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11-9 カティリナの陰謀とキケロ

2018-04-05 05:06:28 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

11 ローマ共和政の社会的変動

9 カティリナの陰謀とキケロ

 この間にローマではセンセーショナルな事件が起こっていた。
 名門の出身でありながら、濫費と借財で没落したカティリナが、紀元前六四年に翌年度の執政官選挙に、同じ閥族(ばつぞく)のガイウス・アントニウス、それに騎士身分のキケロとともに立候補した。
 しかし閥族派はカティリナを危険人物とみなし、あえて「新人」のキケロをアントニウスとともに当選させた。
 それ以来キケロは閥族派と手を握り、「諸身分の協和」、実際は元老院議員身分と騎士身分の二つの有産層によって体制を維持し、クーデターを防止しようとした。
 紀元前六三年に次年度の執政官選挙が行なわれたとき、カティリナはふたたび立候補し、大規模な借財帳消し案をスローガンとし、彼のような没落貴族やイタリアじゅうの不平分子を糾合しようとした。
 しかし彼はまたキケロと争って敗れたので、自暴自棄となり、武力によって政府を転覆することを計画し、エトルリアでかってのスラの老兵を募り、首都に乱入しようとした。
 キケロは情報網を張ってカティリナの陰謀を探知し、十月、元老院に戒厳令を発動させたが、まだ十分な証拠がなかったので、カティリナは逮捕されず、彼はエトルリアに逃れて、彼の一味と合流した。
 他方ローマにとどまったカティリナの仲間は、サトッルヌス祭の初日である十二月十七日を期して決起し、市街に放火し、執政官をはじめ要人たちを暗殺する手筈(てはず)にしていた。
 この動かない証拠を握ったキケロは、陰謀者五名を捕え、十二月五日、元老院で彼らの即日処刑を求めた。
 この年法務官に当選し、大神官の栄職にもついたカエサルは、未遂の陰謀のためにローマ市民を裁判にもかけず、元老院の議決で処刑することに反対し、終身禁錮を主張したが、大多数の議員はキケロを支持し、とくに小カトー(前世紀の大カトーの曾孫で、生粋の保守主義者)がカエサルに激しく反対したので陰謀者の処刑は実行された。
 カティリナは事の失敗を知り、ガリアに逃れようとしたが、政府軍に追跡されて、一味とともに戦死した。
 こうしてカティリナ陰謀事件は未然に防止され、キケロは名声をあげて、「祖国の父」という栄称を与えられた。
 しかしこの陰謀はローマ市民を裁判にかけないで、即日処刑を要したほどの、さし迫ったものであったかという疑念をなお消しえず、あと味の悪いものにした。
 キケロの将来にも禍根を残し、かえって市民権の尊重と寛大な処置を主張したカエサルが、点数をかせいだともいえなくはない。
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魂と神との霊的一致  十字架の聖ヨハネ

2018-04-05 03:26:40 | 格言・みことば
われわれの魂と神との霊的一致は、休息や甘味、霊的な感惰にあるのではなく、感覚的、精神的な、すなわち、内外的なひとつの生々しい十字架の死のうちにある。

十字架の聖ヨハネ 『カルメル山登坂』
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「第39課 義軍おこる」『旧約のはなし』浦川和三郎司教

2018-04-05 03:25:32 | 新・旧約聖書まとめ
「第39課 義軍おこる」『旧約のはなし』浦川和三郎司教

 マタアチスの義軍

 その時代、エルザレムの西にあたるモジンの町に、マタアチスという信仰のあつい司祭が住んでいました。
深く、世の衰えを悲しみ、罪悪が、日増しにはびこりさかえるのをなげき、ある日、大声をあげて、

「神さまの律法を思う人は、わたくしについてきてください」

とさけんで、ヨハネ、シモン、ユダス、エレアザル、ヨナタスの5人の子どもを伴い、家も何もかも打ち捨てて荒野に走りました。志を同じくする人々がだんだん馳せ加わってきて小さな一隊となりました。マタアチスはその一隊を率いて各地へ出没し、悪人を撃ち、偶像の祭壇をこわし、こどもには割礼をほどこし、このようにして倒れそうになった祖先の道をたすけおこしました。そして、滅びそうになっている信仰を救いあげようと努力しました。

 しかし、マタアチスは、しばらくすると重い病気にかかり、3男のユダスを軍の総督とし、二男のシモンを軍の総督とし、「神さまのため、 国のため、あくまで奮い戦え」と遺言して死にました。


