『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著
◆11、大修道院長の位に
あれから6年後、イルデフォンソ修士は、大修道院長に任命されましたが、当時の教皇ベネディクト15世は、かれに、いろいろの任務をまかせました。
ベネディクト会の大修道院長として、昔からのならわし通り、かれは、小さな教区の教区長をかねました。教区長シュステルは、近くの教会に毎日曜日手伝いに行くことにしていましたが、教区長でありながら、主任司祭を助任ででもあるかのようにして助けていたのです。
信者の成聖のために、ミニ黙想会をはじめていましたが、のちには、感心して、未来の教皇パウロ6世のモンティー二枢機卿まで、これにあずかるほどでした。
ミラノの大司教に1929年、ミラノのトジ枢機卿が帰天したおり、当時の教皇ピオ11世は、かれをミラノの大司教に任命しました。このときは、教皇ご自身でかれを大司教に叙階し、さらに、カルディナルにしました。こうして、同じ年の9月8日にシュステル枢機卿は、ミラノ入りをしました。その聖徳の噂は広まっていたので、ミラノ教区の喜びは、ひととおりではありません。
これまでの貴族出身の司教たちにくらべて、こん度は、なんと貧之な家族出身の司教さまでしょう!そのうえ、修道者としてですから、いやがうえにも、みんなの関心をひきました。
それからのち、25年ものあいだ、かれはずっとミラノの大司教でした。そのあいだ、日曜日と祭日は、かならずミラノの司教座大聖堂に姿をあらわして、荘厳なミサをたてました。
ときには、視察に出かけることがあります。また、新しいお聖堂の献堂式に行くことも、また、あるときは、堅信の秘跡を授けに行くこともあります。そんなとき、どんな遠い所であっても、大聖堂のミサにはまにあうように、ぎせいを払っていました。
この手本で、それまで日曜目のミサを怠っていた多くの信者が、次第に忠実になってきました。
写真:大修道院艮の位にあげられた当時。
◆11、大修道院長の位に
あれから6年後、イルデフォンソ修士は、大修道院長に任命されましたが、当時の教皇ベネディクト15世は、かれに、いろいろの任務をまかせました。
ベネディクト会の大修道院長として、昔からのならわし通り、かれは、小さな教区の教区長をかねました。教区長シュステルは、近くの教会に毎日曜日手伝いに行くことにしていましたが、教区長でありながら、主任司祭を助任ででもあるかのようにして助けていたのです。
信者の成聖のために、ミニ黙想会をはじめていましたが、のちには、感心して、未来の教皇パウロ6世のモンティー二枢機卿まで、これにあずかるほどでした。
ミラノの大司教に1929年、ミラノのトジ枢機卿が帰天したおり、当時の教皇ピオ11世は、かれをミラノの大司教に任命しました。このときは、教皇ご自身でかれを大司教に叙階し、さらに、カルディナルにしました。こうして、同じ年の9月8日にシュステル枢機卿は、ミラノ入りをしました。その聖徳の噂は広まっていたので、ミラノ教区の喜びは、ひととおりではありません。
これまでの貴族出身の司教たちにくらべて、こん度は、なんと貧之な家族出身の司教さまでしょう!そのうえ、修道者としてですから、いやがうえにも、みんなの関心をひきました。
それからのち、25年ものあいだ、かれはずっとミラノの大司教でした。そのあいだ、日曜日と祭日は、かならずミラノの司教座大聖堂に姿をあらわして、荘厳なミサをたてました。
ときには、視察に出かけることがあります。また、新しいお聖堂の献堂式に行くことも、また、あるときは、堅信の秘跡を授けに行くこともあります。そんなとき、どんな遠い所であっても、大聖堂のミサにはまにあうように、ぎせいを払っていました。
この手本で、それまで日曜目のミサを怠っていた多くの信者が、次第に忠実になってきました。
写真:大修道院艮の位にあげられた当時。