CAFE PACIS

ユルゲンが「カフェで政治が行なわれているんだ」って言う。じゃあ、カフェで平和やるか。

どう見るイラク選挙 その3:「民主主義と死亡者名簿」

2005-02-04 02:06:04 | ニュース@海外
 在米イラク人で、詩人・小説家のシナン・アントゥーンは、「死人は投票しない。しかし、イラクではカウントさえされない」と書く。

Democracy and necrology
アル・ハラム・ウィークリー(2005年1月27日-2月2日版)


 「イラクで起こっている、果てしなく続きそうな惨事のひとつ一つにクライマックスがある。それは想像であったり、痛いほど現実的だったりする。もうひとつそんな舞台劇がやってくるのだが、それには「選挙」という題が付いているかもしれない。最初その劇は、華やかなクライマックスの向こうに民主主義が待ち受けており、その山を越えることは困難ではあっても致死的ではない、と宣伝されていた。総合解説つきの頂点に達する道を演ずるのは、冷淡な筋書きに沿った下手な役者たちなのだが、その道程には、運命付けられたように、爆発・爆撃・自爆の音や、ラムズフェルド流解放者やそのザルカウィ変形版を伴奏する日々の社交辞令が聞こえてくる。たぶん、イラクの悲劇は、解放者の数が多すぎることにあるのだろう。とりとめもなく、美辞麗句にみちたクレッシェンドも、お祝い騒ぎも、その過程からはじかれた者、舞台裏にしゃがむ役すら与えられなかった者たちから、そしてそういった者たちに代わって挙げられている、疑問と異議の声にかき消されそうになっている。

 今回の選挙では、すべての面で実務が混乱し、安全は完全に欠如していた。これは、数多の障害の一部であり、選挙に問題ありと言われる根拠なのであって、今後数十年にわたり選挙の正当性を疑問視する亡霊のようにとりついて離れないであろう。しかもこの議論は、軍事占領によって構想され、軍事占領化でおこなわれ、合法性を証明したかもしれない国際機関の装いすら欠いたずさんな選挙という、先天的欠陥を無視した上での話である。今回の選挙で保証されたことがあったとすれば、党派による偏狭政治が制度化されたことであろう。選挙の公正を証明するはずの国際監視団体が仕事をしているのは、イラクから何百マイルも離れたヨルダンのアンマンである。起こっていることのパロディを地でいっている。

 反対意見や疑問の声のすべてが、真に民主主義をめざしているために出されているとは限らないし、単に長い流血の内戦の恐れを払いのけようという願いから出されていることもある。しかし、こうした意見の多くは本物である。皮肉中の皮肉は、遠くにいる者ほど選挙権が増す、ということだ。ロンドンやデトロイトといった街で暮らし、ほとんどが近い将来はイラクに戻りそうもないイラク人たちが、そうできるところでは、今回の選挙に一票投ずることができる。しかし、ファルージャやモスルや、スンニ三角地帯とされる場所に一緒くたにされた地域の市や町に住んでいる(そして死んでいる)者たち、我々在外イラク人よりはるかに選挙で直接的影響を受ける人たちが、欲したとしても投票できないのだ。国外に散り散りになったイラク人が祖国の将来に発言権を持つべきではないとか、政治に積極的に参加すべきではない、と言っているのではない。反対に、時が経つにつれ、国外のイラク人社会が、重要な役割を果たすことが明らかになってくる、と私は思っている。しかし、こうした人たちの影響力と投票数は、現にイラクに住んでいる国民のそれを上回るべきではない。

 こうして書いているあいだ、絶滅解放がなされる前ファルージャにいた30万の住民のうち、戻ったのは10万人だけである、という報道がはいってくる。戻ってきた住民が目にしたのは、亡霊の街、倒壊していない家などほとんどない街であった。

 水道も電気もない。置き去りにされた死体を野良犬がむさぼり、街のほとんどは、全市民に対し、わけの分からない理由でいまだ立ち入り禁止とされている。数ヶ月前、アメリカ政府とイヤド・アラウィの政府は、「解放」されたら再建と復興をしてやると言っていた。果たして、その約束も霧消してしまった。破壊された家屋とかけがえのない所有物の補償金として100米ドルが与えられると言われた。残酷な冗談にもほどがある。この人たちが、難民キャンプでうずくまり、あまり快適ではない「国内避難民」の暮らしに順応しながら、国の民主化に大した情熱を示さないからといって、誰が彼らを非難できるのか。

 ファルージャやモスルの住民や、選挙をボイコットしたり、選挙にいけない、その大部分がスンニ派の人たちだけの話ではない。10万に近い投票を阻止する多岐かつ典型的な投票阻止がおこなわれていて、この人たちは一人として確実に投票にはいかない。フロリダ州に住んでいるのでない限り、この死んだ人たちは投票できないのである。10万という数値は、戦争開始以来のイラク民間人の死亡者数で、ジョンズ・ホプキンス大学、コロンビア大学、アル・ムスタンシリヤ大学の研究者が共同でおこなった調査によるものである。

 アメリカ合衆国は、民間人死者の数には「関心がない」。コリン・パウエルの言葉である。

 「ボディ・カウントはしない」、戦争の英雄トミー・フランクス将軍の言葉である。

 それだけではない。イラク厚生省は、独自の死亡者調査をやめろと命じられた。帰還した戦死兵士が入った棺桶の姿が国民の目に入らないように躍起になっている政府に、何が期待できよう。

 お決まりのことだが、一部からこの調査方法にすばやく疑問が投げかけられた。人の死より技術的問題のほうが大事と思うような種類の人たちによってである。スターリンはこの点で的を得ていた。「一人の死は重大事件だが、100万人の死は統計。」こういった話や数字は大海の一滴のようにあっという間に消えさせられてしまう。そうすれば、待ち受ける純度100%の自由への道の展望がよく見えるというものだ。十数万が死んだって、所詮有色人種だろってわけで、世界の同情マグニチュードの高さは低いのだ。他にも、ダルフールからパレスチナからいろんなところで、とてつもなく複雑で、文明社会の注目を待望しているケースが五万とあるだろう。ほかの人と同じように、私もこの10万という数値に黙って向き合うときがある。あなたたちが鳥だったなら、いなくなった時、人はもっと激しい怒りを覚えたかも知れない。大都市の空に大挙して押し寄せ、空を灰色に埋め尽くし、数時間ほど抗議することができただろうから。気象学者とバードウォッチャーたちが、確かにその姿に気づいたことだろう。あなたたちが樹だったなら、その美しい森が破壊されたとき、それは地球に対する犯罪とみなされただろう。あなたたちが言葉だったなら、尊い本や稿本となり、その損失は世界中で悼まれたことだろう。でもあなたたちは、そのどれでもない。しかも、黙って、何もなかったように消えなくてはならなかったのだ。今回の選挙では、誰もあなたたちのために運動してくれないだろう。だれも、あなたたちを代表しようなどとは思わない。不在者投票用紙は発行も発送もされていない。慰霊碑、もしくは小さな資料館が建てられるにはあと数十年待たなくてはならないだろう。過去の出来事に罪を覚えさせることができるほど運がよければ、どこかの壁にあなたの名前が刻まれることもあるかもしれない。でもそれまでは、亡霊となって、自由に大声で沈黙の歌を歌い、傍観者と役者とを糾弾していてよろしい。
一同退場。」

 あい

最新の画像もっと見る