写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

終戦時の悲劇

2014年08月17日 | 歴史・史実

 

 

日本は、大陸で悪いこと」を、

した」と教え込まされてきたが、実際は「された」のである。

 

長い間、左巻きのプロパガンダに振り回されてきた、というのが実態である。

 

 

昭和12(1937)年7月29日に、北京の近くにある「通州」において、

中国人部隊からの襲撃があり、日本人居留民385名のうち

223名が虐殺され、女性はほとんど強姦され、汚らわしい仕打ちを

受けて殺害されたという 「通州事件」がある。

 

大陸民族の野蛮性を示す事例として、絶対に 忘れてはならない事件だ。

 

 

(通州の位置)

 

通州事件を忘れるな!」(グロ注意 !!)では、強姦された

女性の陰部が刃物でえぐられたり、胸腹の骨が露出し、内臓が

散乱していたりしている写真が、日本軍による南京虐殺の証拠

として捏造され、世界中にばらまかれていることが紹介されている。

 

敗戦国とは情けないもので、これらの歴史も封じ込めるよう

圧力がかけられていた・・・。

 

 

また、1946年2月3日には、かつての満州国通化省通化市

中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍による日本人虐殺事件があり、

日本人3000人が虐殺されたという「通化事件」もある。

 

(通化省の位置)

 

 

1945年8月14日、満州国興安総省の葛根廟で、日本人避難民

約千数百人(9割以上が婦女子)が虐殺された「葛根廟事件」。

終戦時に満洲の日本人難民が遭遇した最大の悲劇といわれる。

 

 

 

1945年8月27日には、満洲国吉林省敦化で、ソ連軍に

よって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプの

女性社員や家族が集団自決した「敦化事件」もある。

 

直接の虐殺事件ではないが、蹂躙されたことには違いない。

 

 

 

ソ連軍による虐殺では、一般住民6,000名を超える死者を

出したといわれる「尼港事件」もある。

 

(尼港の位置)

 

 

 

 

竹林はるか遠く』の中で実体験の記録として描かれた、

終戦で引き上げてくるときの朝鮮半島での残虐物語は、

小さいときから聞かされてきた、近所の引き揚げ者の話と

ほぼ同じような内容のものだった。

 

 

戦争の悲惨さを訴える資料として、アメリカでは優良図書に選ばれ、

中学校(!!)用の教材としても多くの学校で使用されているのだが、

書中で、終戦直後に朝鮮人が日本人の女性や子供を迫害し、

性的暴行を行っていたという、本当のことが記述してあることに韓国が反発。

 

焦った韓国当局は、アメリカでの教材使用禁止運動や、得意の

ロビー活動を活発化させるとともに、日本の社民党などの左巻きや

マスコミ各社とともに、河野談話を引き出すことに成功。

 

30年以上にわたるでっち上げ脅迫状と、慰安婦ビジネスをつくる

発端ともなった。

 

 

被害に遭った人たちの件については、「二日市保養所」とか

麻山事件」などがあるが・・・・、

 

 

・・・・

召集令状」といえば、「赤紙」などとも呼ばれ、戦地に赴くことが

できる「一人前の男子」の代名詞でもあったが、戦地の傷病兵を

手当てする看護婦にも、「赤十字救護看護婦召集状」という

召集令状が来ていた。

 

 

従軍看護婦」である。

 

捏造で知られるようになった「従軍慰安婦」なるものは存在せず、

実際にいたのは「追軍売春婦」だったのだが、「従軍」と言えば

「看護婦」のことだった。

 

 

その看護婦たちにも、終戦時には多くの悲劇があった。

 

 

以下、『さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」』より、下記を全文引用。

 

靖国に祀られない看護婦たち

昭和21年の春、満州はソ連軍に占領され、新京の第八病院に勤務を命じられた服務中の

看護婦に対し、城子溝にあるソ連陸軍病院・第二赤軍救護所から「3名の看護婦を応援に

よこせ」という命令が届きました。期間は1カ月ということだったので、優秀な3名の看護婦を

選んで派遣しました。

 

ところが1ケ月が過ぎても看護婦は帰ってこないばかりか、さらに3名、また1カ月経って3名と

要求されたのです。帰す という約束を守らないソ連軍のやり方に憤りを感じながらも、占領軍

の命令とあれば致し方ないと、計9名を派遣しました。

 

