昨日の「 婦負(ねい)の言われ 」で最初に紹介したサイトのように、
「婦人を背負った」から「婦負という」との説が流布しているようだが、大ウソ!!
漢字の用法には、「読書」が「書を読む」、「登山」が「山に登る」、というように
「鬼に会ったら帰れ」という法則があり、「婦人を背負う」なら「負婦」となるはずだ。
つまり、婦負は「婦人が背負う」ということになり、まぁ、NHK大河ドラマ『八重の桜』の
八重が13才で米俵を右腕と左腕で1つずつ(120kg)を担ぐほどの力持ちだったと
いわれるほどだから、婦人が背負うこと自体は不思議でも何でもないのだが、
イメージが逆転してしまうのは、ちょっと まずいのではないか。
因みに、富山売薬の祖 前田正甫公の母「八尾様泰樹院」も、富山藩初代の利次公に
見初められた理由が、八尾の山中のたんぼ道を、山のように稲をかついでいたという
「力もち」だったからであって、「美しかったから見そめたのでは・・・」というような、
今の価値観を歴史に持ち込んではならない。
身長は五尺八寸、体重二十四貫というから、174cm、90kg という体格になる。
当時は、何としても丈夫な「お世継ぎ」を産むことが求められていたのだ。
横道にずれてしまった。
ある言葉を漢字に仕置き換えると、その漢字そのものが意味を持っているので、
元の言葉も、その漢字の意味に転化してしまう、という良い見本である。
漢訳の危険性というのは、こんなふうに発揮される訳であり、
仏典を「漢訳」したことの間違いというのは、ここにあるということなのだ。
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さて、
婦負(ねい)の言われ の真ん中あたりで、鵜飼いの故事である
売比河鵜飼祭 (めひかわうかいまつり) を紹介していたが、
ここでの読み方は「めひ」。
家持彰徳祭 では、
天平20年(748)国内巡察に出た越中国司大伴家持はめひの売比野(婦負郡)に入り、
越の大社鵜坂神社に詣で、神通川で鵜飼を賞でた。
高市黒人の婦負の野の歌一首 では、
婦負の野(めひのの)は、婦負郡の原野。古代の婦負郡は神通川を越えて常願寺川
西岸まで及んでいたと考えられるので、そのいずこを婦負野と称したかは不明。
などとなっており、いずれも、婦負と書いて「めひ」。
富山市のHPでは、「婦負ねい」は「売比(めひ)」が転じた、としている。
http://www.city.toyama.toyama.jp/other/profile/toyamashinoichinado.html
な行とま行は転じやすく、昨日の「沼川姫(ぬまかわひめ)」と「奴奈川姫(ぬなかわひめ)」
も、「ま」と「な」が変化している。
話し言葉ではよく起きる現象であり、「あきば はら」 が 、「あきは ばら」になったりするが
婦負の 「婦」の行書体が
であり、ひらがなの「め」は、漢字の「女」の崩し字からきている。
似ている。
筆書きの世だったので、「婦」と「め」との区別がつかなかったのでは、とも思われる。
さて、
もともと「売比(めひ)」と書いた「婦負(ねい)」のいわれには、諸説紛々だが、
もっとも「らしい」と思われるものと言えば、鵜坂神社に配祀されている
「鵜坂姉比神(うさかねひめのかみ)・鵜坂妻比神(うさかめひめのかみ)」
に由来するとする説だろう。
現在は淤母陀琉神・訶志古泥神を主祭神とされている鵜坂神社だが、
本当の主祭神は、鵜坂川とも呼ばれていた神通川ではないかと拝察する。
姉が誰で、妻はだれ、などという野暮は言及しないこととしよう。
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かつての「婦人会」、「婦人部」などの「婦人」という名称が、おしなべて「女性」になった。
「婦」には、「服従する人、掃除をする人」という意味があるそうで、
これが、その筋のひとたちの癪に障ったのかもしれない。
「婦」 主婦が掃除する廟 http://www.47news.jp/feature/47school/kanji/post_108.html
後半部分にもあるが、もともと良い意味で使われていたのに、勝手な解釈で
おとしめて、結果的には己を卑しめていることに気付いていないのだろう。