理研(涙)・・・・
「パール判事」や、「(続)空襲一覧 」、「(続々)空襲一覧 」で、ちょっと しつっこいくらいに、アメリカ軍による「空襲」という民間人への「無差別殺戮」の一覧を紹介したが、その中には当然、広島・長崎への原爆も含まれている。
原爆だけを採り上げて、「原爆は戦争を早く終結させた」などとアメリカでは(一部の真っ赤っかの日本人も・・・)信じ込んでいる
ようだが、もしもそうなら、原爆投下後も延々と空襲を続けていたことは、「無差別虐殺」以外の何者でもなかった ということを自ら白状しているようなものだ、ということに気付いていない。
原爆投下は、最初から「実験」目的であり、黒船よろしく 威力の誇示によって戦争終結を目的としていたのだったら、近くの海で爆発させるだけでよかったはずだが、人口密集地をターゲットにしていたということは、ナチスや毛沢東と並ぶ 人類史における最も忌むべきジェノサイド(民族絶滅を意図する大虐殺)である。
虐殺規模の実験が目的なので、その威力を測定するために通常の爆弾との被害を比較できるような都市をリストアップしたが、リストに挙がった都市には、「空襲」をしていなかった。
繰り返すが、「比較」するために敢えて空襲をしていなかった。
リストアップする際の、原爆投下の候補地の条件としては、
1.直径3マイル(約4.8km)を超える都市
2.爆風により効果的に破壊できる地形を持つ都市
3.これまでに通常爆弾による爆撃を実施していない都市
この条件を満たすとして候補に上がっていたのが、
京都、小倉(北九州)、新潟、広島、長崎。
一番の候補地が京都だった !!
結果的に投下されなかったのは、「文化財の保護」という理由よりも、かつての首都への原爆投下によって、アメリカへの反感が増大し、民意がロシア共産主義に向かうことを懸念したためなのである。(「原爆目標は京都、広島」)
まぁ、トルーマンやルーズベルトといった歴代のアメリカ大統領というのは、ことごとく、「平和」や「人道」に対する重大な罪を犯している「大戦犯」であり、オバマも例に漏れないのだが、何の実績もないままに期待だけでノーベル平和賞をもらってしまったオバマは、最近、「返せ !!」と迫られているような始末である・・・。
しかも、返す際にはメダルを紙袋に入れて郵送するだけでいい、とまで揶揄されている。
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原爆というのは、びっくりするほど簡単な原理であり、ある程度の量さえ集まれば、それだけで自発的に核分裂の連鎖反応=核爆発をする、という簡単なものである。
その量のことを「臨界量」と呼び、ウラン235は46.5kg、プルトニウム239では10.1kgである。
これだけの「かたまり」に なりさえすれば、立派に核爆弾となる。
北朝鮮レベルでも、簡単に作れる・・・。
ただ、もっと少ない量で作れないか、というのが結構難しく、インプロージョン(爆縮=内側に爆発させ、圧縮すること)という手法によって、プルトニウムでは1kg ほどで、ウランでも2~3kg ほどで核爆弾が製造できるのだという。
これだけの量なら、多くの原爆をミサイルに積み込んで、敵国を脅迫したり、外交を有利に進めることができるようになる、という訳である。
因みに、原子力発電所のウランは99%以上が安定(=放射能力を
有しない)している ウラン238 なので、「絶対に」 核爆発は起きない。
福一で騒がれた「メルトダウン」とは、文字通り、核燃料が「高熱」で融解することだが、これも、燃料のほとんどが安定した「ウラン238」なので、熱くなって融け出すことはあっても、「絶対に」核爆発は起きない。
そういう観点だけで言えば、原子力発電所というのは「安全」である。(原発の何が「原理的に」危険なのかについては、後日。)
も1つ、因みに・・・。
沢田研二が主演した「太陽を盗んだ男」という映画があった。
プルトニウム239 を手に入れた男が原爆を作る、という設定だが、ことほどさように、原爆というのは簡単に「作る」ことができる訳なのである。
問題は、どう爆発させないか、出てくる放射能をどう管理するか、であって、映画でも、たしか、放射能を浴び続けて自滅していく、というストーリーだったと記憶している。
さて、広島・長崎の原爆だが、広島型原爆はウランを使用し、臨界量より少ない量の2つの塊に分けられていて、一方の塊を火薬の爆発力で他方の塊にぶつけることで一瞬のうちに臨界量に達するようにする、という単純な構造。
ガン・バレル(砲弾型)方式と呼ばれ、細長い形をしていたところから「リトル ボーイ」と呼ばれた。
ズングリムックリ型の長崎型原爆は「ファットマン」(デブ)と呼ばれ、核分裂物質としてプルトニウムを使用。 (なぜ、違った材料を使ったかというと、威力や構造、性能等の「実験」だったから・・・。)
プルトニウム239を臨界量に満たない塊に分けて球形のケースに入れておき、ケースを囲んでいる火薬の爆発力で中心部に圧縮して核分裂を起こさせるようにしたもの。インプロージョン(爆縮型)と呼ばれ、この実験成果から、この方式が主流となっていく。
原爆の開発については、ドイツやアメリカとともに、日本でも研究が進められており、1940年に「理化学研究所」(!!)の仁科芳雄が 安田武雄陸軍航空技術研究所長に「ウラン爆弾」の研究を進言。
濃縮ウランは海軍が潜水艦でドイツから運び、出来た原爆の第一弾をハワイに落とす、という作戦を 杉山参謀総長が昭和天皇に上奏したところ、天皇は即座に この上奏を却下。
「原爆によって、たとえ我が国の戦況が有利になったとしてもそのために、相互が原爆の投下合戦に至り、結果、何百万もの無辜(むこ)の民が死ぬようなことになるではないか !!」
・・・・戦況悪化の下、このような判断ができる日本人からすれば、日本各地で続けた空襲という大虐殺を正当化してやまない国家への「鬼畜米英」という表現は、まさに当を得ていた、と言えよう。
理化学研究所といえば、最近、STAP細胞やらドロドロの人間関係で有名になっているようだが、上述の仁科芳雄は「日本の現代物理学の父」とか「原子核物理学の父」と言われるほど功績があり、湯川秀樹、朝永振一郎 といったノーベル物理学賞受賞者も、その仁科研究室の研究員として活動していた。
湯川という名も、最近では自らの陰茎をちょん切ったという訳のわからない謎すぎる人物の姓だというほうが話題に事欠かないようだが、湯川秀樹という、日本初のノーベル賞受賞者にも、真っ黒な噂が「ユダヤは日本に何をしたか」(成甲書房)に出ている。
原爆の機密を売り渡した湯川秀樹(35ページ)
戦時中、日本で一日も早くその完成が待たれていた、マッチ箱一つの大きさで戦艦一つを沈めうるといわれていた新兵器は、今日でいう原子爆弾のことであった。そして仁科芳雄博士の研究では、実験段階では既に完成していた。しかし、その基礎理論が完結を見ないでおり、理研内では研究員たちが手分けして研究にあたっていた。それが一応のまとまりをみたとき、これを一つの学説として発表してはどうかという案も出たが、軍の機密に属することでもあり、早計に外部に漏らしてはならぬという仁科博士の意見で発表は厳禁されていた。
ところがそれを、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。米国は終戦後、湯川の功績の論功行賞としてノーベル賞を授与させている。米国のためになったということで褒美がもらえたのだ。まさに国賊である。
(詳細については、「理化学研究所で原爆開発をした仁科芳雄博士と青年助手の変死」・・・当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。)
日本初のノーベル賞というか、科学界全体の「光と影」の部分である。