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志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』、6

2016-07-30 10:19:03 | 召命
志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』

◆6、試練

 心臓の回復は、なかなかはかどらなかった。膨張した心臓は沈静剤などよりも鐵の治療のほうが効果があるとすすめられて、本郷の平方という鐵術師に見てもらった。鐵術は六・七センチもある銀の細い針を患部に刺し込み、神経を刺激して活動を盛んにし、病気を治すという療法である。四・五ケ月この治療を受けて、だいたい平常にもどったので、ゆっくり静養するために郷里へ帰った。数日たって、甲府の県病院へ診察を受けに行ったら、尿にたくさんの蛋白が出ているから、すぐ入院するようにと言われた。《こんどは腎臓か!》九月一日のあの恐ろしい関東大震災は病院で迎えた。

 冬になって、朝鮮の仁川近くで事業をしていた長兄が休みに帰って来た。兄はわたしの入院があまり長いので、疑問を抱き、友人の渡辺医院へ再診察を願いにつれて行ってくれた。渡辺博士は兄と中学の同級生で大阪医大を卒業してドイツへ留学し、東京で病院を経営していたが、震災を受けて甲府へ避難し、仮診療所を開いていた名医である。詳しい診察の結果、博士は、「あなたの病気は腎臓ではなく、起立性蛋白尿症と判断します。起立性蛋白尿症とは、動く程度に比例して蛋白が排泄されて衰弱する病気で、今のところ、病因が器官の故障か細菌によるものか解っていないので、治療の方法がありません。日本にはまだ稀のようですが、ヨーロッパにはしばしば見られます」と言う。そこで、病院を退院して、家で休養することにした。

 「治療の方法がない。だから自然に治るのを待つよりほか仕方がない」この言葉は、わたしに致命的なショックを与えた。《これで、わたしは廃人になるのか。この運命をどうしても諦められない。おぼしめしのままにと頭では理解して祈っているが、心が承知しない。どうしたらいいか?》いくら考えても結論が出ない。ときには、絶望に陥いる衝動に駆られて、眠れない夜が続いた。

 春を迎えて、兄が朝鮮へ帰る日が来た。「家に居てみんなに心配をかけるのが辛いから、どこかへ行って、ひとりで暮したい」と言ったら、兄は、「どこへでもお前が好きな処へ連れて行ってやる。生活費ぐらいは俺が心配するから、心配するな」と慰めてくれた。そこで、兄といっしょに神戸まで行って、下山手教会を訪ねた。

 小学生の頃、岡山の海辺に育ったA先生の話を聞いて、海辺の生活にあこがれていたから、須磨、明石のような風光明眉のところで、魚でも釣りながら、のんびり生活したいと思ったからである。

志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』、7

2016-07-30 10:18:22 | 召命
志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』

◆7、神戸の生活

 ペリン神父は、「いずれ人を頼んで、よい下宿を探してあげるから、当分ここに居たらいいですよ。須磨には教会がない。神戸もよい所ですよ」と親切に迎えてくれた。教会では、皆さんが親切にてくれた。ここで海員共済会病院の副院長S先生に紹介されて、治療を受けるようになった。

 そして一ケ月ばかり教会の世話になって、下宿へ移り、その後アメリカの某銀行支店に勤務している中村善次郎さんから、家庭教師に来てくれないかと頼まれて、そこへ移った。神戸は美しい町である。布引の滝に近い中村さんの家からは港がひと目に見おろされ、朝夕、船の出入りが興味深く眺められた。中村さんには四人の子供があって、長女の愛子さんと長男の信一君がわたしの勉強の相手だった。

 起立性蛋白尿症は致命症ではない。ただ蛋白をあまり失わないようにつまり体を過度に動かさないように気をつけていればよい。それで毎朝尿をとって蛋白の度をしらべ、一日の計画を立てるというわけである。蛋白が少ない時は、遠くまで散歩に行くし、野外で子供たちと遊ぶこともある。

 ところが或る日、不思議が起った。いつものように検尿すると、蛋白が全く出ていない。間違いかと思って二度やって見たが同じである。そこですぐ海員病院へ行って先生に報告すると、先生も半信半疑で、自ら検尿した。

