子供の頃、私がよく出かけた島があります。
山口県の柳井港というところから船に乗ります。
波に揺られることに慣れていないので、
途中・・・ゲボっ・・・
両親に背中をさすってもらいながら
「あとなんぷんでしょうか・・ゲボッ」
それでも行きたい小さなちいさな島。
祝島(いわいしま)。
緑とか青が幾重にも果てしなく続くエメラルドグリーンの島でした。
私の父が生まれ育った島です。
上関原発で映画化もされ有名になってしまいました。
水着で浮き輪とバケツを持ち海に出ると
岩のあちらこちらに張付いている物体。。。
トコブシです。
さっと削り取らないと、瞬時に岩にはりついてしまうトコブシとの闘い。
昔はバケツいっぱいでした。今はどうかなあ。
祖父母の待つ家の途中にちいさな駄菓子屋さんがあって
まず母がここでバテます。
Caco「はよ帰らんとおばあちゃんが待ってるんやで」
母「なんでこんな田舎の息子と結婚したんや。まだ次男で良かったわ」
Caco「ジナンで良かったってどういうこと?」
母「(慌てて)ちゃうちゃう! お父さんは、痔なん・・です??」
祖父母の待つ家に帰ると日が暮れるまでにやっておかなければならないことがあります。
トイレです。
これが外にあるんだな。いろんな意味で怖い。
都会育ちの母が田舎へ帰り話す言葉はただひとつ「もういやや」
これが口癖になっていたようです。
トイレに入ると「絶対にはまったらあかんで。足下よう見いよ」
Caco「わ、あかん。臭っさ。誰のうんこや。ものごっつい量やで」
母「牛や、この家にはモーモー牛がおるねん」
父の家では牛は飼っていませんでした。
今から思えば、たぶん祖母のことだと思います。
お風呂は五右衛門風呂といって
まあるい鉄の窯でした。
丸い木が浮いているのでその上に足をのせ上手に沈めながら入らないとアチチです。
外で薪をくべてくれていた祖母に母は
母「お義母さん、もうちょうどいいお湯なんで結構ですから」
祖母「遠慮なんかしんさんな。しっかり温まって浸かりンさい」
母「本当にちょうどいいですからあ
」

朝起きると祖母が「おくどさん」でご飯を炊いてくれます。
パチッ、パチッと台所で何かがはじける音と匂いを今でも覚えています。
おくどさんに使用する薪です。
薪の香りがするなか朝ごはん。
お味噌汁にはわかめと生みたてのたまごがぼっとん。
この麦みそのお味噌汁と白いご飯が本当に美味しかった。
この時ばかりはさすがの私も
母に「ノリタマ」とは言わなかったそうです。
私が今でも麦味噌が好きなのは
こういう小さい頃の美味しい記憶が残っているのだと思います。
神戸に帰った時に子供の頃の写真を見ていて
やけに厳島神社の宮島をバックにした写真がたくさん。
岩国の錦帯橋での写真なんかもありました。
祝島の帰りに立ち寄るお決まりのコースだったらしいです。
子供の頃、身体が弱く呼吸器に問題があったので肩で息をしていた私。
体育の時間はドクターストップで見学も多かった。
それでも元気にみんなと遊んで暮らせてまずはひとつの夢を果たせたのも
もしかしたらあのエメラルドグリーンの島へ行き、
帰りに立ち寄る、あの海に浮かぶ神様のおかげかもしれません。
祝島、原発とは無縁であってほしい。
原発とは無縁の日本国であってほしいです。
あの3.11の日のこと、忘れずに心に刻む。
かすんだらまた刻む。
私達が失ったたくさんの命に失礼がないように。
あの日に発信したひとりひとりの優しい心は日本人の誇りです。
山口県の柳井港というところから船に乗ります。
波に揺られることに慣れていないので、
途中・・・ゲボっ・・・
両親に背中をさすってもらいながら
「あとなんぷんでしょうか・・ゲボッ」
それでも行きたい小さなちいさな島。
祝島(いわいしま)。
緑とか青が幾重にも果てしなく続くエメラルドグリーンの島でした。
私の父が生まれ育った島です。
上関原発で映画化もされ有名になってしまいました。
水着で浮き輪とバケツを持ち海に出ると
岩のあちらこちらに張付いている物体。。。
トコブシです。
さっと削り取らないと、瞬時に岩にはりついてしまうトコブシとの闘い。
昔はバケツいっぱいでした。今はどうかなあ。
祖父母の待つ家の途中にちいさな駄菓子屋さんがあって
まず母がここでバテます。
Caco「はよ帰らんとおばあちゃんが待ってるんやで」
母「なんでこんな田舎の息子と結婚したんや。まだ次男で良かったわ」
Caco「ジナンで良かったってどういうこと?」
母「(慌てて)ちゃうちゃう! お父さんは、痔なん・・です??」
祖父母の待つ家に帰ると日が暮れるまでにやっておかなければならないことがあります。
トイレです。
これが外にあるんだな。いろんな意味で怖い。
都会育ちの母が田舎へ帰り話す言葉はただひとつ「もういやや」
これが口癖になっていたようです。
トイレに入ると「絶対にはまったらあかんで。足下よう見いよ」
Caco「わ、あかん。臭っさ。誰のうんこや。ものごっつい量やで」
母「牛や、この家にはモーモー牛がおるねん」
父の家では牛は飼っていませんでした。
今から思えば、たぶん祖母のことだと思います。
お風呂は五右衛門風呂といって
まあるい鉄の窯でした。
丸い木が浮いているのでその上に足をのせ上手に沈めながら入らないとアチチです。
外で薪をくべてくれていた祖母に母は
母「お義母さん、もうちょうどいいお湯なんで結構ですから」
祖母「遠慮なんかしんさんな。しっかり温まって浸かりンさい」
母「本当にちょうどいいですからあ


朝起きると祖母が「おくどさん」でご飯を炊いてくれます。
パチッ、パチッと台所で何かがはじける音と匂いを今でも覚えています。
おくどさんに使用する薪です。
薪の香りがするなか朝ごはん。
お味噌汁にはわかめと生みたてのたまごがぼっとん。
この麦みそのお味噌汁と白いご飯が本当に美味しかった。
この時ばかりはさすがの私も
母に「ノリタマ」とは言わなかったそうです。
私が今でも麦味噌が好きなのは
こういう小さい頃の美味しい記憶が残っているのだと思います。
神戸に帰った時に子供の頃の写真を見ていて
やけに厳島神社の宮島をバックにした写真がたくさん。
岩国の錦帯橋での写真なんかもありました。
祝島の帰りに立ち寄るお決まりのコースだったらしいです。
子供の頃、身体が弱く呼吸器に問題があったので肩で息をしていた私。
体育の時間はドクターストップで見学も多かった。
それでも元気にみんなと遊んで暮らせてまずはひとつの夢を果たせたのも
もしかしたらあのエメラルドグリーンの島へ行き、
帰りに立ち寄る、あの海に浮かぶ神様のおかげかもしれません。
祝島、原発とは無縁であってほしい。
原発とは無縁の日本国であってほしいです。
あの3.11の日のこと、忘れずに心に刻む。
かすんだらまた刻む。
私達が失ったたくさんの命に失礼がないように。
あの日に発信したひとりひとりの優しい心は日本人の誇りです。