『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
11 項羽と劉邦
5 楚漢の争い
鴻門の会から数日をへて、項羽は軍を西にすすめた。
咸陽にいたるや、秦の降王子嬰(しえい)を殺し、宮殿を焼きはらった。
火は三ヵ月にわたって消えず、軍は財宝と婦女をおさめて東にかえった。
このとき項羽に対し、関中に都をおけば天下の覇者たらん、と説いた者があった。
しかし項羽は故郷を思う心が強く、
「富貴にして故郷に帰らざるは、錦(にしき)をきて夜ゆくがごとし、だれか、これを知る者ぞ」
といって、したがわなかった。そこで、ある者がいった。
「人の言に、楚の人は沐猴(もくこう)にして冠するのみ(サルが冠をつけたに過ぎず)と。はたして然(しか)り」。
これを聞いて項羽は、その男を煮殺(にころ)した。中原の人士のあいだでは、なお楚の人に対する軽蔑(けいべつ)の心がつよい。
項羽の軍の暴状をみて、その感をいっそうあらたにしたにちがいなかった。
さて項羽は、表むきこそ懐王をたっとんで、義帝という称をささげたが、やがてみずから西楚の覇王と称し、もとの梁や楚の地の九郡を領した。
これより、かってに諸侯を分封する。戦国時代の諸国は、その王族や部将を王として復活された。
関中の地は、かねての約束とちがって、項羽に降状した秦の将軍三人にわかち与えられた。そして劉邦には、漢王として、漢中および巴蜀(はしょく=四川)の地を与えた。奥地に押しこめて、中央への進出をはばもうとしたのであった。
ついで項羽は、義帝を長江のほとりにうつし、ひそかに殺させた。いまや項羽のふるまいは目にあまるものがある。
不満は日ましに高まり、たちまちにして反乱がおこった。
その機をのがさず、劉邦も立った。項羽をみかぎって、劉邦のもとに走る者もすくなくなかった。
劉邦は関中に出撃し、その三王国をほろぼした。それより函谷関をこえ、挙兵より半年にして洛陽にたっした。
ここで義帝の死を知り、天下につげて、逆賊を討とうとよびかけた。
おりから項羽は、斉における反乱をしずめようと、東方に出撃している。
そのすきをねらって、劉邦は、いっきょに項羽の本拠(彭城)を突いた。
しかし項羽もさるもの、ただちに手兵をひきいて疾風のごとく取ってかえし、漢軍のゆだんに乗じて、おおいに破った。
敗走する漢軍は雎(すい)水の岸に追いつめられ、十余万の士卒が水中におとされた。
ために雎水は死屍でうずまり、川の流れがせきとめられた。
劉邦は、数十騎とともに、ようやく脱出した。
故郷の沛によって家族をさがしたが、すでに逃げさっていて、ゆくえがわからない。
西へむかう道で、はからずも子どもたちをみつけた。
のちの恵帝と魯元(ろげん)公主(皇帝の娘)であった。いそいで自分の車にのせた。
しかし楚の騎兵が追いせまってきたので、劉邦は二人の子どもを車から突きおとした。
部下の夏候嬰(かこうえい)が、ひろいあげては車にのせ、これをくりかえすこと、三度におよんだ。
これより二年あまり、中原における攻防では、つねに楚軍が優勢であった。劉邦は、しばしば死地におちいった。
しかし漢軍のなかには、蕭何(しょうか)のごとき知謀の士があり、よく兵站(へいたん)をひきしめて、兵員や糧食の補給を欠かさなかった。
また陳平のような奇略の士があり、ときに応じて間諜をはなっては、項羽の陣営の内部を攪乱(こうらん)した。
これに乗せられて項羽は、范増までも疑い、ついに范増を去らせてしまったのである。
しかし楚の優勢をみて、諸侯の多くは楚とむすんだ。斉も、魏も、趙も、項羽の側についた。
これを、つぎつぎに破っていったのが、韓信である。
その巧妙な用兵によって、二年のあいだに山西から山東まで、北方の地をことごとく平定してしまった。
それが天下の大勢を定めたのであった。主戦場における対戦では優位をたもっていても、背後の地をうしなっては、さしもの項羽も、しだいに守勢に立たざるをえなくなった。
