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イラク・コンフィデンシャル

2005-11-05 15:55:50 | ニュース@海外
シーモア・ハーシュがスコット・リッターに質問

The Nation 2005年10月26日


10月19日、ニューヨーク倫理文化社会研究所のThe Nation Instituteで行われた公開討論会より。シーモア・ハーシュはジャーナリスト。スコット・リッターは、元国連兵器査察チームのメンバー。 リッターの 最新の著作「イラク・コンフィデンシャル」Iraq Confidential: The Untold Story of the Intelligence Conspiracy to Undermine the UN and Overthrow Saddam Hussein by Scott Ritter, with a foreword by Seymour Hersh. October 2005

シーモア・ハーシュ:
私からはただスコットに質問をします。彼の本を数回読みましたが、基本的にちょっと楽しもうと思っています。スコットと私のことを、沈没しかかっているタイタニック号で演奏を続けている小さな楽団の一員かなんかだと思って聞いていてください。私たち全員が恐ろしいトラブルに巻き込まれていますから。では始めますが、これからどう進むのかを話す以前の問題として、私は個人的に、私たちにはイラクで選択肢が二つあると思っています。選択肢1は、今日の夜中までに米軍を全部撤退させる。選択肢2は、明日の夜中までに全部撤退させる。この選択肢についてはどう思いますか。

スコット・リッター:
私は、イラクは全体が火事状態にある国だと見ています。イラク国民だけでなく、アメリカと全世界が直面している恐ろしい問題がある。この火事に対しての油に相当するのが、アメリカとイギリスの部隊がイラクにいることです。これは、イラクで軍事指揮にあたっている将軍たち自身のあいだで広く認識されていることです。ですから、火を消す一番いい方法は、炎から燃料を切り離すことで、私は、出来るだけ早く部隊を帰国させることに大いに賛成です。

 撤退は出来るなら今日やるのが一番いい。明日になれば状況は悪化する。あさってになればそれ以上悪くなる。しかし、同時に、我々が1991年にサダム・フセインを排除するために行動しなかった理由のひとつを理解する必要があります。それは、フセインを追い出した後の得策がなかったからで、そんなことをすればイラクが混乱と無政府状態になるからだった。どうやら、我々はまさにそれをしでかしてしまった分けです。サダムを倒したはいいが、その後釜に誰が座るか何の策もなかった。だから、部隊を撤退させても、この問題の半分を解決したことにしかなりません。

 また、我々の侵略から生じている3つの決定的問題にも対応しなければならない。

 問題その1、シーア派。私が言っているのは、イラクの主流シーア派ではなく、クーデターを起こした親イラン派の政治エリート集団のことです。彼らが今政府を支配している。

 問題その2、スンニ派。我々は、反米イスラム原理主義者の急進化を阻止する非宗教的な防壁を取っ払って、スンニ派を過激化させてしまった。この防壁を取り払って状況をなすがままにしておけば、スンニ派の牙城は反米感情が蔓延する肥溜めと化します。アフガニスタンの二の舞で、、間違いなくアルカイダの新しい温床となります。

 問題その3は、マスコミが全然取り上げないクルド人。我々はなぜかクルド人に、独立の祖国をもてるぞという誤解を持たせてしまっている。しかし、アメリカのNATO同盟国であるトルコは、そんなことは絶対にさせない、と断言している。アメリカが、クルド人に、独立に向けて動くようなことをさせれば、トルコは抜本的な軍事介入をせざるを得なくなる。15年かけてEUに加盟していいよと言われるところまで漕ぎつけたかという時にです。トルコがクルド人に対して動けば、まさにそれが理由でトルコは欧州から加盟を拒否されてきたことすることになってしまい、そうなればトルコは過激な反米イスラムを擁護する方向へ向かいます。ですから、問題は軍の撤退だけではない。いまイラクでは、アメリカの国家的安全を左右する3つのとてつもない問題が進行中であって、こうした問題に対応する政策が必要であることを理解しなければならない。ですが、イラクに米軍を残しておくことはその政策の一部ではありません。

ハーシュ:
撤退方法は?撤退の速度は?

リッター:
早ければ早いほどいい。部隊の削減方法については軍のプロに任せます。イラクの地域によっては、文字通り荷物をまとめて走り去ることが出来るところもあります。しかし、部隊の規模は相当大きいし、相当のインフラも置いているし、確実に弱点を突いてくる現役の反乱部隊が存在している。しかしこれは保証しますが、アメリカは今現在反乱グループと何らかの対話を持っていると確信していますから、反乱グループに俺たち撤退するからと伝えれば、攻撃はすべて止まります。撤退となれば彼らは、イラクからの米軍撤退の道には簡易爆発物が可能な限り一切設置されないようすべての措置をとるでしょう。

ハーシュ:
あなたの本にはブッシュ政権の事以外にもすごいことが書いてあって、悪党として上げられている人物にはクリントンの国家安全保障顧問だったサンディ・バーガーや、マドレーン・オルブライトも入っています。

