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3-12-6 新しい出発

2018-10-28 22:19:15 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

12 太后と皇帝

6 新しい出発

 わかい武帝の側近には、すでに何人かの儒者がつかえていた。
 地位もひくく、重要な政務には参加できなかったが、考えるところを皇帝に進言することは、自由であった。
 武帝もまた、よくその意見をきいた。
 そのなかの一人、董仲舒(とうちゅうじょ)は、下問に応じて対策を建言した。
 董仲舒は主張した。
 天子の地位は尊厳でなければならぬ。天子の行為は、あらゆる自然の現象に一致する。
 その行為がわるければ、天は災害をくだして警告をあたえるのである。
 さらに、述べた。
 正しい政治をおこなうには、学問と教養のある者が、官吏とならねばならぬ。
 なにが学問であるか。孔子の道である。なにが教養であるか。儒学における古典である。
 すなわち、「易(えき)」「書(しょ=経)」「詩(し=経)」「礼(らい=記)」「春秋」の五経(ごきょう)である。
 この建言を武帝は採用した。
 まず朝廷に五経博士をおき、おのおの一経ずつを専攻させて、弟子たちに教授させることにした。

 それが竇(とう)太后の死去した年のことである。
 あくる年には、地方の郡や国から、徳行のある者を一人ずつ推挙させた。
 これは中央の役人に任命される。
 また、地方から推挙されてきた賢良の士に、武帝みずから問題をだして、試験した。
 優秀な者は、博士に、さらに高官へと登用される。こうした試験は、その後もくりかえしおこなわれた。
 政策の転換は、おどろくほどの速さですすめられていった。
 しかし武帝のうしろには、なお守旧の勢力がうごめいている。
 竇太后なきあと、その最大のものが陳皇后の母、館陶長公主であった。
 皇后は母としめしあわせ、衛子夫へのいやがらせをこころみた。
 子夫の弟の衛青(えいせい)をとらえ、長公主の邸におしこめて、殺してしまおうとしたのである。
 衛青は姉の入内(じゅだい)にともなって宮中にはいり、武帝の離宮たる建章宮(長安の城外にある)で雑用をつとめて
いたのであった。
 さいわいにして衛青は、その友人が力ずくで身がらをすくいだしてくれた。
 そして、この事件を武帝がきくと、ただちに衛青を建章宮の侍衛長に任命した。
 衛青は、年とともに武帝から寵用せられ、衛子夫はいよいよ武帝の愛を独占した。
 陳皇后はますます遠ざけられた。
 即位して十二年いけなわち元光五年(前一三〇)になった。
 陳皇后が巫祝(ふしゅく)の妖術(ようじゅつ=まじないをして人ののろう術)をつかって、皇帝を呪詛(じゅそ)している、という噂が立った。
 真偽のほどはわからない。しかし調査の結果は、事実とみとめられた。
 巫(みこ)をはじめ、三百余人の一味がとらえられた。
 このため、ついに皇后は、その地位をうばわれたのである。
 もはや母の長公主も、武帝をうらむよりほかに力はなかった。
 ただ長公主は、武帝にとって恩人である。
 何のとがめもなく、こののちも気ままな生活をおくっていた。
 廃された陳皇后は、長安の城外でさびしい余生をおくった。
 廃后とおなじ年、賢良の士の試験において、すでに七十をこえた儒者、公孫弘が武帝の目にとまった。
 すぐれた答案をだしたためである。
 これより公孫弘は、とんとん拍子に出世する。ついに六年後には、丞相に任ぜられた。
 それまでの丞相は、大名でなければ任命されない。その例をやぶったのである。
 また儒者の出身であっても、才能があれば丞相に任ずる、その例がひらかれたのである。
 武帝の理想は、次々に実行にうつされていった。
 これより公孫弘は、元狩(げんしゅ)二年(前一二一)に八十歳で病死するまで、三年半の間、丞相の職にあった。
 ところで元光、元狩とよぶのは、いうまでもなく「年号」である。
 こうした年号がさだめられたのも、武帝のときであった。
 武帝が即位してより、最初の六年は「建元」という。竇(とう)太后が勢力をふるっていた。
 次の六年が「元光」である。陳皇后の母、館陶長公主がうしろにひかえて、目をひがらせていた。
 しかし、つぎの「元朔(げんさく)」元年(前二一八)となれば、もはや武帝も二十九歳、たくましい青年皇帝に成長している。
 愛する衛子夫は待望の皇子をうんだ。大きな喜びのうちに、かつての歌姫は皇后に冊立(さくりつ)せられた。
 そうして元朔(げんさく)の六年と、それにつづく「元狩(げんしゅ)」の六年は、五十四年におよぶ武帝の治世のなかで、もっとも輝かしい時期となったのである。
 内治は着々と整えられ、外征も大きな成果をあげた。
 しかも、この間の外征に最高の武勲をたてたのが、ほかならぬ衛皇后の弟の衛青であった。

シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者 14、高熱でもやめない

2018-10-28 04:17:47 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

◆14、高熱でもやめない

 ある日、いざ視察に出かけようとすると、少しからだがふらふらしました。顔が赤くほてっています。「司教さま、失礼」といって、そばにいた人が、触れてみてびっくり、山地の村々の教会を視察するために馬にのってけわしい道を。

