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12 カエサルとクレオパトラ

2018-04-07 17:50:58 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

12 カエサルとクレオパトラ

1 青年カエサルの政界進出

 ユリウス・カエサル、いわゆるシーザーの名前はすでにこれまで何度か出てきたが、これからカエサルに照明を当てて、彼の活動と死をとおして激しいテンポで進んでゆく、ローマ共和政のフィナーレを眺めてゆくことにしよう。
 カエサルが属しているユリウス氏は古い貴族であるが、祖先にこれという重要な人物はでていなかった。
 彼自身は父方は女神ヴィナスの血筋、つまりあの建国伝説の英雄エネアスの末裔(まつえい)であり、母方は第四代の王アンクス・マルキウスの子孫であると自慢していた。
 これはもちろんはっきりした証拠があってのことではないが、のちにヴェルギリウスの『アエネイス』においても、そのように歌いあげられた。
 確かなのは、彼の伯母(父の姉)がマリウスの妻となったため、民衆派のひとりと見なされるようになったことである。
 のちに彼は民衆派の領袖(りょうぢゅう)キンナの娘コルネリアを娶(めと)ったので、その立場はいっそう明らかになった。
 彼は当時のローマ名門の子弟と同じく、修辞学や弁論術を学ぶために、ロードス島に行った。
 紀元前七五年、彼が二十五歳のときのことである。
 そのおりエーゲ海を航海中、彼は海賊につかまり、身代金を要求された。
 その金額をきいてカエサルは「そんな、はした金でよいのか」と笑いとばし、要求額の倍以上の身代金を払おうと約束した。

 「おれの値打はもっと高いのだぞ」と、みえをはったのである。
 とはいっても、その場に現金のもち合わせはないので、部下を各地に金の調達に出向かせた。
 その間、彼は人質になって四十日近く海賊たちとくらし、彼らとゲームをしたり、詩や演説を作って読んできかせたりし、それをほめない者がいると「しばり首にしてやるぞ」とおどしつけた。
 しかしそれを真にうけない海賊たちは、おもしろがっていわせておいた。
 そのうちに身代金がとどいて、釈放された。
 するとカエサルはすぐに彼のほうから攻撃をかけて、海賊たちを捕え、処刑してしまった。
 海賊のほうがまんまと、してやられたのである。
 このエピソードは真偽のほどは少し問題もあるが、カエサルの人柄をよく伝えているといってよい。
 それから彼は順序をふんで官職を昇進したが、そのあいだに、選挙や人気とりのため気前よく金をまいては莫大な借金をしょいこんだ。
 しかし彼は平気な顔をしていた。
 そのうちに利子つきで返済できるという政治上の目算があったからである。
 じっさい、終身職の大神官のほか、法務官、イスパニア総督を経て執政官となり、前にのべたようにポンペイウスとクラッススとともに三頭政治を結んだ。執政官としてカエサルは、カンパニアをのぞくイタリアの公有地を、都市の土地をもたない平民やポンペイウスの老兵に分配する大規模な土地法案を、元老院に提出したが、例によって小カトーなどの反対にあって、うまくゆかなかった。
 民会にかけると、ここでも閥族派の反対が強かったので、民会をポンペイウスの老兵で固めた。
 彼の同僚執政官で、閥族派のビプルスが反対しようとしたが、頭から糞尿をかけられて、他の閥族派の者たちとともに民会から追い出され、土地法案は成立した。
 さらにカンパニアの公有地を三人以上の子供のある市民二万人に分配し、属州の徴税請負額を合理化し、エジプトとの同盟をとりきめた。
 こうして一年間の執政官の任期が終わると、紀元前五八年以来五年間、「アルプスのこちらのガリア」とイリリタムの知事となることが民会で承認された。
 首都ローマを離れる前に、彼は中央政界から政敵をのぞいておこうと謀った。
 彼はまた三頭政治の成立後、最初の妻コルネリアとのあいだの娘ユリアを三十も年長のポンペイウスと結婚させ、後顧(こうこ)の心配なく、ガリアに赴任(ふにん)して、新しい任務につくことができた。

浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

2018-04-07 02:05:12 | 新・旧約聖書まとめ
浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

はしがき


○御主イエズス・キリスト様は、いつこの世にお生まれになりましたか。

△御主イエズス・キリスト様は、預言者たちの告げ置いたと、ユダヤが独立を失い、ヘロデがローマの支配の下にユダヤの王となり、人民はしきりに救世主の御降誕を待ち望んでいたときにお生まれになりました。


○イエズス・キリストさまは、幾年この世に生きながらえなさいましたか。
 その御生涯を、いくつに区分しますか。

△イエズス・キリストさまは、およそ33年の間、この世に生きながらえなさいました。
 その御生涯を3分して、
 私生活(しせいかつ)、
 公生活(こうせいかつ)、
 光栄生活(こうえいせいかつ)となします。

1.私生活(第1年より第30年まで)

御主イエズス・キリスト様の私生活とは、人目を避けて、ナザレトの田舎町にお過ごしになった30年間のご生活を言うのです。この30年間に起こった おもな出来事は、

(1)大天使ガブリエルが、童貞聖マリアへお告げをなしたこと

(2)聖母が従姉エリザベトを御訪問になったこと

(3)御主イエズス・キリスト様の御降誕

(4)その御割礼

(5)幼きイエズス様が、エルサレム聖堂に奉献されたこと

(6)博士たちの参拝

(7)エジプト避難

(8)12歳のとき、エルサレムで見失われたこと

(9)ナザレトにおける30歳までの御生活

これであります。


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聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール司祭

2018-04-07 01:59:41 | 聖人伝
聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール司祭               記念日 4月7日



 近代教育の先駆者と呼ばれるヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サールは1651年フランスのランスで生まれ、10歳で司祭を志して勉強を始め27歳の時叙階された。彼は貧しい少年達の教育に身を献げることを決心して、司教座聖堂参事会員の地位と自分の家族の遺産を放棄し、献身的な教師12人を選んで従順の誓願を立て、1684年、青少年の教育を目的とするキリスト教学校修道会(ラ・サール会)を創立した。会員はごく質素な衣食住に甘んじ、ほとんど無料で青少年の教育にあたったが、新しい教授法をとった結果、学校は非常に良い評判をかち得て、各地から設立を要請された。

 当時行われていたラテン語の読み書きを教える代わりに、まず母国語を教えることを実行した。しかし多くの人々はヨハネを誤解し、貧しい人々になぜ手仕事を教えず、学問をさせるのかと非難した。

 1702年、彼の敵は彼を追い出そうとさえしたが、成功しなかった。イギリスのジェームス2世が退位させられた時、いっしょにフランスへ逃げて来た人々の子供達をヨハネは教育し、ディジョンには非行少年の為の学校を設立した。今日、ラ・サール会の17,000人以上の会員が世界各国で教育事業に従事している。


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