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シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者 11、大修道院長の位に

2018-10-23 00:43:01 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

◆11、大修道院長の位に

 あれから6年後、イルデフォンソ修士は、大修道院長に任命されましたが、当時の教皇ベネディクト15世は、かれに、いろいろの任務をまかせました。

 ベネディクト会の大修道院長として、昔からのならわし通り、かれは、小さな教区の教区長をかねました。教区長シュステルは、近くの教会に毎日曜日手伝いに行くことにしていましたが、教区長でありながら、主任司祭を助任ででもあるかのようにして助けていたのです。

 信者の成聖のために、ミニ黙想会をはじめていましたが、のちには、感心して、未来の教皇パウロ6世のモンティー二枢機卿まで、これにあずかるほどでした。

 ミラノの大司教に1929年、ミラノのトジ枢機卿が帰天したおり、当時の教皇ピオ11世は、かれをミラノの大司教に任命しました。このときは、教皇ご自身でかれを大司教に叙階し、さらに、カルディナルにしました。こうして、同じ年の9月8日にシュステル枢機卿は、ミラノ入りをしました。その聖徳の噂は広まっていたので、ミラノ教区の喜びは、ひととおりではありません。

 これまでの貴族出身の司教たちにくらべて、こん度は、なんと貧之な家族出身の司教さまでしょう!そのうえ、修道者としてですから、いやがうえにも、みんなの関心をひきました。

 それからのち、25年ものあいだ、かれはずっとミラノの大司教でした。そのあいだ、日曜日と祭日は、かならずミラノの司教座大聖堂に姿をあらわして、荘厳なミサをたてました。

 ときには、視察に出かけることがあります。また、新しいお聖堂の献堂式に行くことも、また、あるときは、堅信の秘跡を授けに行くこともあります。そんなとき、どんな遠い所であっても、大聖堂のミサにはまにあうように、ぎせいを払っていました。

 この手本で、それまで日曜目のミサを怠っていた多くの信者が、次第に忠実になってきました。

写真:大修道院艮の位にあげられた当時。

聖セヴィリノ・ボエチオ殉教者 St. Severinus Boethius

2018-10-23 00:39:13 | 聖人伝
聖セヴィリノ・ボエチオ殉教者 St. Severinus Boethius      記念日 10月23日


 ボエチオは480年、ローマのアニチイ家という有名なキリスト教の家庭に生まれ、早く父を亡くしたため、元老院議員アウレシウス・シマクスに引き取られて、その娘のルスチカナと結婚した。
 510年ボエチオはローマの執政官となり520年から2年間東ゴート族のテオドリック王の高官として仕えたが、不幸にしてテオドリック王に対する謀叛を起こしたと訴えられた。彼は東のユスチヌス1世皇帝をテオドリック王の代わりに王位につけようとしたと言われ、また魔術師で、正しい秩序を破壊する手紙を書いたと非難されたのであった。
 ボエチオは9ヶ月間パヴィアの牢獄に入れられ、その間に有名な「哲学の慰め」のほかに三位一体についての論文も書いた。これはエウティケスとネストリウスの異端を攻撃して書かれたものであるが、この他に3つの神学的著作があった。また数学と音楽に関する著作もある。アリストテレスとチチェロについての注釈書も書いている。
 しかし、中でも「哲学の慰め」は彼の傑作として残っている著作である。それは5巻で構成され、その中で自分が苦しみのため早く老けたこと、しかし神が世界を治められることに対する自分の喜び、自分についての真の知識、悪は必ず罰せられ、徳は最後には報いられること、真の幸福はただ神の中にのみ見出されることなどが述べられている。この本は中世期における最も評判のよい本の一つになった。
 ボエチオが亡くなったのは524年であったが、200年後に彼の遺骨はパヴィアのサン・ピエトロ教会に安置され、今日まで残っている。


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