ユダスの勇敢な戦い

 ユダスは武勇絶倫、その敵と戦うにおいては、鉄槌をふるって物を打ち砕くようなありさまでした。
ですから、マカベ(鉄槌という意味)という、ニックネームをもらっていたほどでした。

 常に、少数の軍隊ながらアンチオクスの大軍を破り、最終的にはエルザレムを奪還して神殿をきよめ、異教者の手にけがされたはん祭用の祭壇はぶち壊して、新たにつくりかえ、民を集めて盛大な祭壇奉献式を行いました。

 時は、紀元前165年で、これから、毎年一週間ずつ、この喜ばしき出来事を記念することと定めました。付近の異教者たちは、これまで、シリア方に組してユダヤを荒らし、甘い汁をすすっていたのですから、今後、ユダスがシリア軍を破り、神殿を回復したのをみて、多少不安になったのでしょう、にわかに大軍をかきあつめて攻めよせました。

 ユダスは、祭壇の前にひれ伏して一心に神さまのおん助けを祈り、その後、進んで迎え撃ちました。

 両軍がはげしく撃ち合っている際に、たくましい馬にまたがり、黄金のくつわをつけた、五騎の天使が現われて、2騎は、ユダスを中央に庇って、安全に保護するとともに他の3騎と、敵軍めがけて盛んに槍をなげ、戦場に残しおいた死体だけでも2万5千6百ありました。

 時にアンチオクスはペルシアに遠征を企てていましたが、部下の将軍たちがいくたびユダヤに兵をだしても、みな破られたという知らせを得て大いに怒りました。

「今にみておれ、 エルザレムも何もたたきつぶして1個の墓にしてしまうから」といって、車を急がしていると、にわかに腹がいたみだし、身も、また車から落ちて強く体を打ちました。

 やがて、体内には、ウジがわいて、耐えがたい臭気を放ち、肉はきれぎれに崩れ落ち、非常に苦しんで死にました。

 それからもユダスは東を防ぎ、西に戦い、よせくる敵を打ち払い、ますます威命を輝かせました。しかし、紀元前161年、800の小勢でシリアの2万2千に立ち向かい、その右翼を走らせましたが、左翼に背後をとりまかれ、ついに奮戦してたおれました。

 その後のありさま

 ユダスの死後、ヨナタス、シモンと相次いで父の志を奉じ、神さまのおしえのため、国のために勇ましく戦いました。
シモンが総督となって以来、(149年ー135年)ユダヤは宗教上の自由を回復したばかりではなく、政治上もまったく独立国となり、その内政には、シリアも、あえて、くちばしを入れなくなりました。
シモンに次いで、その子ヨハネ・ヒルカンがたち、30年間、国を泰平に治めました。

 しかし、その子孫は、父祖の美しい徳を忘れて、残虐をほしいままにするやら、兄弟かきにせめぐやらして、そのために、ローマ人の干渉を招くに至りました。

 ついに紀元前40年、エドム出身のヘロデがうまく、ローマの元老院に取り入って、ユダヤの王となりましたので、国家の独立は全く失われました。
この王の晩年、エルザレム城の再築から489年、ローマの建国から748年か749年に、約束の救い主は、ダヴィドの町ベトレヘムに御降誕あそばしたのであります。


 教訓

 神さまを愛する人は、また、国をも愛する人です。
ユダス兄弟の熱烈な愛国心は、その、神さまを愛する心から発したものです。かれらが一身、一家の利害をよそにして、ただ、おしえのために、国のためにつくしたその美しい心根は、1100歳の後までも、美しい光を放って、やみません。



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聖ヴィンセンシオ・フェレリ証聖者  St. Vincentius Ferrerius C.

2018-04-05 03:17:49 | 聖人伝
聖ヴィンセンシオ・フェレリ証聖者  St. Vincentius Ferrerius C.     記念日 4月5日


 聖ヴィンセンシオ・フェレリは中世期に於いて、最も名高い説教家の一人である。彼は殆ど全欧州を歴遊して説教を試み、多大の成功を勝ち得た。しかしこの成功は決して彼の弁舌のみに依ってもたらされたものではない、むしろ彼の聖徳の然らしめた所と言えるのである。

