『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
12 カエサルとクレオパトラ
1 青年カエサルの政界進出
ユリウス・カエサル、いわゆるシーザーの名前はすでにこれまで何度か出てきたが、これからカエサルに照明を当てて、彼の活動と死をとおして激しいテンポで進んでゆく、ローマ共和政のフィナーレを眺めてゆくことにしよう。
カエサルが属しているユリウス氏は古い貴族であるが、祖先にこれという重要な人物はでていなかった。
彼自身は父方は女神ヴィナスの血筋、つまりあの建国伝説の英雄エネアスの末裔(まつえい)であり、母方は第四代の王アンクス・マルキウスの子孫であると自慢していた。
これはもちろんはっきりした証拠があってのことではないが、のちにヴェルギリウスの『アエネイス』においても、そのように歌いあげられた。
確かなのは、彼の伯母(父の姉)がマリウスの妻となったため、民衆派のひとりと見なされるようになったことである。
のちに彼は民衆派の領袖(りょうぢゅう)キンナの娘コルネリアを娶(めと)ったので、その立場はいっそう明らかになった。
彼は当時のローマ名門の子弟と同じく、修辞学や弁論術を学ぶために、ロードス島に行った。
紀元前七五年、彼が二十五歳のときのことである。
そのおりエーゲ海を航海中、彼は海賊につかまり、身代金を要求された。
その金額をきいてカエサルは「そんな、はした金でよいのか」と笑いとばし、要求額の倍以上の身代金を払おうと約束した。
「おれの値打はもっと高いのだぞ」と、みえをはったのである。
とはいっても、その場に現金のもち合わせはないので、部下を各地に金の調達に出向かせた。
その間、彼は人質になって四十日近く海賊たちとくらし、彼らとゲームをしたり、詩や演説を作って読んできかせたりし、それをほめない者がいると「しばり首にしてやるぞ」とおどしつけた。
しかしそれを真にうけない海賊たちは、おもしろがっていわせておいた。
そのうちに身代金がとどいて、釈放された。
するとカエサルはすぐに彼のほうから攻撃をかけて、海賊たちを捕え、処刑してしまった。
海賊のほうがまんまと、してやられたのである。
このエピソードは真偽のほどは少し問題もあるが、カエサルの人柄をよく伝えているといってよい。
それから彼は順序をふんで官職を昇進したが、そのあいだに、選挙や人気とりのため気前よく金をまいては莫大な借金をしょいこんだ。
しかし彼は平気な顔をしていた。
そのうちに利子つきで返済できるという政治上の目算があったからである。
じっさい、終身職の大神官のほか、法務官、イスパニア総督を経て執政官となり、前にのべたようにポンペイウスとクラッススとともに三頭政治を結んだ。執政官としてカエサルは、カンパニアをのぞくイタリアの公有地を、都市の土地をもたない平民やポンペイウスの老兵に分配する大規模な土地法案を、元老院に提出したが、例によって小カトーなどの反対にあって、うまくゆかなかった。
民会にかけると、ここでも閥族派の反対が強かったので、民会をポンペイウスの老兵で固めた。
彼の同僚執政官で、閥族派のビプルスが反対しようとしたが、頭から糞尿をかけられて、他の閥族派の者たちとともに民会から追い出され、土地法案は成立した。
さらにカンパニアの公有地を三人以上の子供のある市民二万人に分配し、属州の徴税請負額を合理化し、エジプトとの同盟をとりきめた。
こうして一年間の執政官の任期が終わると、紀元前五八年以来五年間、「アルプスのこちらのガリア」とイリリタムの知事となることが民会で承認された。
首都ローマを離れる前に、彼は中央政界から政敵をのぞいておこうと謀った。
彼はまた三頭政治の成立後、最初の妻コルネリアとのあいだの娘ユリアを三十も年長のポンペイウスと結婚させ、後顧(こうこ)の心配なく、ガリアに赴任(ふにん)して、新しい任務につくことができた。
