帝のときであった。
武帝が即位してより、最初の六年は「建元」という。竇(とう)太后が勢力をふるっていた。
次の六年が「元光」である。陳皇后の母、館陶長公主がうしろにひかえて、目をひがらせていた。
しかし、つぎの「元朔(げんさく)」元年(前二一八)となれば、もはや武帝も二十九歳、たくましい青年皇帝に成長している。
愛する衛子夫は待望の皇子をうんだ。大きな喜びのうちに、かつての歌姫は皇后に冊立(さくりつ)せられた。
そうして元朔(げんさく)の六年と、それにつづく「元狩(げんしゅ)」の六年は、五十四年におよぶ武帝の治世のなかで、もっとも輝かしい時期となったのである。
内治は着々と整えられ、外征も大きな成果をあげた。
しかも、この間の外征に最高の武勲をたてたのが、ほかならぬ衛皇后の弟の衛青であった。
12 太后と皇帝
6 新しい出発
わかい武帝の側近には、すでに何人かの儒者がつかえていた。
地位もひくく、重要な政務には参加できなかったが、考えるところを皇帝に進言することは、自由であった。
武帝もまた、よくその意見をきいた。
そのなかの一人、董仲舒(とうちゅうじょ)は、下問に応じて対策を建言した。
董仲舒は主張した。
天子の地位は尊厳でなければならぬ。天子の行為は、あらゆる自然の現象に一致する。
その行為がわるければ、天は災害をくだして警告をあたえるのである。
さらに、述べた。
正しい政治をおこなうには、学問と教養のある者が、官吏とならねばならぬ。
なにが学問であるか。孔子の道である。なにが教養であるか。儒学における古典である。
すなわち、「易(えき)」「書(しょ=経)」「詩(し=経)」「礼(らい=記)」「春秋」の五経(ごきょう)である。
この建言を武帝は採用した。
まず朝廷に五経博士をおき、おのおの一経ずつを専攻させて、弟子たちに教授させることにした。
それが竇(とう)太后の死去した年のことである。
あくる年には、地方の郡や国から、徳行のある者を一人ずつ推挙させた。
これは中央の役人に任命される。
また、地方から推挙されてきた賢良の士に、武帝みずから問題をだして、試験した。
優秀な者は、博士に、さらに高官へと登用される。こうした試験は、その後もくりかえしおこなわれた。
政策の転換は、おどろくほどの速さですすめられていった。
しかし武帝のうしろには、なお守旧の勢力がうごめいている。
竇太后なきあと、その最大のものが陳皇后の母、館陶長公主であった。
皇后は母としめしあわせ、衛子夫へのいやがらせをこころみた。
子夫の弟の衛青(えいせい)をとらえ、長公主の邸におしこめて、殺してしまおうとしたのである。
衛青は姉の入内(じゅだい)にともなって宮中にはいり、武帝の離宮たる建章宮(長安の城外にある)で雑用をつとめて
いたのであった。
さいわいにして衛青は、その友人が力ずくで身がらをすくいだしてくれた。
そして、この事件を武帝がきくと、ただちに衛青を建章宮の侍衛長に任命した。
衛青は、年とともに武帝から寵用せられ、衛子夫はいよいよ武帝の愛を独占した。
陳皇后はますます遠ざけられた。
即位して十二年いけなわち元光五年(前一三〇)になった。
陳皇后が巫祝(ふしゅく)の妖術(ようじゅつ=まじないをして人ののろう術)をつかって、皇帝を呪詛(じゅそ)している、という噂が立った。
真偽のほどはわからない。しかし調査の結果は、事実とみとめられた。
巫(みこ)をはじめ、三百余人の一味がとらえられた。
このため、ついに皇后は、その地位をうばわれたのである。
もはや母の長公主も、武帝をうらむよりほかに力はなかった。
ただ長公主は、武帝にとって恩人である。
何のとがめもなく、こののちも気ままな生活をおくっていた。
廃された陳皇后は、長安の城外でさびしい余生をおくった。
廃后とおなじ年、賢良の士の試験において、すでに七十をこえた儒者、公孫弘が武帝の目にとまった。
すぐれた答案をだしたためである。
これより公孫弘は、とんとん拍子に出世する。ついに六年後には、丞相に任ぜられた。
それまでの丞相は、大名でなければ任命されない。その例をやぶったのである。
また儒者の出身であっても、才能があれば丞相に任ずる、その例がひらかれたのである。
武帝の理想は、次々に実行にうつされていった。
これより公孫弘は、元狩(げんしゅ)二年(前一二一)に八十歳で病死するまで、三年半の間、丞相の職にあった。
ところで元光、元狩とよぶのは、いうまでもなく「年号」である。
こうした年号がさだめられたのも、武帝のときであった。
武帝が即位してより、最初の六年は「建元」という。竇(とう)太后が勢力をふるっていた。
次の六年が「元光」である。陳皇后の母、館陶長公主がうしろにひかえて、目をひがらせていた。
しかし、つぎの「元朔(げんさく)」元年(前二一八)となれば、もはや武帝も二十九歳、たくましい青年皇帝に成長している。
愛する衛子夫は待望の皇子をうんだ。大きな喜びのうちに、かつての歌姫は皇后に冊立(さくりつ)せられた。
そうして元朔(げんさく)の六年と、それにつづく「元狩(げんしゅ)」の六年は、五十四年におよぶ武帝の治世のなかで、もっとも輝かしい時期となったのである。
内治は着々と整えられ、外征も大きな成果をあげた。
しかも、この間の外征に最高の武勲をたてたのが、ほかならぬ衛皇后の弟の衛青であった。