 「不思議ですねえ。わたしも適切な治療をしているわけではないから、それが効いたとは思えない。一時的現象かも知れないから、暫らく様子を見ましょう」と言った。それから毎日続いて検尿したが、全然異状が認められない。そして次第に元気づいて、一・ニケ月したら体重も殖え、晴やかな気持になった。不治の病と宣告されてからわずか一年余りの後である。周囲の人々もみな奇跡だと言って喜んでくれた。

志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』、8

2016-07-30 10:17:47 | 召命
志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』

◆8、サラリーマン

 体力が回復すると、ブラブラ遊んでいるのは申し訳ないと思い、神父に相談した。するとある信者から、日本郵船で職員を募集しているから、応募して見てはどうかと知らされた。願書を出して採用試験を受けたら首尾よく合格し、案じていた体格検査も無事通過して、月給三十五円で勤務することになった。応募者は一五〇名ぐらいだったが、採用されたのはわずか三名、病気あがりのこの体でよくまあ合格したものだと、みんなから不思議がられた。これも、わたしの将来のために用意された神の計画であった。

 会社の仕事は停泊船へ出張して積荷をしらべることで、難しい仕事ではなかった。しかし、ここで学んだのは、船員の生活を通して世俗の一面を見ることであった。

 今の海員は、白いユニホームを着た礼儀正しい紳士のように見えるが、その裏は、海賊の面影が消えていない。特に性道徳については全くゼロである。かれらはよるとさわると女の話、しかも外地で遊んだ自慢話しや失敗談で持ちきりである。そして、わたしがカトリックだと知ると、わたしをからかうように、わざとキリスト教国の遊女のことや、堕落した神父の話を持ち出して、面白がっている。それはわたしにとって一番つらいことで、我慢ができなかった。幸いなことに、係長がわたしをかばってくれたので、かれが同席していると安全だった。あるとき、慰安会があってストリップを見に連れて行かれた。わたしはストリップとは何か知らないので、劇場へ行って驚いた。それは女が裸でこびるような踊りをすることである。わたしは目をつぶって誘惑を退けるようがんばっていたが、同席の同輩や先輩の手前、すぐ逃げ出すこともできず、休憩時間に、口実をつけてやっと逃げ帰ったことがある。

 それでわたしは悩んだ。《こんな所に居たら、堕落してしまう。この際、思い切ってやめてしまおうか?》そして、神父に相談したら、「自分さえしっかりしていたら、かれらの話など馬耳東風に聞き流せる。信仰のない世界は、どこへ行っても同じようなことがあるでしょう。あまり神経質に考えると、世の中に生きて行かれませんよ」という。なるほどと、それからは腹を決めて、まともに受け合わず、適当に対応するように努めた。

 一ケ月経って、はじめて月給をもらった。開けて見たら、本給の外に手当てが三十円もはいっているではないか。これは大学卒業なみの給与である。今まで、親のすねかじりをしていて金のことは何も考えなかったが、自分で働いて見ると金の価値がよくわかって、働くことの尊さを学んだ。会社の仕事は楽しかった。休日には裏山へ登ったり、会社のはいけで須磨の海水浴場へ出掛けた。そして白砂青松の海岸を散歩しながら、不治の病を宣告されて、須磨あたりで余生を楽しもうと望んだことを思い出し、神の不思議な摂理を感謝した。

志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』、9

2016-07-30 10:16:51 | 召命
志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』

◆9、心のささやき

 健康が回復するにつれ、また勉強したいという野心が頭をもたげてきた。こんどは現世の名誉や幸福ではなく、ほんとうに生き甲斐のある生活、つまり神の光栄のために働きたいと願うようになった。わたしは、しばしば過去をふり返った。

 そして、現在の信仰に生きることをひじょうに嬉しく思い感謝した。それで、わたしのような不幸な目に合った青年がいたら、是非助けてやりたいと考えた。そして、それを実行するには何を勉強したらよいか。社会福祉の専門学校へでも行こうかなどと思った。

 それらのことを考えているうちに、「司祭になったらどうか」というささやきを心の奥に感じた。しかし、すぐ反発して、《それはだめだ。わたしなどが神父になれるはずがない。第一に体が弱い、それに頭が足りない。また、独身生活をするような勇気がない。家庭を持って人間的な生活をしたい》。

