カトリック情報 Catholics in Japan

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12-2 ガリア征服の八年間

2018-04-09 15:20:34 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

12 カエサルとクレオパトラ

2 ガリア征服の八年間

 ガリアとよばれるのは、現在の北イタリア、フランス、ベルギーにわたる広大な地域である。
 このうち北イタリアと地中海沿岸の地方は、すでにローマの属州となっていたが、それより北のはるかに広い部分は、まだ手がつけられないでいた。
 そしてそこにはガリア人(ケルト人)が部族をなして住んでいた。
 最初は今のスイスあたりにいたヘルヴェティイ族が、新しい土地を求めて移動しはじめたのにいいがかりをつけて討ち、これを破った。
 そして彼らをもとの土地に帰らせ、彼らと同盟を結んで、ゲルマン人に備えた。
 ゲルマン人はガリア人よりいっそう勇猛で、見るからに恐ろしい民族として、ローマ軍もおじけづいていた。
 カエサルは将兵を叱咤(しった)激励し、彼自身はおちついた態度を失わなかったので、ローマ軍の士気はもりあがってきた。
 カエサルはゲルマン人がうらないによって、新月の前まで戦争をしかけないことを、捕虜から聞きとり、翌日挑戦して敵をいらだたせ、撃破した。
 その次の年には、今のベルギー地方に住む勇敢なベルガエ族をも服属させ、名声を高めた。
 それとともに、ガリアで獲得した富をローマでばらまき、勢力地盤をふやしていった。
 しかし同時に反カエサルの動きもめだってきた。
 そこでカエサルは紀元前五六年、北イタリアのルカでポンペイウスおよびクラッススと会見し、三頭政治を更新した。
 すなわちポンペイウスとクラッススが、翌紀元前五五年の執政官になること、その一年の任期が終わると、ポンペイウスはイスパニアに、クラッススはシリアに総督として赴任し、同時にガリアにおけるカエサルの指揮権も五ヵ年延長されることがとり定められた。
 この三人の実力者でローマの政治の大綱を定めてしまい、閥族派の支配する元老院も口出しできなくした。
 また三人は同等の権利をもつようにしながら、それぞれ自分がいちばん有利になるようにと、考えめぐらしていた。
 紀元前五五年、カエサルはライン川を渡って侵入してきたゲルマン人を撃滅し、反対にわずか十日間でライン川に橋をかけて対岸に渡り、そこに十八日間とどまり、ゲルマン人にデモをかけた。
 さらにこの年と翌年の二回、ブリテン島(イギリス)に渡ったが、敵軍のゲリラ戦に悩まされた。
 そのため人質と毎年の貢納(こうのう)をうけることを協定し、征服することは断念した。
 しかしカエサルはローマの将軍のなかで、ライン川を渡り、ブリテン島におもむいた最初の人となった。
 ところが紀元前五二年には、ガリアでケルト人の大反乱が勃発した。
 アルヴェル族の首長ヴェルキングトリクスの呼びかけで、ガリアの多くの部族が反抗に立ち上がった。
 ケルト人の抵抗力は激しく、さしものカエサルも悪戦苦闘し、シーソーゲームの勝敗をつづけ、反乱はガリア全上にひろまった。
 カエサルは敵の主力八万を、要害の地アレシアに、敵よりやや少ない十一軍団の兵力でようやく包囲したが、彼も二十四万のケルト人に外側から包囲され、腹背に敵の攻撃をうけることになった。
 包囲戦が三十日近くつづき、城内の敵軍も、包囲するローマ軍もほとんど食糧が尽きかけた。
 こうして九月末、決戦の幕がきって落とされ、激戦四日におよんだ。

 カエサルの軍勢は槍をすて、剣をとって戦い、文字どおりの白兵戦となったが、ついに最後の勝利はローマに輝いた。
 ケルト人の救援軍は潰走(かいそう)し、ヴェルキングトリクスも城門から出て、カエサルの前に降伏した。
 この戦いでカエサルの作戦と用兵の絶妙さが、あますところなく発揮された。
 このあともケルト人のゲリラ戦はやまなかったが、翌年末までに全ガリアは平定され、前後九年にわたったカエサルのガリア征服は、完全に目的を達した。
 ガリア人の三分の一は戦いに倒れ、三分の一は捕虜や奴隷にされた。
 カエサルは戦利品と課税によって、あの莫大な自分の借金をすっかり整理しただけでなく、大金持ちとなり、今後の政治活動と自分の私兵(クリエンテラ)としての軍隊を養ってゆくための、豊富な資金を獲得した。
 ガリア征服によってローマの発展は地中海の周辺からヨーロッパの内陸にひろまり、そこにローマ文化がしっかりと根をおろした。
 そしてそれによって、ガリアはやがて地中海世界からヨーロッパ世界への歴史の流れのなかで、大きな役割を果たすようになる。