4回目の命令で渋々ながら選考を終えた6月19日、最初に派遣された看護婦の一人が

全身血まみれになって帰って来ました。

 

息も絶え絶え婦長に語るには、「私たちはソ連の病院に看護婦として行ったのに、看護婦としての

仕事はさせてもらえず、行ったその日からソ連軍将校に犯され慰み者にされました

それも次から次へとソ連兵の性奴隷とされ、彼らの言動から同僚たちが次々と送られてくる

ことを知って、居ても立ってもいられなくなり、鉄条網で皮膚が割かれるのも、歩哨に銃で

撃たれるのもいとわず、命懸けで報告に帰って来ました」と言い、最後に

婦長さん、もう人を送ってはなりません」と言って、ついに息絶えました。

 

その翌日、満州のしきたりに従って土葬とし、髪の毛と爪を遺骨代わりに箱に納めて、

故人には懐かしい看護婦室に安置し、花と水を供えて、残った看護婦達と夜遅くまで

思い出話をしていました。

 

ところが翌日の朝9時を過ぎても看護婦が誰も出勤してこないので、婦長さんが看護婦室に

入ってみたところ、22名の看護婦全員が制服制帽を付けて、一人一人遺書を

残して亡くなっていました。

 

 

遺 書

二十二名の私たちが自分の手で命を断ちますこと 軍医部長はじめ婦長にもさぞかし

御迷惑と深くお詫び申し上げます。

私たちは敗れたりとは云えかつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。

たとえ命はなくなっても 魂は永久に満州の地に留まり 

日本が再びこの地に還って来る時、ご案内致します。

 

昭和21年6月21日 散華

旧満州新京(現長春) 通化路第八紅軍病院

 

荒川さつき 大島花枝 川端しづ 相楽みさえ 澤本かなえ 杉まり子 

垂水よし子 林千代 細川たか子 吉川芳子 池本公代 稲川よしみ 

大塚てる 五戸久 澤口一子 三戸はるみ 杉永はる 中村三好 林律子 

本千代 渡部静子 石川貞子 井上つるみ 柿沼昌子 沢口千恵子 

沢田八重 柴田ちよ 田村馨 服部律子 古内喜美子 山崎とき子

 

 

後の情報で、ソ連軍の将校に犯された看護婦たちは皆、国際梅毒に罹患していたことが判明しました。 

 

その後、ソ連軍は引き揚げて、新京は支那の八路軍の支配下に入り、昭和23年9月に

帰国命令が出て、堀喜身子婦長は幼い子供二人と報告のため逃げ帰って亡くなった

1名を含めた23名の御遺骨とともに、やっとの思いで帰国しました。

 

御遺骨はご主人の菩提寺である山口県徳山市のお寺に預かってもらいました。

喜身子婦長は母親の住む北海道帯広市の病院で働き、後には静岡県清水市の病院で

看護婦として働きました。喜身子婦長の願いは、連れて帰った23名の御遺骨を顕彰するために

地蔵菩提をつくりたいということでした。

 

昭和27年、埼玉県大宮市に財団法人青葉園という公園墓地が出来ました。

この開設者は元陸軍大尉で、山下奉文大将の副官をしていた吉田亀治さんです。

園内には山下大将の墓が設けられたり、青葉神社が建立されました。

 

ちょうど同じ頃、浪曲師の松岡寛が週刊誌に「22名の日赤看護婦の集団自決」の話が

載っていることを知って感激し、喜身子さんを探し当て、意気投合し、浪曲師として残りの半生を

集団自決の日赤看護婦の語り部として過ごすことを決意し、公演を続ける中に、時には遺族が

名乗り出て御遺骨の一部を返すことも出来ました。

 

大宮での一座の公演で、吉田亀治理事長は二人から話を聞いて、直ちに彼女たちのために

地蔵菩提をつくることを決意し、「青葉慈蔵尊」という若くして散った乙女らを弔うにふさわしい

名がつけられました。

 

 

 

青葉慈蔵尊については、像の写真と碑文が

ソ連軍の暴虐非道」のサイトで紹介されている。