写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

婦負(ねい)の言われ

2013年08月05日 | 歴史・史実

 

「婦負(ねい)郡」の言われ(平成17年2月 婦中町教育委員会)によれば

   昔、越の国と言われた頃、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)が越の国の

   日本一美しいと言われた沼川姫(ぬまかわひめ)と夫婦になられ、その第2の姫

   として生まれた 咲田姫(さきたひめ) がおられました。咲田姫は、成長され

   咲田川(今の井田川)の守り神として越の国を治めておられました。

   一方、大国主命に従い、活躍されていた杉原彦(すぎはらひこ)という神様が、

   当時、原始林だった平野の開拓に取りかかっておられました。

と ある。

 

大国主命はよいとして、

沼川姫」というのは、越の国の沼河(現在の新潟県糸魚川)の地の姫であり、

地元では 奴奈川姫として 伝えられている。

 

姫は 大国主命との間に建御名方の神をもうけたもののの、建御名方命は建御雷神との

力くらべに敗れて諏訪まで逃げ、その地から出ないことを条件に 命ながらえ、

諏訪大社の祭神に祀られた。

 

母の奴奈川姫は逃げる途中で淵に身を投げて御隠れになったので、その淵を

姫ヶ淵といい、その川を姫川というようになったという。

(当時、は頸城郡や大沼郡も越中国だった。)

 

 

その第2の姫として生まれたのが咲田姫なのだから、極めて血筋が良い。

 

 

八百万の神々 のサイトによれば、「辟田彦・辟田姫」という表示になっているが、

咲田川(今の井田川)」が、実は、越中万葉の故地高岡市万葉歴史館)では

「諸説があり所在未詳」として、井田川とは比定していない。

 

歌にも出てくる鵜飼いも、故事にならって売比河鵜飼祭 (めひかわうかいまつり)

して、イベント化もされているのに・・・

 

高岡周辺の川にしておかなければならない理由って、なんだろう?

 (一度 提唱したが膠無 [けんもほろろ] だった・・・)

 

 

同じく、八百万の神々 によれば、「第十代崇神天皇即位10年に、大彦命

勅命を受けてこの地にとどまり耕作の道を教えた」とあるが、

大彦命を祀っているのは鵜坂神社であり、何かごっちゃになっている。

鵜坂神社では建御名方命、つまり、咲田姫の兄も祀っている。

 

 

「咲田姫は井田川の守り神」とされているが、井田には「白山社」があり、

祭神は、全国の2,700社余りの白山社と同様に、「菊理媛神」となっている。

 

 

 

てっきり、井田の白山社で咲田姫を、杉原神社で杉原彦を祀っているのかと思ったが、

杉原神社で杉原彦命(辟田彦命・辟田姫命)とカップルで主祭神としているようだ。

 

 

神社を理解するには、まず、歴史的な制約、つまり、明治維新での神仏分離と廃仏毀釈

押さえなければ、とらえ方を誤る。

 

つまり、今の神社や寺院を見て、昔から連綿と続いている、という考えを捨ててから

でないと、本来の姿が見えてこない。・・・・これも長くなりそう・・・・。