 その時はそれですんだ。しかし進学を思い、社会のために働きたいと思うと、また、「司祭になれ」という考えが起きて、わたしを悩ました。

 《お前は一度死んだはずだ。だから、その気持ちがあったら、なんでも出来るではないか。これからは神の光栄のために、最も有効な生活を送ろうと言っているではないか》。

 《それはそうです。しかしこれだけは無理です。人には限られた能力があります。わたしは司祭になるような人間ではありません》。

 こんなやりとりが続いているうちに、「司祭になれ」の声がだんだん強くなってきた。わたしは、その都度、《だめだ!だめだ!》と打ち消していたが、平安が得られないので、神父に相談しに行った。するとペリン師は、「神父になるのは、よいことです。しかし、それだけのことで召しだしがあるとは言えません。青年時代には理想に燃えて、そのようなことを考えることがあります。ですから、しばらく様子を見ながら解決を待つことにしましよう。それで、ときどきわたしのところへ来て、心の様子をお話しなさい」と言った。それから一月に一回は神父の指導を仰いだ。

 その頃は召命がなんであるか知らなかった。「ただ司祭になれ」との声を聞いて、それにどう答えてよいか迷っていたのである。《神父になるなどの考えを起すのは、進学に失敗して厭世観に陥っているからではないか。それとも誘惑が多い社会からのがれたいのか。結婚はしたくないのか。そんな考えなら、神父になどならない方がよい》。

 下宿の中村さんは、「わたしもかつて司祭を希望してアメリカへ渡りました。しかし、数年後、指導司祭から召命がないと言われてやめました。司祭に最も必要な独身生活は、神の特別な恵みが必要であって、召命がなければひじょうに困難です。アメリカには、司祭になってから聖職を離れて結婚する人が少くありません。あなたも方針を決める前に、そのことをよく考えて、慎重にことをはこぶべきです」と忠告してくれた。

 《そんなに重大な難しいことなら、もうなにも考えないことにしよう》と、それからは、そういう考えが起るごとに否定して、平静を取りもどそうと努めた。ところがある日、聖書を読んでいると、次のような所が目についた。

 「召された人たちを考えて見るがよい。人間的に言えば知者は多くない。有力者も多くない、身分の高い人も多くない。しかし神は、知恵あるものを辱しめるために、おろかな者を選び、強い者を辱しめるために弱い者を選ばれた。有る者を空しくするために世の賎しい者、軽んぜられている者、無に等しい者を神は選ばれた。それは、神のみ前に誰も誇らないためである」(Iコリント1・26-29)。

 そのとき、わたしは頭でも打たれたように叱りの声を聞いた。《ばかものめ!召命とは神がお前を呼ぶことだ。神がお前を選んで何かを命じられるとしたら、「ハイ」とすなおに答えるべきではないか。体が弱い、頭が足りない、世間を棄てられぬなどと言うのは、みな自己中心の考えであって、傲慢と自愛心からだ。神がお召しになるからには、お役に立つようになんでも助けてくださるはずだ》。

 ペリン師は、これに対して、「あなたがそう考えるのは正しい。何事も神にまかせて祈ってください」と言って、励ましてくれたが、召命のあるなしについては何事も言わなかった。それからは、自分がほんとうに召されているか、どうかが気になって依然として悩みは続いた。

 大正十三年六月、徴兵検査があって郷里へ帰った。元気になったことを皆が喜んだが、検査の結果は、「丙種合格」、これはかたわを除いた、最低の資格で、生涯兵役は免除される。そのお陰で、第二次大戦にも召集をまぬがれて、教会のために働くことができたのも神の摂理であろう。

 その後、ペリン師は、よい信者になるために、どのように生活したらよいか、色々指導してくれた。わたしはその間に多くのことを学んだ。しかし召命の悩みは依然として去らず、時には、聖堂の十字架に向かって、「もしあなたがお召しくださるなら、お顔を一寸右にお向けください」などと、おろかな祈りをすることもあった。

志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』、10

2016-07-30 10:16:25 | 召命
志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』

◆10、帰郷

 年が明けると、甲府のブーヴ神父から手紙が来た。「あなたは司祭になることを希望している由、この四月に神学校へ入学する手続きを取りましたから、三月末に勤めをやめて帰っていらっしゃい」というのである。