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恐れるものは神ただ一人  聖フランシスコ・ザビエル

2018-04-09 01:17:43 | 格言・みことば
私が、こんなに長時日を要する危険極まる航海に乗り出そうとしていることに対して、友達や私を尊敬する人々は、皆、驚いている。けれども、私としては、この人々の信仰の薄いのを見て、もっと驚いている。何となれば、我等の聖なる神は、いまだかつて人に見られたことのないシナや日本の海上の暴風雨に対しても、権力や威力をお持ちになっているからである。また神の全能は、あらゆる海賊の上にまで及んでいる。彼等は、あの水域に無数に俳徊し、あらゆる無残な方法を以って、捕虜を苦しめ拷問するという。しかも、これがポルトガル人に対して、特に甚だしいのだという。けれども、我等の聖なる神は、彼等すべてに対して、全能に在すが故に、私は神以外の者は、何人をも怖れない。ただ、私は、神への奉仕に献身したり、イエズス・キリストの聖名を異教人の間に広めたりすることには、役に立たない無益の人間であるが故に、私が怖れるのは、神が、私にお与えになる罰である。友人達から聞いた恐怖や危険や苦労等に対しては、何の心配も抱いてはいない。私には、神への怖れだけが残っている。何となれば、被造物に対する恐怖は、創造主がお許しになる程度にまでしか及ばないものだからである。

聖フランシスコ・ザビエル 「書簡」23:2、1549年、コーチンにて
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浦川和三郎司教「第1課 私生活の30年(2)」『新約のはなし』1949年、中央出版社

2018-04-09 01:14:56 | 新・旧約聖書まとめ
浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

第1課 私生活の30年(2)
我が主の御降誕ー羊飼い及び博士たちの参拝


○童貞マリアの夫は誰でしたか。

△童貞マリアの夫は、義人にして敬虔深い聖ヨゼフでありました。
 天主様は、聖ヨゼフを御子の養父、かつ聖母の保護者とお選びになったのです。夫婦はナザレトに住んでおられました。


○そうすれば、イエズス・キリスト様がベトレヘムに生まれ給うであろうという預言は、どのようにして成就しましたか

△聖母がエリザベトを御訪問になった後、ローマ皇帝アウグストゥスから、国勢調査の命令が下りまして、すべてのユダヤ人は、おのおの原籍地に帰り、その名を届けねばならぬことになりました。聖ヨゼフと聖マリアは、ダヴィド王の後裔で、ダヴィド王はベトレヘムの人でしたから、御両人は戸籍の調べを受けるためにベトレヘムへと旅立ちなさいました。


○ベトレヘムで、何事がありましたか。

△ベトレヘムに着いてみると、戸籍調べのため、多くの人々が各方面から来合わせていますので、貧しい御両人は、宿を求めることができません。やむをえず、町はずれの馬小屋に入って一夜を明かされました。その馬小屋で、12月25日の真夜中に、我らの主イエズスキリスト様は御降誕になり、マリア様はその幼い御身体を産衣に包んで馬槽(うまぶね=かいばおけ)にねかせました。


○第一に御主を礼拝したのは誰でしたか。

△第一に御主を礼拝したのは、羊飼いでした。彼らは、夜中に羊の番をしていますと、突然天使が現れまして、救い主の御降誕を告げました。それからたくさんの天使が天にあらわれて

「最(いと)高きところには神に栄光 地においては善意の人に平和あれ」と歌って、天主様を賛美しました。羊飼いたちは、さっそくベトレヘムの馬小屋に駆けつけ、幼きイエズス様を伏し拝みました。


○羊飼いの次に参拝したのは誰でしたか。

△東国の博士たちでした。
 イエズス様が御降誕になったとき、天に不思議な星があらわれました。それを見た東国の博士たちは、これこそ救い主がお生まれになった印だと悟りまして、その救い主を拝むため、はるばるエルサレムへやってまいりました。

「御降誕になったユダヤの王さまはどこにいらっしゃいます?
 私たちは、東の方でその星を見まして、
 拝みに参ったものであります」
と言いました。

10
○その時ユダヤの王は何をしましたか。

△ユダヤの王ヘロデは、もともと外国人で、悪だくみをめぐらしてユダヤの王位を奪ったものですから、ユダヤの王様がお生まれになったと聞くや、大いにうろたえ、司祭長や学者たちを呼び集めて、救い主の生まれ給うことになっている場所をたずねました。