 もうひとつこの本で息を呑むのは、新しい話と情報の量です。要するに、2年、3年にわたるアメリカ政府の、(国連兵器)査察プロセス妨害行為について詳細と実名が書かれている。あなたの意見では、91年から98年の査察で特に最後の3年間、アメリカは本気でイラクを武装解除するつもりだったか、ということですが。

リッター:
 事実は、アメリカが本気でイラクを武装解除しようと思ったことなど一度もありません。国連兵器査察調査を決めた安全保障理事会決議の全体の焦点は唯一ひとつのことにありました。それは、クウェート解放と関連付けておこなわれた1990年8月に強要された経済制裁を維持するための手段である、ということです。アメリカはクウェートを解放しましたから、私もあの紛争には参加しましたが、それなら制裁は解除すべきだろうと考えるのが普通でしょう。

 アメリカには、サダムを封じ込め続ける手段を見つける必要があった。なぜなら、CIAが、ヤツは自分から崩壊するから半年待つだけで十分だ、と言っていたからです。この手段が経済制裁です。しかし、制裁を続けるには口実が必要でした。その口実が武装解除です。国連憲章第7章に基づく例のイラク武装解除を要求した国連安保理決議は、第14項で、イラクが従うなら制裁は解除すると言っています。アメリカ自身が書いて賛成したこの決議が採択された数ヵ月後、たったの数ヶ月のうちに、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領と国務長官のジェームズ・ベイカーは、内密ではなく、公然と、イラクが武装解除決議を順守しても、サダム・フセインが大統領の座から下ろされない限り経済制裁は続けると明言していました。
 
 これは、武装解除が、制裁維持を通して政権交代を促進する限りにおいてのみ有用であったことを示す確証ですよ。目標が武装解除にあったことなど一度もありません。大量破壊兵器を無くすことでもない。これは、ジョージ・H・W・ブッシュから始まり、8年にわたるクリントン政権の政策として引き継がれ、今のブッシュ政権の破滅的道につながっています。

ハーシュ:
 抗し難いと思うのは、2003年3月以前、誰もがフセインが兵器を持っていたと信じていたという意見です。これは単なる街で流行っている神話ですよ。事実は、UNSCOM(国連大量破壊兵器破棄特別委員会)と国際原子力機構(IAEA)の関係者と話をすれば、1997年の時点で、フセインが兵器を持っている可能性は非常に低いことが相当明らかになっていた。国務省、エネルギー省、CIAでも多くの人がイラクに兵器があるなど思っていかった。あれはフセインと兵器をめぐる集団ヒステリーだったと歴史が後に判断する日がくると思いますが。そこで、繰り返し出される質問に、なぜフセインは兵器はもうない、と言わなかったのか、という質問がある。フセインはそう言っていたのですか。

リッター:
 もちろんフセインは査察団に伝えていました。いいですか、ちゃんと正直に見てみましょう。1991年イラクは、所有する大量破壊兵器の全リストを申告するよう義務付けられましたが、提出しませんでした。ウソをついたのです。イラクは、核兵器計画を申告せず、生物兵器計画も申告せず、化学・弾道ミサイル能力については過少申告した。フセインの意図は戦略的抑止力を維持することにありました。イランに対してだけでなく、イスラエルに対してもです。しかし、フセインは査察メンバーがここまで執拗だとは計算しきれていませんでした。査察活動は急速に展開し、1991年6月の時点で、査察団は核兵器計画を進めていることをイラクが認めざるを得ないところまで追い詰め、1991年の夏には、ものすごい圧力をかけたので、例えれば、警察が麻薬ディーラーの玄関口まで立ち入り調査に迫っているような状態まで来ました。こうなれば、ディーラーは持ってる麻薬を全部トイレに流して、警察に「ホラ、何にもないよ」と言わざるをえない。イラクは、ウソをついていたことを認めたくなかったので、持ってるものを全部トイレに流した。

 持っていた兵器を全部爆破して、砂漠に埋め、本当のことを申告していたというフィクションを維持しようと努めたわけです。1992年になると、イラクは、査察団の執念の前に再度、潔癖を示すよう追い詰められました。どうしてフセインは武装解除させられていたことを認めなかったのか、という質問をされます。1992年、イラクは、兵器は全部破壊して、もう何にもない、という申告をおこないました。1995年イラクは、記録された兵器貯蔵場所をすべて届け出ました。ここでも自主的にではなく、それまで査察団が何年も圧力をかけ続けてのことですが、結論は、1995年の時点で、イラクにはもう兵器はなかった。イラクには文書もなく、製造能力もなくなっていた。査察団が、軍備管理の歴史における最新の技術と、最も厳密な軍備管理体制をもって、イラクの産業インフラの全貌を監視していたからです。

 さらに、このことは、CIAもイギリスの諜報機関もイスラエルの諜報もドイツの諜報も全部、世界中が知っていました。でも誰もイラクが武装解除されたとは言うつもりはありませんでした。誰もそんなことは口にできませんから。しかし、大量破壊兵器に関するイラクの能力は持っていける限りゼロに近いところまでなくなっていること、大量破壊兵器について言えばイラクは誰に対しても脅威ではない、ということを彼らははっきりと把握していました。

続く。

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