12 カエサルとクレオパトラ
1 青年カエサルの政界進出
ユリウス・カエサル、いわゆるシーザーの名前はすでにこれまで何度か出てきたが、これからカエサルに照明を当てて、彼の活動と死をとおして激しいテンポで進んでゆく、ローマ共和政のフィナーレを眺めてゆくことにしよう。
カエサルが属しているユリウス氏は古い貴族であるが、祖先にこれという重要な人物はでていなかった。
彼自身は父方は女神ヴィナスの血筋、つまりあの建国伝説の英雄エネアスの末裔(まつえい)であり、母方は第四代の王アンクス・マルキウスの子孫であると自慢していた。
これはもちろんはっきりした証拠があってのことではないが、のちにヴェルギリウスの『アエネイス』においても、そのように歌いあげられた。
確かなのは、彼の伯母(父の姉)がマリウスの妻となったため、民衆派のひとりと見なされるようになったことである。
のちに彼は民衆派の領袖(りょうぢゅう)キンナの娘コルネリアを娶(めと)ったので、その立場はいっそう明らかになった。
彼は当時のローマ名門の子弟と同じく、修辞学や弁論術を学ぶために、ロードス島に行った。
紀元前七五年、彼が二十五歳のときのことである。
そのおりエーゲ海を航海中、彼は海賊につかまり、身代金を要求された。
その金額をきいてカエサルは「そんな、はした金でよいのか」と笑いとばし、要求額の倍以上の身代金を払おうと約束した。
「おれの値打はもっと高いのだぞ」と、みえをはったのである。
とはいっても、その場に現金のもち合わせはないので、部下を各地に金の調達に出向かせた。
その間、彼は人質になって四十日近く海賊たちとくらし、彼らとゲームをしたり、詩や演説を作って読んできかせたりし、それをほめない者がいると「しばり首にしてやるぞ」とおどしつけた。
しかしそれを真にうけない海賊たちは、おもしろがっていわせておいた。
そのうちに身代金がとどいて、釈放された。
するとカエサルはすぐに彼のほうから攻撃をかけて、海賊たちを捕え、処刑してしまった。
海賊のほうがまんまと、してやられたのである。
このエピソードは真偽のほどは少し問題もあるが、カエサルの人柄をよく伝えているといってよい。
それから彼は順序をふんで官職を昇進したが、そのあいだに、選挙や人気とりのため気前よく金をまいては莫大な借金をしょいこんだ。
しかし彼は平気な顔をしていた。
そのうちに利子つきで返済できるという政治上の目算があったからである。
じっさい、終身職の大神官のほか、法務官、イスパニア総督を経て執政官となり、前にのべたようにポンペイウスとクラッススとともに三頭政治を結んだ。執政官としてカエサルは、カンパニアをのぞくイタリアの公有地を、都市の土地をもたない平民やポンペイウスの老兵に分配する大規模な土地法案を、元老院に提出したが、例によって小カトーなどの反対にあって、うまくゆかなかった。
民会にかけると、ここでも閥族派の反対が強かったので、民会をポンペイウスの老兵で固めた。
彼の同僚執政官で、閥族派のビプルスが反対しようとしたが、頭から糞尿をかけられて、他の閥族派の者たちとともに民会から追い出され、土地法案は成立した。
さらにカンパニアの公有地を三人以上の子供のある市民二万人に分配し、属州の徴税請負額を合理化し、エジプトとの同盟をとりきめた。
こうして一年間の執政官の任期が終わると、紀元前五八年以来五年間、「アルプスのこちらのガリア」とイリリタムの知事となることが民会で承認された。
首都ローマを離れる前に、彼は中央政界から政敵をのぞいておこうと謀った。
彼はまた三頭政治の成立後、最初の妻コルネリアとのあいだの娘ユリアを三十も年長のポンペイウスと結婚させ、後顧(こうこ)の心配なく、ガリアに赴任(ふにん)して、新しい任務につくことができた。