「それは、必ずベトレヘムに相違ございません、
 預言者がそう言っていますから。」

と、彼らが答えましたので、今度はひそかに博士たちを呼んで星の現れた時を問いただしました。それから、かれらをベトレヘムに送り、

「言って、おさなごのことをよく尋ね、見当たったらば、
 私にも知らせてください。
 私も拝みに参りますから」
と言いました。

11
○その時、博士たちは何をしましたか。

△博士たちは、王宮を出て、ベトレヘム指して進みますと、東国で見た星があらわれて、彼らを案内し、とある家の上に行って留まりました。中へ入ってみると、果たして幼きイエズス様とマリア様がいらっしゃいます。大いに喜んでイエズス様を伏し拝み、王様として黄金を、神さまとして乳香を、死すべき人として没薬(もつやく)を御前にささげました。

 そのとき、天使が現れてヘロデの方に立ち寄らず、ほかの道から帰国するようにと告げたので、彼らは言われたままに従いました。

教訓

 博士たちが天主様に召されるや、飛び立ってこれに従いましたのは、わたしたちにとって、立派な手本であります。



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聖女ワルトルーディス   St. Waltrudis Vid.

2018-04-09 01:13:03 | 聖人伝
聖女ワルトルーディス   St. Waltrudis Vid.          記念日  4月9日


 聖女ワルトゥーディスは680年今のベルギーのヘンネガウ州に生まれた。両親はフランスのメロヴィング王室の親戚にあたり、その血縁からは聖女アデルグンディス、その夫聖ヴィンセンシオ、その三子ランドリコ、聖女マデルベルタ、聖アデルトルーディス等多数の聖人を出している。

 ワルトルーディスは年頃を迎えると父母の希望に従って、マデルガルという貴族の一青年と結婚したが彼等は全くキリスト教的夫婦の典型ともいうべく、己の家庭の祈りの道場とし、財産は慈善事業に投じ、四人の子供は天主の愛子として清く育てた。その中一人は早く死んだが、残る三人は男を聖職者に、女を修道女にしてことごとく天主に献げた。かように敬虔な二人であったから、間もなく子供等の後を追って自らも修道生活に入ろうと望むに至ったのも当然の成り行きと言えよう。

 で、彼等は共にその決心をし、夫マデルガルがまず修道院を建てて修士となり、ヴィンセンシオと名乗って克己修徳の道に入った。妻ワルトルーディスはなお暫く城に留まって慈善と信心の業にいそしんでいたが、ある隠者の勧告に従いカストリエーの山中に入って隠遁生活をしようと思い立ち、司教アウトベルトから修道女のヴェールを授けられ、苦行と祈りとに精進する事となった。その間折々悪魔が以前の安楽な暮らしを思い出させたり、世の快楽を想像させたりして彼女の修道を妨げようと努めた事もあったが、ワルトルーディスは常に勇猛心を以て之と闘い、決してその誘惑に陥るような事はなかったのである。

 ある時モーベージュの女子修道院長である妹のアデルグンディスが彼女の許を訪れ、その庵の貧しさ粗末さに驚き、気の毒に思って私共の修院へおいでになっては如何ですかとすすめたが、之を聞くとワルトルーディスは襟を正し、私共の為天の王宮から降って人の世の貧しい生活に甘んぜられた聖主の事を思えば、この貧しさに住するこそ却って本望ですと言って断ったという。その後ワルトルーディスの高徳の聞こえは漸く天下に高く、風を慕って彼女の指導を仰ぎ、共に修道生活を為すべく集い来る婦人の数も次第に多きを加えたから、やむなく修道院を設けたが、後にその周囲に移り住む者多く、ついにモンとよぶ都市と発展するに至った。

 さて、不退転の努力に完徳を求めたワルトゥーディスは、688年4月9日カストリエーの修道院で永眠したが、その墓は後年その上に壮麗な大聖堂が建築され、今なお多くの信者の尊敬を受けている。

教訓

 聖女ワルトルーディスとその夫は、三人の子をことごとく天主に献げたのみか、後にはわが身をも献げた。しかし彼等は今天国でそれをどれほど幸福に感じているであろう。それは主が「総て我が名の為に或いは家、或いは兄弟、或いは姉妹、或いは父、或いは母、或いは妻、或いは子供或いは田畑を離れる人は百倍を受け、かつ永遠の生命を受くべし」(マテオ19-29)と仰せられた如くこの世の犠牲はあの世で溢れるばかりに報いられるからである。されば我等も短くはかない現世の快楽を捨て去って、永遠不滅の天福を選ぶこそ賢明な道である事を忘れてはならぬ。



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