 わたしはまた驚いた。《まだ召命があるかないか、はっきりしないのに、そう早合点されてはこまる。おそらくペリン師がかれに知らせたためであろう》と思ったから、同師を訪ねると、「いいじゃないですか。まあ行ってごらんなさい。神学校へはいったら、召命のことも明らかになるでしょう」と気軽な返事である。わたしはいずれにせよ、進学するなら、いま会社をやめたほうが得策だと思って、三月半ばで職をやめて郷里へ帰った。両親に事の次第を話すと、まず母が反対した。

 「何も神学校へ行かなくても、神さまのため、世のために働くことが出来るでしょう」。その顔には、わたしか家庭を持って、孫を見ることを楽しみにしている母親らしい愛情がうかがわれた。父もすぐには賛成しなかった。それは、朝鮮で事業をしていた長兄が、家督を継ぐために、あとを次兄に譲ることにして準備していたところ、次兄は突然不治の病に冒されて帰国してしまったので、そのかわりにわたしを送ろうと考えていたからである。父は立派な信仰を持っていた。だから、それについて思い悩んだと思う。しかし、やがてゆるしてくれた。

 「お前がほんとうに司祭を希望するなら、そしてそれに生き甲斐を見出すなら行ってもよい。しかし言っておくが、司祭になりながら、道を誤るようなことがあったら承知しない。親でも子でもないから、そう思え!」わたしは黙って肯いたが、これでまた不安に襲われた。

《こんな気持ちで神学校へ行っていいのだろうか?》

 春の日ざしは日毎に増して夢のように過ぎ、四月のはじめ、不安のうちにも、何か不思議な力に引かれて神学校行きを決心した。羽織、袴に中折帽子という書生姿で、関口の神学校を訪ねたのは午后三時頃だった。満開の桜並木を通り、突き当りの玄関で案内を乞うと、背の低い丸ぽちゃの青年が来て、校長室へ案内してくれた。あとになって、かれは荒井(勝三郎)神学生だとわかった。当時の神学校は、現在のカテドラルの構内にあって、暁星学園へ通学している中学生が多く、みんなで三十名ぐらい居た。校長はパリー・ミッション会のワスロー師で、赤いあごひげをつけた背の高い司祭だった。こうして、神学校生活を始めたとは言え、依然として召命問題がひっかかっていて、気か晴れなかった。ペリン師は、「神学校へ行けば解るでしょう」と言ったが、ここで何年生活しなければならないのか?

 わたしは不安にたまりかねて、この心境を打ち開けるために、翌々日の夕食後、校長室を訪れた。

 「わたしは何かに引かれるような気持ちで神学校へ参りましたが、召命がはっきりしないので迷っています。それでいいのでしょうか?もし召命がないとお考えなら、明日でも家に帰ります」。

 校長はわたしの顔をジット見つめながら、わたしの生い立ちから今日までの生活について色々尋ねた。特にどうして司祭を志すようになったか、その心境を問いただした。わたしは、中学時代に信仰を失ったこと、病気になって回心したこと、それから会社勤めをしたこと、司祭になれという声を聞きながら、自分の弱さや足りなさを恐れて、それを否定し続けて来たことなど、神の裁きの前に立たされたような気持で、つつみかくさず一切を告白した。こうして二時間も話しただろうか、やがて校長は口を開いて、

「よく解りました。あなたには召命がありますから、安心してください」と言った。わたしは驚いて、《いくら何もかも包まづ話したとは言え、なんのつき合いもない初対面の間柄で、どうしてそんなことが簡単に言えるだろうか?》と疑問を感じたので、思わず校長の顔を見あげた。

 すると、「あなたはわたしの言葉を信じないのですか?わたしはキリストの代理者です。わたしの言うことが信じられないなら、明日にでも荷物をかたづけて帰りなさい」と言う。

 「キリストの代理者!」この厳しい声明にわたしはハッと心を打たれて肯定した。これには一も二もなく、返す言葉かなかったからである。こうして、はじめて安心して神学校へとどまることになった。大正十四年四月四日である。

 神学校の生活は、体の弱い、頭の足りないわたしにとっては、多くの困難があったが、神の恵みにより、すべてを無事に乗り越えて、昭和七年十二月司祭に叙階された。司祭になってからも、肺結核をはじめ、色々の病気に取りつかれて死に頻したこともあったが、どうにか体力を持ち続けながら、負わされた使命をわたしなりに果たして、今日に到っている。これを思うと神の限りない愛とその不思議な摂理に感謝せざるを得ない。