 大変な高熱です。

「まあ、ひどい熱!司教さま、危いからおやめになってください」といっても、かれは承知しません。

「心配はいりません、よい人たちの祈りが、わたしを支えていてくれますから」そういって、また出かけて行くのでした。

 まもなく、かれについて聖人のうわさが広がっていきました。行く先々の町や村で、お母さんたちが病気の子どもを連れていって、かれに差し出します。その度に、大司教さまが祝福を与えると、かならず病人は、いやされていました。

「わたしのおかげでなおったなんて、絶対にいってはなりませんよ、なおしてあげたのは、聖母マリアさまですから」とかれは.その度に、かたく命じるのでした。

 またかれは、新しいお聖堂や祭壇の聖別式を熱心におこなっていました。25年間に、かれが聖別した聖堂は、なんと280、祭壇は170にも達しました。それにしても、聖別式はひじょうに長くかかる式だったから、大変な努力だったにちがいありません。

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聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒  St. Simon et St. Juda Ap.

2018-10-28 04:08:11 | 聖人伝
聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒  St. Simon et St. Juda Ap.  祝日 10月28日


 聖書を見れば、主が公生活に入られて諸所を遍歴、さまざまの奇蹟を行い、世人を驚倒せしめ、ナザレトに帰郷、ここかしこの会堂で教えを宣べ給うた時、人々は感嘆して「あれは職人の子ではないか?あの母親はマリアといい。あの親戚はヤコボ、ヨゼフ、シモン、ユダなどという者ではないか?そういう身分の彼があんな深い智慧や奇蹟を行う力を、一体何処で得て来たのだろう?」と語り合ったとあるが、この言葉から一つの興味ある事実が判明する。それは外でもない、主が使徒と選び給うた12人の中ヤコボ、ユダの二人が主の親戚であったという事である。もちろんこのユダは主を敵の手に引き渡したあのイスカリオテのユダとは別人で、それと区別するためタデオ(勇者)とあだ名され、またヤコボはヨハネの兄の同名の使徒大ヤコボと異なり、世に小ヤコボと呼ばれている人である。
 右の二人は聖ヨハネがその聖福音書に記している聖母の御親戚、クレオファの妻マリアの子供であった。故に彼等は二人ともイエズスの従兄弟に当たっている。
 この中、小ヤコボは永らくエルサレムの教会を指導し、西暦62年キリスト教を憎むユダヤ人等に神殿の屋上から突き落とされ、棍棒で打ち殺されて殉教の栄冠を得た。これは歴史的に確実な事であるが、他の二人の、聖霊降臨後の動静についてはあまりよく知られていない。
 とはいえ、ユダ・タデオがその後ユダヤの国で主の聖教を宣べ伝え、信者を牧したことは間違いあるまいと思われる。何となれば、新約聖書に収めてある彼の書簡は、パレスチナのユダヤ人キリスト信者の教会に宛てられているからである。彼はその中で、当時ようやくここかしこに現れ始めた異端者に就き信徒の注意を促し、その謬説に惑わされぬよう誡めているが使徒の首領ペトロさえ、ローマの信者に送った書簡中にその戒告を用いているのを見れば、いかにユダ・タデオの垂訓が適切なものであったか知ることが出来ると同時に、また彼の筆致がさながら警世の預言者の如きを見ても、その信仰の熱烈さが窺われる次第である。ちなみにこの書簡はエルサレム滅亡の前に書かれたものであるらしい。伝説によれば聖ユダは、アラビア、シリア、メソポタミア、ペルシャまで布教し、最後にペルシャで殉教したとされている。



 次に聖シモンはマタイとマルコの福音書によるとカナン人であった。彼の身の成り行きに就いてはさまざまの伝説があり、いずれを真とすべきやを知らないが、本日聖ユダ・タデオと共に之を記念するのは、彼同様ペルシャ方面に布教したと言い伝えられているからである。なお聖書中に彼がゼロテ(熱心者)とあだ名されているのは、彼がモーゼの律法を守るに甚だ熱心であったに因る。
 シモンは最後にのこぎりで引かれて殉教したという。それで彼の肖像にはのこぎりを手にしている様を描くのが普通である。
 主は嘗て「まことにまことに汝等に告ぐ、麦の粒地に落ちて、もし死せざれば唯一つにして止まるももし死すれば多くの実を結ぶ」と仰せられたが、タデオにせよシモンにせよ、身命を抛つまで聖教の弘府に力を尽くし、以て数多の霊魂を救ったのは、実に右の聖言に適った偉大な犠牲の英雄と言わざるを得ない。その勲功が如何に輝かしいものであるかは、今青史にあとを留めぬとは言え、「世あらたまりて人の子その光栄の座に坐し給い、使徒達もまた12の座に坐してイスラエルの12族を審く」時に至って明らかになるであろう。


教訓

 使徒聖ユダや聖シモンの如く一心に主の御為に働いて、しかも何人にも知られず生涯を終わる事は、少しでも利己心があり、名誉欲ある者には耐えられぬ淋しさであるかも知れない。けれども主の御光栄をのみ心がけて己を捨て去っていた聖使徒には、それだけで既に言い尽くせぬ大満足大歓喜を覚えていた事であろう。力の限り働いて成敗は主の御旨に委ね、露ほども利己を求めぬ安らかな心境、それは我等凡人の一朝にして至り難い境地に相違ないが、右の両使徒を鑑として、一歩でも之に近づくように努力したいものである。



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