超スローカーブ

更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

シニアサークルで鞍馬・大原へ その2 (牛若丸)

2014-02-28 20:25:59 | 旅行
 

   その1 (牛若丸) よりつづく

     「牛若丸と鞍馬寺」
 もうひとりの「牛若丸後ちの源義経」は、幼年期「牛若」として出家して僧侶になるために、10年間母親と別れこの鞍馬の山で、己を磨くことに専念した。
 なぜ牛若丸が鞍馬山に来ることになったか、なぜこのような状況になったのか、についてもう少し詳しく書いてみる。

 源義経は平治元年(1159年)、源義朝(よしとも)と側室の常盤(ときわ)との間に生まれた。今若、乙若につづく常盤の第3子として誕生した。義朝からみると9男になる。そして、牛若と名付けられた。
 因みに、後に鎌倉幕府を開く「頼朝」は源義朝の3男で、源平の争いで義経と一緒に活躍する「範頼(のりより)」は6男である。

     常盤と牛若
 平治の乱の後、平清盛は常盤の子供3人が成長した後の報復を恐れて家来に殺すことを命じた。これを知った常盤は、3人の子供を連れ、外戚を頼り大和の国(奈良県)の宇陀に逃れて、身を隠そうとするが、縁者は隠し立てして巻き添えになることを恐れ断った。
 そこで常盤は同国の東大寺に隠れ住むこととなったが、母の関屋が平氏に捕まっていることを知った。
 「母の命を助けんとすれば、3人の子供を斬るべし、子供を助けんとすれば、老いたる母を失ふべし…」と悩んだあげく、仕方なく京都に引き返し清盛の屋敷がある六波羅へ子連れで自首したと云う。
 常盤は清盛に助けを懇願すると、清盛は美人の誉れ高い常盤に心をうつし、常盤が清盛の側室になることを条件として、母と3人の子供を赦免した。
 義経の赦免には、他にも諸説あるようだ。



 私は側室を条件とした赦免も考えられるが、ここは単純に考え、父源義朝と一緒に戦った頼朝の処罰は死刑が当然視されていたにも拘らず、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに・忠盛の正室)から「頼朝は早世した我が子家盛(清盛の異母弟)に生き写し。どうか命を助けてやっておくれ。」と食を断って清盛に助命嘆願をしたこともあって、死一等を減じて伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流刑としたことである。
 つまり、戦に参加した頼朝が流刑であれば、まだ幼くて当然戦にも参加していない常盤の3兄弟を死刑にはできなかったのではないか。

 愚考ではあるが、池禅尼が頼朝の命乞いをした理由として、「平治物語」では、早世したわが子家盛に似ているからとしているが、これだけでは理由として弱いのではないか。
 そこでもう少し調べてみると、詳しくはまた、別の機会にゆずるが、早世した家盛は清盛の身代わりで呪い殺されたとのうわさがあった。つまり、池禅尼にすれば、清盛には貸しがあったのだ、だから、頼朝をとおして、わが子家盛がいたことを、また今こうしてあなたが居られるのは、誰のお陰かと清盛に再認識させたかったのではなかったか。
 また、頼朝の流刑地についてであるが、清盛サイドからすれば遠方の伊豆国にしたのはまずかった、もっと都に近いところ、監視の目の届くところにすべきだったろう。
 もっとも鞍馬の牛若丸の脱出を許すようでは、都の近くでも意味がなかったかも。
 清盛にすれば、助命してやったのだから、よもや自分に刃向かうとは考えてもみなかったのだろう。このため監視役はあったのだろうが形骸化していたとは考えられないか。清盛は今となっては人が良すぎたのだろう。
 余談になるが、清盛と比べ頼朝は義経をはじめ身内の者も多く始末して非情の武将と云われているが、池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後も彼女の息子である平頼盛を優遇し、平氏滅亡後も頼盛の一族は朝廷堂上人及び幕府御家人として存続させている。頼朝にもこの様な面があったのだ。

 こうして助命された常盤の3兄弟の今若は醍醐寺に、乙若は園城寺に預けられ、子供のうちに僧となった。牛若は、4歳をすぎた頃に京都の山科に住む源氏ゆかりの者に育てられた。7歳(11歳との説もある)になったところで兄たちと同じように僧にするため鞍馬寺に預けられた。
 鞍馬寺は平安京の北方鎮護の寺として、尊崇されていた。常盤は、牛若を義朝の祈祷師(きとうし)だった東光坊の阿闍利蓮忍(あじゃりれんにん)に託した。
 牛若は読書をよくし、仏教や儒教を学ぶなど、学問に明け暮れる毎日を過ごしたと云う。
 そして15歳になると稚児名を「遮那王(しゃなおう)」と改めた。





     牛若と天狗
 ところが、ある夜牛若のもとに聖門坊(しょうもんぼう)と名乗る僧が現れ、牛若が平清盛に破れた源氏の大将義朝の子であること、牛若の兄源頼朝が今伊豆の国に流されていること、さらには、源氏代々の武功などの話しを聞かせた。
 16歳になっていた牛若は自分が源氏の嫡流(ちゃくりゅう)と知り、兵法書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」まで読みだし、ますます剣術の修行に励むこととなった。
 この頃を境に平家討伐を一途に思うようになり、ますます武芸に身をやつすようになった。
 夜になると密かに寺を抜けだし奥の院にある僧正ヶ谷(そうじょうがだに)へ行き、近くの貴船神社に「平氏を倒し、父・義朝の仇を討ち源氏を再興させる」と祈願した。
 そして、この地に住むと云う天狗(これはこの地で修行している山伏ではないかと思う)、を相手に、飛んで、跳ねて太刀を振りかざし腕を磨いていった。牛若は、こうして神業とも思える剣術を身に付けていった。
 後年有名な、源平合戦・屋島での「八艘跳び」なども鞍馬山での修行の成果であると云える。





     牛若と弁慶
 そんなころ、遮那王は笛をたしなむようになり、夜になると京の町に下りていった。笛を吹きながら、亡き父・源義朝や、今では平清盛のもとを去り大蔵卿藤原長成(ながなり)に嫁した母・常盤御前のことを思い出したりしていた。
 余談ながら、継父となった長成が義経の鞍馬での扶持(ふじ)を負担していた。

 ちょうどそのころ、京の都では通行人の刀を奪い取る刀強盗が出没していた。なかでも弁慶は太刀を1000本揃えようとしていた。
 弁慶は1年かけて999本の太刀を集めて、あと1本のところまできていた。その日も五条大橋の辺りで待ち伏せしているところに若武者が現れた。遮那王(牛若丸)であった。
 弁慶の「太刀を置いて立ち去れ」との要求に若武者が答えないので、弁慶は力づくで奪おうと大長刀を振り上げた。
 だが、これも鞍馬山で天狗相手に腕を磨いた成果であろう。若武者は、弁慶が大長刀を振り下ろすと素早く身をかわす。大男の弁慶よりも小柄な若武者の動きが早く、ついに弁慶は根負けした。
 そして若武者が源氏の流れをくむ遮那王(牛若丸)と知り、家来になることになった。
 これが、遮那王(牛若丸・後の義経)と弁慶の運命的な出会いの場面であった。そして2人は最後まで運命を共にすることになるのである。




     源義経 につづく 
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