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シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者 12、小教区視察

2018-10-24 02:13:12 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

◆12、小教区視察

 ミラノの大司教区は世界最大の司教区で、そのなかに、900もの小教区をもっており、信者数も、ざっと300万人以上です。かれは、すべての小教区視察を決意しました.1930年からはじめ、手はじめに、ミラノ大聖堂の小教区を視察し、順番に、他の小教区をまわり、25年間に、すべての所に4回以上の視察を実行しました。視察に行ったときには、かれは、4回から5回も説教し、ミサには、すべての信者にひとりでご聖体を配ったのです。もちろん日曜日だけではありません、平日にも行きました。

 自動車はあっても、山地にはそのための道もなかった当時のことです。ときには、道とさえいえないような所が多かったので、場合によっては、馬にのり、またあるときは、歩いて行くよりはかに方法のないこともありました。

 2~3か所ひじょうに離れた村があって、ここの山道はひどいもので、手と足を使ってよじのぼる必要さえありました。また、あるときは、途中で大雨にあい、雨やどりする所もないままに、ずぶぬれになったことも一度や二度ではありませんでした。

 馬が使えなくて、ラバに乗って出かけることもありました。こんなとき、ラバは、天気があまり悪いと、いやがって、歩こうとしません。ぐんと、ふんばってテコでも動かないつもりです。お供のものは、もう忍耐を失ってしまいます。それで、お供は交代ですることになっていましたが、シュステル大司教は、いつも、どんなときでも、やりぬくのです。あまりのことに医者が、「そんなことしていらっしゃったら、いつか、きっと、やられますよ、とても危険です」と注意しました。でも、かれは、ものともしません。そして、そのとおり、決して病気になったことはなかったのです。

 田舎の教会に出かけていったときも、変えません、ミサは、朝の5時きっかりです。

「まあ、大司教さま、5時だなんて早すぎますよ、そんな時間には、だれも来ませんよ」と驚いて主任司祭。

「いいえ、ミサは5時です。みんなに5時にあると知らせなさい」と、かれは命じたのです。

 次の朝、主任司祭は、びっくりしました。5時15分前にもうお聖堂は、信者でいっぱいになっています。みんなは、大司教さまのミサにあずかりたかったのですから……。

 さて、ミサがはじまりますが、あんまり数が多いときは、他の神父さまにご聖体を配るのを手伝ってもらわねば、まにあいません。それで、ちゃんとそう決めていたのですが、今度は信者が承知しません。みんなは、直接大司教さまの手から、ご聖体をうけたかったのです。

 かれ以前の司教たちは、こんなに正式の視察をしなかったので、かれによって、貴重なものが発見されました。つまり、香部屋や司祭館の記録所をくわしく醐べているうちに、知られていなかった殉教者たちの遺物や、貴重なる書類がみつかったのです。

 視察に行った小教区に、もし病人がいるときは、この新しい大司教は、なるべく見まうようにしていましたが、重病であれば、それは絶対的なことになってしまいます。

写真:教皇ピオ11世ご自身により、ミラノ大司教に叙階される

小さなことを大きな愛で行え 聖マキシミリアノ・コルベ

2018-10-24 02:11:34 | 格言・みことば
小さなことを大きな愛で行え。功徳の大きな泉である。目的に目をすえよ。あまり価値のない事が、時としては知られない一つの良いこと、悪いことの中の一つの悪いこと。

聖マキシミリアノ・コルベ

聖アントニオ・マリア・クラレ司教  St. Antonius Maria Claret

2018-10-24 02:09:21 | 聖人伝
聖アントニオ・マリア・クラレ司教  St. Antonius Maria Claret   記念日 10月24日


 彼は1807年にスペインで生まれた織工の息子で、1835年に司祭に叙階された。5年後彼は与えられた教区の布教を開始し、カタロニア中の施設をまわり、1849年にもっと大規模に仕事を進めていくために、現在ではクラレティアン宣教会と呼ばれている団体を創立した。同じ年に、女王イサベル2世の要請で、キューバのサンチアゴの大司教に挙げられた。この司教区の人々は、ひどい状態の中にあり、クラレの厳格な改革の方法は、彼の生涯に幾つかの試練を引き起こした。1857年に、女王は自分の宗教顧問とするために彼を呼び戻した。その地位は、説教と出版による宣教活動を進める時間を彼に与えるものであった。彼はまた、エスコリアルに科学実験所を設立し、自然歴史博物館、音楽学校と言語学学校を建て、またバルセロナに宗教図書館を設立した。1868年の革命の時に、彼はイサベル女王と亡命に同行し、もはやスペインに戻ってくることはできなかった。彼は1870年にナルボンヌの近くで死去し、1950年に列聖された。


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