漢の軍は四方から追いつめていった。
11 項羽と劉邦
5 楚漢の争い
鴻門の会から数日をへて、項羽は軍を西にすすめた。
咸陽にいたるや、秦の降王子嬰(しえい)を殺し、宮殿を焼きはらった。
火は三ヵ月にわたって消えず、軍は財宝と婦女をおさめて東にかえった。
このとき項羽に対し、関中に都をおけば天下の覇者たらん、と説いた者があった。
しかし項羽は故郷を思う心が強く、
「富貴にして故郷に帰らざるは、錦(にしき)をきて夜ゆくがごとし、だれか、これを知る者ぞ」
といって、したがわなかった。そこで、ある者がいった。
「人の言に、楚の人は沐猴(もくこう)にして冠するのみ(サルが冠をつけたに過ぎず)と。はたして然(しか)り」。
これを聞いて項羽は、その男を煮殺(にころ)した。中原の人士のあいだでは、なお楚の人に対する軽蔑(けいべつ)の心がつよい。
項羽の軍の暴状をみて、その感をいっそうあらたにしたにちがいなかった。
さて項羽は、表むきこそ懐王をたっとんで、義帝という称をささげたが、やがてみずから西楚の覇王と称し、もとの梁や楚の地の九郡を領した。
これより、かってに諸侯を分封する。戦国時代の諸国は、その王族や部将を王として復活された。
関中の地は、かねての約束とちがって、項羽に降状した秦の将軍三人にわかち与えられた。そして劉邦には、漢王として、漢中および巴蜀(はしょく=四川)の地を与えた。奥地に押しこめて、中央への進出をはばもうとしたのであった。
ついで項羽は、義帝を長江のほとりにうつし、ひそかに殺させた。いまや項羽のふるまいは目にあまるものがある。
不満は日ましに高まり、たちまちにして反乱がおこった。
その機をのがさず、劉邦も立った。項羽をみかぎって、劉邦のもとに走る者もすくなくなかった。
劉邦は関中に出撃し、その三王国をほろぼした。それより函谷関をこえ、挙兵より半年にして洛陽にたっした。
ここで義帝の死を知り、天下につげて、逆賊を討とうとよびかけた。
おりから項羽は、斉における反乱をしずめようと、東方に出撃している。
そのすきをねらって、劉邦は、いっきょに項羽の本拠(彭城)を突いた。
しかし項羽もさるもの、ただちに手兵をひきいて疾風のごとく取ってかえし、漢軍のゆだんに乗じて、おおいに破った。
敗走する漢軍は雎(すい)水の岸に追いつめられ、十余万の士卒が水中におとされた。
ために雎水は死屍でうずまり、川の流れがせきとめられた。
劉邦は、数十騎とともに、ようやく脱出した。
故郷の沛によって家族をさがしたが、すでに逃げさっていて、ゆくえがわからない。
西へむかう道で、はからずも子どもたちをみつけた。
のちの恵帝と魯元(ろげん)公主(皇帝の娘)であった。いそいで自分の車にのせた。
しかし楚の騎兵が追いせまってきたので、劉邦は二人の子どもを車から突きおとした。
部下の夏候嬰(かこうえい)が、ひろいあげては車にのせ、これをくりかえすこと、三度におよんだ。
これより二年あまり、中原における攻防では、つねに楚軍が優勢であった。劉邦は、しばしば死地におちいった。
しかし漢軍のなかには、蕭何(しょうか)のごとき知謀の士があり、よく兵站(へいたん)をひきしめて、兵員や糧食の補給を欠かさなかった。
また陳平のような奇略の士があり、ときに応じて間諜をはなっては、項羽の陣営の内部を攪乱(こうらん)した。
これに乗せられて項羽は、范増までも疑い、ついに范増を去らせてしまったのである。
しかし楚の優勢をみて、諸侯の多くは楚とむすんだ。斉も、魏も、趙も、項羽の側についた。
これを、つぎつぎに破っていったのが、韓信である。
その巧妙な用兵によって、二年のあいだに山西から山東まで、北方の地をことごとく平定してしまった。
それが天下の大勢を定めたのであった。主戦場における対戦では優位をたもっていても、背後の地をうしなっては、さしもの項羽も、しだいに守勢に立たざるをえなくなった。
漢の軍は四方から追いつめていった。