 聖ヴィンセンシオは1357年の1月23日スペインに生まれた。父はワレンチア市の一公証人で、母は名をコンスタンチアと言った。このコンスタンチアとは「忍耐」という意味の言葉であるが、その名の通り彼女はいかにも辛抱強く夫と共に愛子の教育に当たり、ヴィンセンシオもよく両親や先生方の言う事を聞き、精を出して勉強しまた祈ったから、天賦の英才は存分に発揮され、学業の進歩は驚くばかり、その善徳も感嘆すべきものがあった。彼は徳に聖母マリアを信心し、少年時代から既に毎週水曜金曜両日に大斉を守った。
 ヴィンセンシオは18歳の時ドミニコ会の修道院に入った、誓願を立てて後彼はバルセロナ、ワレンチア、バリー等で哲学及び神学を修めた。そして1384年、日頃の研鑽の効空しからず、めでたく神学博士の称号をかちえた。
 が、彼はいかに研究に没頭しても、祈りを怠るような事は決してなかった。否、それどころかその学問上の成功は彼の不断の祈りの賜物という方が当たっていた。のみならず天主は彼の祈りに応えて奇跡を行い給う事さえしばしばあった。
 彼がまだバルセロナに遊学時代の事である。恐るべき飢饉に人々が苦しんでいるときヴィンセンシオは説教の中で、何月何日のいつ頃麦を積んだ二艘の船が入港して救われるであろうと預言した。けれども誰もそれを宛にする者はなかった。おまけに約束の当日は猛烈な暴風雨が襲来し船の到着など思いもよらぬ有様であったから、修院長は軽々しく預言した彼の無鉄砲を非難していた。所がいよいよその時刻が来ると、正しく麦を積み込んだ二艘の船が入港し、人々は餓死の運命を免れる事が出来たのであった。
 また彼がワレンチアにいた時、フランス王カルル6世を訪問される教皇使節枢機卿デ・ルナ卿がその途中同市に立ち寄られた事があったが、卿は彼の学徳兼備に感心してその一行中に差し加えられ、後更に彼をローマ教皇庁に呼び迎えられた。ところがその頃聖会内部に難問題が起こって、ヴィンセンシオはその解決に全力を尽くしたが、不幸成功しなかったので、彼は心労の余り病床に倒れ、死も程遠からず思われた時、ある夜主イエズスがドミニコ、フランシスコ両聖人を従えて彼に現れ給い、「ヴィンセンシオよ、起て、我は汝がわが名によりてフランス、スペイン両国に説教せん事を望む。汝は他日異境に於いて死せん、されど行きて人々の罪をいましめ、審判の日は近づきたりと告げよ!」と仰せになった。それから彼の頬に御手を触れ給うと、彼の病は全く癒えた。
 彼が主から託された使命を果たすための許可を教皇から与えられたのは、その二年後の事であった。彼は1398年説教行脚を始め、死ぬ1419年までその活動をやめなかった。その行脚は主に徒歩で、年老いてからはロバの背を借りた事もあった。そしてその間も厳しい大斉を守り、余暇あればことごとく祈りに献げた。彼には常に同じ修道会の兄弟が幾人かつき従っていた。それは告解を聴いたり聖式を行ったりする手伝いをする為であった。また改心者や彼に教えを請わんとする人々の群れも、いつも彼から離れなかった。
 ヴィンセンシオは天主から不思議な力を恵まれていた。その一つは聖霊降臨の際にエルサレムにおける例の如く、彼が自国語スペイン語で説教しても、フランス人が聞けばフランス語に聞こえ、ドイツ人が聞けばドイツ語に聞こえるという能力であった。彼の説教の聴衆はしばしば数千にも上り、伝えられるところによればある時の如きは8万の多きをさえかぞえたという。彼が説教するのは大方戸外の広場に於いてであった。が、それにも拘わらずその声は、隅々までよく響き渡ったという事である。
 1417年彼はブルターニュ候の請いに応じ老体をひっさげてその領地に赴いた。そこは随分風紀の乱れた所であったが、彼の訓戒の効果は著しいものがあり、間もなく弊風も大いに改まった。後聖人は英国に向かおうとしたが、もはや老いの身に力尽きて倒れたので、付き添いの人々は故国スペインへ連れ戻って死なせたいと思い、夕刻フランスのワンヌを出発し、夜通し歩いて明け方よくよく見れば、どうした事かまたまたワンヌの町の門前に辿り着いているのであった。で、ヴィンセンシオは此処で死ぬのが天主の思し召しであると悟ったが、やがて彼は突然危篤に陥り、終油の秘跡を受け、主の御苦難の顛末を朗読してもらい、二、三の詩編の言葉を唱え、合掌して天を仰いだまま安らかに息を引き取った。それは1419年4月5日の事であった。


教訓

 聖ヴィンセンシオは偉大な説教家であった。我等は天主の聖言を喜んで聞き、行為を正して人の鑑となろう。立派な行為も一種の説教であって、多くのよい結果をもたらすものである。



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