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つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

婦負(ねい)・・・その2

2013年08月06日 | 歴史・史実

 

昨日の「 婦負(ねい)の言われ 」で最初に紹介したサイトのように、

婦人を背負った」から「婦負という」との説が流布しているようだが、大ウソ!!

 

漢字の用法には、「読書」が「書を読む」、「登山」が「山に登る」、というように

鬼に会ったら帰れ」という法則があり、「婦人を背負う」なら「負婦」となるはずだ。

 

つまり、婦負は「婦人が背負う」ということになり、まぁ、NHK大河ドラマ『八重の桜』の

八重が13才で米俵を右腕と左腕で1つずつ(120kg)を担ぐほどの力持ちだったと

いわれるほどだから、婦人が背負うこと自体は不思議でも何でもないのだが、

イメージが逆転してしまうのは、ちょっと まずいのではないか。

 

 

因みに、富山売薬の祖 前田正甫公の母「八尾様泰樹院」も、富山藩初代の利次公に

見初められた理由が、八尾の山中のたんぼ道を、山のように稲をかついでいたという

「力もち」だったからであって、「美しかったから見そめたのでは・・・」というような、

今の価値観を歴史に持ち込んではならない。

身長は五尺八寸、体重二十四貫というから、174cm、90kg という体格になる。

当時は、何としても丈夫な「お世継ぎ」を産むことが求められていたのだ。

 

 

横道にずれてしまった。

 

ある言葉を漢字に仕置き換えると、その漢字そのものが意味を持っているので、

元の言葉も、その漢字の意味に転化してしまう、という良い見本である。

 

 

漢訳の危険性というのは、こんなふうに発揮される訳であり、

仏典を「漢訳」したことの間違いというのは、ここにあるということなのだ。

 

 

 

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さて、

婦負(ねい)の言われ の真ん中あたりで、鵜飼いの故事である

売比河鵜飼祭 (めひかわうかいまつり) を紹介していたが、

ここでの読み方は「めひ」。

 

 

家持彰徳祭 では、

天平20年(748)国内巡察に出た越中国司大伴家持はめひの売比野(婦負郡)に入り、

越の大社鵜坂神社に詣で、神通川で鵜飼を賞でた。

 

高市黒人の婦負の野の歌一首 では、

婦負の野(めひのの)は、婦負郡の原野。古代の婦負郡は神通川を越えて常願寺川

西岸まで及んでいたと考えられるので、そのいずこを婦負野と称したかは不明。

 

 

などとなっており、いずれも、婦負と書いて「めひ」。

 

 

富山市のHPでは、「婦負ねい」は「売比(めひ)」が転じた、としている。

http://www.city.toyama.toyama.jp/other/profile/toyamashinoichinado.html

 

な行とま行は転じやすく、昨日の「沼川姫(ぬかわひめ)」と「奴奈川姫(ぬかわひめ)」

も、「ま」と「な」が変化している。

 

 

話し言葉ではよく起きる現象であり、「あきば はら」 が 、「あきは ばら」になったりするが

婦負の 「婦」の行書体が

 

であり、ひらがなの「め」は、漢字の「女」の崩し字からきている。

似ている。

 

筆書きの世だったので、「婦」と「め」との区別がつかなかったのでは、とも思われる。

 

さて、

もともと「売比(めひ)」と書いた「婦負(ねい)」のいわれには、諸説紛々だが、

もっとも「らしい」と思われるものと言えば、鵜坂神社に配祀されている

「鵜坂姉比神(うさかひめのかみ)・鵜坂妻比神(うさかひめのかみ)」

に由来するとする説だろう。

 

現在は淤母陀琉神・訶志古泥神を主祭神とされている鵜坂神社だが、

本当の主祭神は、鵜坂川とも呼ばれていた神通川ではないかと拝察する。

 

姉が誰で、妻はだれ、などという野暮は言及しないこととしよう。

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かつての「婦人会」、「婦人部」などの「婦人」という名称が、おしなべて「女性」になった。

 

「婦」には、「服従する人、掃除をする人」という意味があるそうで、

これが、その筋のひとたちの癪に障ったのかもしれない。

 

「婦」 主婦が掃除する廟 http://www.47news.jp/feature/47school/kanji/post_108.html

 

後半部分にもあるが、もともと良い意味で使われていたのに、勝手な解釈で

おとしめて、結果的には己を卑しめていることに気付いていないのだろう。